Kuno×Kunoの手仕事良品

#001[小鹿田焼のウルカ壷] 大分県日田市 2006.2.10

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 大分県日田(ひた)市の北。福岡県との県境に近い山中に小鹿田(おんだ)皿山と呼ばれる集落がある(皿山とは北九州地域で窯場を指す)。長男が継ぐ世襲制をとっているため、現在、窯元は10軒のみ。しかし昔から現代まで一貫した手作業で日常の雑器としての焼き物がつくられている。陶土を細かく砕くのも唐臼(からうす)という原始的な道具。川の水流を受けて先端の杵を動かし、臼の中の陶土を突き、「ギー・・・・、ゴトン」と谷あいにこだまする。その音は訪れる人の心を和ませ、平成8年に当時の環境庁が企画した「残したい日本の音風景100」に認定。また、伝統を守りながらじっくりと手仕事に取り組む姿勢が評価され、平成7年には国の重要無形文化財保持団体の指定を受けてもいる。

 もともと小鹿田の経済を支えたのは林業と農業。それで飯を食いつつも、現金収入ということで、注文があった時に焼き物を若干つくっていた。当時の注文主は日田の商人。その時代は日田と小鹿田を結ぶ道が無かったために、沢沿いを商人は馬でやって来る。そしてなるべく多くの焼き物を馬に載せて帰らないと利が合わないからと、なるべく軽いものから運んで行った。そうしたニーズに応じるべく、窯元たちは競って軽い焼き物をつくり、技術が向上したのである。窯元の一人、1937年生まれの坂本茂木(しげき)さんの話によると、みんなで宴を開き徳利で酒を呑むと、「なんだ、こんな重い徳利は!」と目の前で徳利が投げ捨てて割られ、下手だから重いのだと言い合いになったこともあるとか。こうして研磨された技術が身に付いていく。その伝統と受注生産という形態は今も変わることがない。

 さて、写真は手のひらに乗るほど小さな小鹿田焼の「ウルカ壷」である。水郷の町として栄えるほど豊かな川が流れる日田の商人が鮎の塩辛(ウルカ)をこの壷に入れて土産として販売しようと、小鹿田の窯元に発注した。ちょうど一合の量が納まることから「一合壷」とも呼ばれる。写真のウルカ壷は私が窯元の坂本一雄さんにお願いて多種多様なバリエーションを生み出してもらったもの。技法は小鹿田の特徴的な技法の「飛鉋(とびかんな)」「刷毛目(はけめ)」「流し」「打ち掛け」そして無地の5つ。釉薬は「白」「飴」「黄」「黒」「青」「薄青」の6種類。つまり30パターンもの「ウルカ壷」ができるのだ。しかし、もともとこの壷が日田の商人から依頼されてつくられた当初はすべて無地で薬は飴のみだった。というのも小鹿田の登り窯(いくつかの室が階段状に山の斜面を上に向かって登っていくような形状をしている)の中では、場所によって火の強い所と弱い所がある。そのために焼けた時に釉薬が溶けなかったり、溶け過ぎたり。流れてしまうことも。薬の種類によって置く場所を選ばないといけなかったのである。ところが飴薬で無地のものはどこに置いても仕上がりに変動がないためにどこにでも置ける。加えて、サイズが小さいから場所もとらず、大きな壷と壷との隙間に置けてしまう。その僅かな空間に口と口を合わせて積み上げられるのだ。そして蓋は別に大量かつ適当につくっておき、窯出しの時に蓋と壷とを合わせていく。その時に合わない蓋があれば、次の窯出しで合う壷があるか、また合わせるというわけだ。こうして効率良くつくってとても安価に出荷したのである。

 私が33年前くらいからこの窯とおつきあいを始めた頃に、窯出しに顔を出すと、一室の窯袋から飴薬のウルカ壷がたくさん出てきて、担いで来てはだだーっと庭に放り投げる。すると嫁さん、婆さん、子供たちが蓋を合わせて50や100という数を集めて紙で包むことなく、紐でくくってその場で荷造り。「これは●●屋さんの」とか言って車に積んで納品する。それはとても不思議な光景だった。片方では民藝品と称して飛鉋や刷毛を打ったりするものが窯から出てきて、民藝店の人たちが都会での販売用にきれいなものを競って選んでいる。その片方でこういった実用品がいまだにつくられているのだから。それは小鹿田ならではの世界。模様、技法をこういった実用品に施すことによって、さらに光を帯び、現代の暮らしにフィットしていく。理想的な手仕事品の原型がまさにここにあるのだ。つくり手自身が自分たちの生活に密着したものを肌で感じ、つくる現場で実用品が生まれてくるということに小鹿田焼のおもしろさがあるのだと思う。

 

(語り手/久野恵一、聞き手/久野康宏  写真/鈴木修司、久野康宏)