フォーラムのフォーラム

佐渡手仕事フォーラム

2006年11月25日 13:30〜16:00 
会場:佐渡奉行所
(新潟県佐渡市相川広間町1-1)

同時開催:中川原信一氏のアケビツル細工実演

手仕事フォーラムメンバーや裂織りの織り手が参加した公開シンポジウムの記録を基に再構成したダイジェストを掲載します。全記録は『SILTA』10号に採録しますのでご購読ください。

佐渡手仕事フォーラム 公開シンポジウム「地域を活かす」

柳平則子(相川郷土博物館館長・佐渡生活伝承研究会):私は博物館に長く勤め、今は現場を離れてしまっていますが、織物の伝承活動を30年やってきました。佐渡の北海岸にある生活習俗、シナ布、フジ布といった自然繊維の織物、古い木綿を再利用して作る裂織りといった収集品について国の重要有形民俗文化財の指定を受けたのが昭和51年。20年ほど前には体験学習施設である相川技能伝承展示館が開館しました。その頃久野さんに会って民藝館展に出すことを勧められ、裂織りのコタツがけや半纏を出品し、平成14年に日本民藝協会賞をいただきました。生活伝承として裂織り活動を続けてきたことは間違っていなかったのだとひと息つきました。
しかし、生活がこれだけ変わると、今度は裂織りをどのように生活の中にもう一回取り込み、生活の中に生かしていくかを考えなくてはなりません。人間国宝などと違って個人ではなく、団体で地域に根付いたものとして指定されていますので、どうやって継続するか、体制作りが今の課題です。このフォーラムで私達の進む方向も含めてご教授いただきたい。

佐渡大橋正芳(司会・手仕事フォーラム):ありがとうございました。次に、私たちの仲間で奉行所の復元に携わった若き棟梁に話を聞きたいと思います。
佐々木利幸(手仕事フォーラム):久しぶりに相川に寄せていただきました。平成13年ぐらいの工事から毎年奉行所の復元工事に携わり、何度も相川におじゃましています。御役所の工事は平成10年か11年になりますが、富山で下拵えを手伝っていました。平成16年に解体、復元修理された鐘楼の復元工事もやりました。私は暮れから年明けに来ることが多く、富山に住んでいるので寒いことには慣れていますが、さすがに海沿いの崖っぷちで下から巻き上げる吹雪の中で毎日仕事をするのはいい修行になりました。
ぼくが日常生活の中で感じていることを言わせてもらうと、自分は人として生まれ、生きていくことには何らかの役割というのがあると思うのです。僕の場合は仕事をするということです。仕事というのは単に生活のためでなく、人としての役割を果たすというか、健康に暮らしていくというその毎日が、人としての仕事なんじゃないかなと思います。人間も本来は自然のものだから、人が作るものも人工ではなく自然なんじゃないかと思います。人の一生は大自然の中から見ればほんの一瞬の出来事で、ひとつまみにもならない些細なことだけど、その一瞬一瞬の積み重ねが社会全体の土台、基礎になり、世の中、社会、歴史、伝統といったものを作り上げていると感じます。その一瞬を人として生きてるんじゃないかな、と。私もそういう伝統の中で生きています。伝統の上に立ってしか成し得ない宮大工という仕事をしているので、自分の好みとか自分のカラーを出せません。受け継がれてきたもの、その土台の上に立ってしか、本来伝統的なものは作れないと、日常の仕事の中で感じている。
佐渡土台というのは知恵と言い換えられるんじゃないか。知恵というのは、技術と精神が均衡のとれた状態で働いていないと発揮されないと思います。技術だけあっても、小手先だけの仕事、作業にしかならない。また、精神、思いばかり先走りしても技術が満たされていなければモノは作れない。技術と精神の均衡がとれた状態でものを作ることが大切だと思います。僕のところにも年に何人か大工になりたいと若い子が来るけれど、大工さんになりたいという気持ちはあるけれど、仕事としてプロの職人になっていくという意識がない。知識ばかり欲しがる、知りたがる子が多い。そこが最大の課題なんじゃないかと思っている。
仕事においても生活においても土台になっているのは、言って見ればふるさとみたいなもんじゃないかと思っています。そういうふるさとを大切にしながら、今回のテーマ「地域に生きる」ということをいつもよりも深く考える機会になればと願っています。
大橋:今回の結論めいたものが出てしまいましたが、次に早くからフォーラムで一緒に活動し、新潟県庁にお勤めで、地域でもいろいろ活動されている後藤さんからお話いただきます。
佐渡後藤一安(手仕事フォーラム):私は島の出身で野浦の生まれ、母も父も野浦出身です。その後親父の仕事で群馬へ移り、東京で民間企業の営業マンをして、その後公務員となりました。最初に担当したのが伝統的工芸品産業だったのが縁です。伝統的工芸品産業というのは経済産業省が後押ししていて、100年以上の歴史とか、産地を形成して一定以上の生産量があるとか、ある範疇に入るものだけを取り上げます。国は一生懸命応援してるんですけど。
先端の技術を使うとか海外に生産を移すとかの時代の一方で、手仕事は保存、保護するということばかり。よく目を凝らしてみると、素材的には食べるものにせよ、生活で使うものにせよ、いろいろな素材があるのに、地域に軸足を置いたコーディネーターがいないので、せっかくのいい素材が産業になっていない。そこをなんとか地域資源を生かし、昔から伝え続けられている技術、手わざを生かして産業化し、稼げる方向にもっていけないものかと仕事の中でもチャレンジしているのですが、予算などなかなか難しいのが現状です。こういう場で皆さんと一緒に考えていければと思います。手仕事が誇り高い新潟の産業になるようになんとか頑張りたいと思っているので、ひとつよろしくお願いします。
大橋:ありがとうございました。去年は鳥取の紙の産地である因幡のお寺「願正寺」で盛大なフォーラムを主催して大成功を収めました。今日はその住職、衣笠さんがいらっしゃるので、そのお話をお願いします。
衣笠告也(手仕事フォーラム):昨年手仕事フォーラムを当寺院で開催する機会に恵まれました、結論を先にお話すると、地元の地域から参加された方々のほうが発見が多かった。うちは因州和紙という紙を漉く方々が沢山いて、減ってはきましたが年配の人は少なからず携わってきたもんです。多くの方が生業として紙漉きをやってまいりましたが、生業ですから紙について深く考えてはこなかったのです。フォーラムを通じて、そう言われてみればこの紙漉きには価値があるな、色んなことを考えないといけないなという発見ができた。生業ということは生活がかかっているので、需要も減って売れなくなっている今、みな色んなことを考えるようになるわけです。売れる紙を作ろうとして原料にパルプを入れて西洋紙なのか和紙なのかわからなくなるとか。
伝統という言葉がでてきましたが、長い間培ってきたものを継続しておかないとまずいです。自分たちの中における姿勢というのを、ポイントを定めていくことが必要なのかなと。去年のフォーラムは地元のほうが考えさせられたり、発見があったりしたと、大変感謝をしております。
大橋:具体的な話に入っていきたいのですが、コーディネーターとしての久野さんに、手仕事フォーラムを発足したのも彼ですし、裂織りや佐渡について話をしてもらいたいと思います。
佐渡久野恵一(手仕事フォーラム代表):手仕事フォーラムというのは横のつながり、ネットワークです。私は学生の頃に宮本常一先生の下で学び、その頃には憧れの佐渡だったのです。そして初めて来た時に出会ったおばあちゃんが僕らを非常に大事にしてくれたもので、佐渡の人情に惹かれてしまった。おばあちゃんの裂き織は古い藍の木綿を使っていたが、当時既に材料を集めるのが島内では大変で、藍の木綿はもうなかった。その当時から私は日本各地を回っていたので各地の情報を知っていました。骨董屋さんでは既に古い久留米絣が高くなってはいたが、骨董屋に買われる前の廃品回収のボロ屋さんがあると人づてに聞き、行ってみたら藍の布が山のようにあった。絵絣が欲しくて行ったのだが、キロ何十円という値段でボロ布を山ほど積んで佐渡へ持っていっておばあちゃんに織ってもらっていた。コタツがけや敷物などあまりにいいものなので、売るのが惜しくなって自分の家が敷物だらけになったりした。その後、おばあちゃんが亡くなってからは縁が切れてしばらく佐渡に来ていなかったが、民藝協会の役員になったときに民藝調査の一環で来て、故宮本先生に縁のある柳平さんと出会った。以来十数年間お付き合いをさせていただいているのですが、材料入手の問題、どうしたら古い藍木綿のいい材料を手に入れて織っていただくかということがずっと課題としてあります。
佐渡柳平:30年前、博物館の学芸員になりたいと思い仕事を探していたところ、相川で宮本先生が調査をするというのでついてきたら、ここに空席があったので就職した。務めて当初の仕事は、織物資料の収集とカードの作成を2年やりまして、国の重要文化財の指定を受けました。民俗文化財だったので、隔離保存ではなく使いながら作り方を覚えながら保存する伝承活動です。技能伝承展示館という体験施設ができまして、その施設の中で地元の人たちに習ってもらおうということをやっており、普段の生活の中で織って使う人が増えて嬉しく思っています。一番の問題は材料となる藍木綿がないこと。あっても裂きたくない木綿となっている。今ここに敷いているのはお祭りの獅子の胴部分が要らなくなったときに作ったもので、これは「素材が作った」といえる裂織です。中国の印花布や、川越木綿のB級品を業者の方が送料だけでいいと送ってくださったりしました。今ある材料で作るしか方法がない。純粋な木綿もなくなりつつあります。山にあるシナとかフジとかも採って使っているが、量産ができません。技術的には努力をして、糸を紡ぐ技術はかなりの人もいます。商品化というのとは別の意味ですが後継者は育っています。
大橋:どこまでが純粋に伝統的なものかというのは非常に難しい。一つには技術、一つには材料。作り手の問題ではあるのだが、素材がないという問題でもある。例えば棟梁はここを建てた時の材料は?
佐々木:伝統的なものを残すという意味で全て国産の木材を使った。お金があっても手に入らないものはある。世界最大の本願寺に使われている柱など今では手に入らない。材料の問題というのは本格的にやろうとするとかなりのコストをかけなければできない。
大橋:今いちばん手に入りやすい材料にはどういうものがありますか?
柳平:旅館の浴衣なんかもありますが、ちょっと前までは木綿地だったのが、最近はポリエステルが入ってたりで。布団皮もサテンばかりになりました。大量に手に入るということはなくなってきている。
大橋:今日は裂織りの関係者の方がいらっしゃるので、実際作られていて感じたり、考えたりしていらっしゃることがあると思うのですが、いかがでしょうか。
佐渡織り手A:最初は友人からもらった藍のものでやっていたのですが、どんどん材料がなくなった。子供のおしめやシーツをインディゴで染めてみたり。おしめが一番よく染まるんですよ。でも、色が古いものにかなわない。おしめを所々絞って染めてみたが、作為が出てきてしまったり。新しい素材で作って生かすということもあります。
大部優美(手仕事フォーラム):河内村という村にコツラ(またたび)細工があった。アケビより白くてもう少し平べったく、米を洗うときの笊などが昔から作られてきました。プロかというとそうではなく、お勤めをしながらとか、冬の間に何週間か興味がある人に教える教室があったりしてアマチュア的にやっていた。しかし、これはいいものだと久野さんがハッパをかけ、昔ながらの笊やら箕やらを民藝館展に出して入選したりするうちに、段々プロ意識が出てきた。材料は冬になる前に山に入って、ぐつぐつ煮てと作り始める前の下準備から大変なんだけど、昔ながらのことをやりなさいと、その単純なシンプルに作ったものを都会の人が評価してくれたと、老人たちは嬉しく思い、元気付けられ、今現在も続けていただいているということがあります。
大橋:アマチュアで始めても、実際やっていったらよい作り手になるということがあります。作り手のセンスによっては。それとプロデューサーの存在ですね、今の生活にあった形、現代の生活に引き寄せていく、ということができるのではないかと思います。
(休憩)
大橋:アマチュアかプロか、技術か材料か、人がどういうふうに関わっていくか。今までの日本の手仕事は100%プロだけによって伝えられてきたわけではない。農業の傍ら兼業していた作り手も多い。という話を富山の建築家、吉田さんお願いします。
佐渡

吉田芳人(手仕事フォーラム):この奉行所を見て大規模な復元を支えた人たちが力をかけた成果が出たんだと感動しました。保存というのはどこまでを保存というかという話に必ずなる。建築というのはもともと常に手を加えながら形を変えている。その使われる用途が変わればそれに伴って常に姿を変えます。用途、生活スタイルによって変わるのが当たり前なんですね。凍結保存ではなく、生かしたたまま保存するというのがある。佐渡の宿根木の街並みはだいぶ荒れていたのを国の伝統建築物の指定を受けて復興したものだが、今日歩いていて思ったのは、作られた部分が多くて生活の実感がないんですよね。生活感のない街並みというのは見に行ってもおもしろくない。生活している人がいる街並みを見に僕らは行くんだなと。
手仕事ということで言えば、生活も変われば使い方も変わるわけで、それにあわせた作り方、技術的なアイデアを共有しながら、作り手がアンテナを四方八方にめぐらせながらものを作っていかないといけない。伝統を守るためだけに人はものを買わないですから、やはりそのものに美しさがなければならない。兼業、専業という話で、農家で作る箕など昔の人たちは兼業のプロだったんですよね。どちらもプロでなければいけないのじゃないかなと私は思いました。

佐渡織り手B:高校まで島にいて、島外に出て洋裁をやりまして、佐渡には裂き織りがあるじゃない、と言われて初めて知りました。30数年たって60歳を過ぎて島に戻ってきて、裂織りを始めてまだ3年です。知る機会と教えていただく機会がなければ出会えなかったので、そのチャンスがあればいいなと。それをその後自分で生かしていくことを考えたいです。ずっとやっていけるかその答えはまだ出せないが、自分は知りたいと思ってここに来た。
大橋:知る機会として伝承館があるというのは重要ですね。
織り手C:習い始めて20年くらいになりますが、数はこなしていません。趣味のかたわらすこーしだけお小遣い稼ぎをさせていただいています。時間とれるときに織っています。布は旅館の浴衣や布団などをいただいたものを沢山持っているが、サテンや化学繊維が入ったものは織りづらく、最近は古着屋に出かけて気に入ったものがあれば求め、素材として使っている。裂き織りは面白いというより楽しいと思っています。

佐渡大橋:いいものを作りたいという思いは?
織り手C:いいものは作りたいですが、素材が。十年くらい布団をためてやっと敷物を一枚。良い布と他のものをあわせたくなかったので、一年間ためて一枚というペースでやっています。
織り手D:佐渡生まれ、佐渡育ち、相川に嫁いで30年になります。柳平さんとの出会いで裂き織りの伝承を知って、自分も裂き織りが大好き。東京に行くときにも持っていって宣伝してます。主人が職人だったので、仕事やめたときには羽織をあげたいです。自分でやったら、とてもとてもこの値段ではできないと思っている。やっている人たちは大変だけど、欲しい人がいるから頑張ってやってほしいです。
大橋:手仕事フォーラムは作り手を元気にしたいということもありますが、作り手と使い手をつなげたいという思いもあります。手仕事の存命というのは、作り手、材料をどうやって残すかだけではなく、使い手、買い手がいないと、誰も求めなくなるとどうしようもない。橋渡しする役割を果たす人が少なくなってきています。私たちの会誌であるシルタというのはフィンランド語で「橋」です。橋渡し、という意味を込めています。さて、中川原さんの仕事も佳境に入ってきています。

佐渡

久野:今、中川原さんの仕事の一番肝心なところです。モノには命となる部分があって、中川原さんは最後のフチ巻の仕事にかかっている。本来アケビのフチにはこういう巻き方はしなかったのだが、ザルブチ(=矢筈巻)という巻き方をアケビの口に応用したんですね。本来は返しブチというやり方だったのですが、民藝に関わった人たちからのアドバイスがあったのか、今、ヤマブドウなどもこの矢筈ブチ、ザルブチという巻き方です。フチの巻き方で上手い、下手がよくわかります。中川原さんのフチのまき方は、本当にしっかりしています。
今日は長時間ありがとうございました。この3年間、フォーラム会員と地域の方々が、公開フォーラムを通してお互いを支援しあうことをやってきました。手仕事フォーラムの側は、常に飛躍を求め、自らのやることを掴んでいくことを目指しています。
これまで民藝運動の柳宗悦先生もできなかった、地域に根ざした具体的な手仕事の存続と現代的な暮らしへの道を求めていく活動を、われわれでやっていきたいと思っています。

(記録:指出有子 編集・構成:大橋正芳 写真:大部優美)