Kuno×Kunoの手仕事良品

#010[龍門司焼のコロ茶碗]鹿児島県姶良郡加治木町 2006.11.24


骨董屋で出合った「コロ茶碗」と思われる湯飲み。
これを川原史郎に見せて、後に龍門司焼の定番となる
「コロ茶碗」をつくってもらった

 松本民藝家具の創始者、池田三四郎に託された見本をもとに、龍門司焼の新作飯碗ができた。それから間もなくその飯碗を携え上京した、つくり手の川原史郎を連れ立って、日本民藝館に田中洋子さん(現在は擁子さん)を訪ねた。その頃、彼女は各地の民窯と呼ばれている民藝関連づくりの窯場を最もよく知り、故・濱田庄司さんに焼き物の良し悪しを伝授された唯一の民藝館職員だった。佐世保出身だけにとりわけ小鹿田焼をはじめとする九州の窯場の今昔を知り尽くしていたからだった。それゆえ彼女に評価してもらいたいという気持ちがあったのだ。

 「龍門司焼の焼き物はここ10〜20年の間にずいぶんと変わり、お土産品みたいな粗悪品ばかりで、とても見るに耐えない物ばかりつくっているという噂話を聞いていた」と田中さん。「だから、あなたが窯に行き、こういうものをつくるように助言するのはとても良いことですね。このような飯碗をつくれる人がいるんだったら、ぜひ私も見せたい物がある」と言い、ひとつの茶碗を私たちに見せてくれた。
 それは江戸後期頃だという小さな番茶碗のかたちをした、かわいい器であり、彼女は「コロ茶碗」と呼んでいた。そしてこれは「くらわんか」からきているかたちだという。「くらわんか」とは江戸時代、京都と大阪の間、淀川を行き来する船の中でご飯を食べたり、おかずを入れたり、酒を飲むための雑器類のこと。「メシをこれで食らわんか」という表現から由来した名称である。古伊万里の中でも「くらわんか手」と言われているのだが、安物雑器ゆえ、陶土や釉薬はとりたてて厳選されたものではなく、鉄分を多く含んで粗いつくりだが、用に耐えるために堅固につくられ、また絵付けも「山呉須(やまごす)」と呼ばれる渋みのあるコバルトで染付けられたものが多い。柳宗悦たちが民藝の美を見出した原点ともいえる日用雑器の美が表出されているのである。


龍門司焼独特の釉薬を流した「コロ茶碗」。
さまざまなバリエーションがある

 田中さんに実物を見せられてから、私は「コロ茶碗」が気になり、骨董屋へ行くたびに探したものだった。ところが骨董屋の主たちの多くは「コロ茶碗」の存在自体を知らない。しかし、そば猪口と並んで出てきたのだろうから、目には触れているはずだ。そんなある日、ある地方の骨董屋で江戸の幕末期につくられたと思われる「コロ茶碗」に出合うことができた。手に取ってみると、大きさといい、てらいのない絵付けといい、実感としてこのかたちを取り入れて陶器でつくったものが龍門司焼きの茶碗になったのでは、と思うのだった。当時の鹿児島(薩摩)では磁土が採れなかったため(幕末から明治初めの一時期には平佐という磁器物がある)、その物を陶器でつくらざるを得なかったのではないか。
  磁器は絵柄を染付けするが、龍門司の窯には絵付けが無いので、釉薬を流すことで絵模様の雰囲気を出したのだろうと思ってしまう。龍門司焼の特徴は、緑釉や飴釉を流し掛ける草「三彩流し」。もしかしたらその技法が発達するきっかけは、絵付けの変わりに釉(くすり)を流すことにあったのではないかとまで私は考えてしまうのだった。「コロ茶碗」のつくられていく過程から、そんな推測もできるのである。もっとも「コロ茶碗」を陶器でつくりたいという、その当時の誰かの注文が結果として磁器から陶器に置き換わることで、優れた生活雑器をつくりだしたともいえるのではないだろうか。

龍門司

緑の釉薬を掛けている川原史郎

 その後、私は民藝館にあった「コロ茶碗」の寸法を測り、撮影やスケッチをさせてもらい、川原に製作を頼んだ。それで、川原が初めてつくった「コロ茶碗」を田中さんに見せたところ、大喜びし、「すぐ民藝館展に出しなさい」と言う。そして見事に民藝館展で入選し、その後は「コロ茶碗」イコール「コロ湯飲み」として、いつの間にか昔からあるがごとく龍門司焼の定番商品となったのである。 その頃の民藝館展は、審査員には優れた専門の名が知れた先輩たちがおられ、会場に並べられること自体が意義を感じたものだった。ここ10年の民藝館展のありようから比べれば想像もつかないことである。
「コロ茶碗」の造形はその名が示すように、コロっとしていて、酒や茶を飲むのにとても具合が良いかたちだ。鉄分の強い赤黒みかかった生地の上に、白土を載せて化粧掛けすることで生まれる独特の白色が実に温かみがある。ちなみに、混ぜ合わせの無い化粧土を使っているのは、日本各地の窯場でも龍門司焼だけである。霧島白土と薩摩半島・山川カオリ(石英を主鉱物とし粘土鉱物のカオリナイト)を混ぜ合わせた白土で、焼くとこのように温かい、卵白のような色になる。その上に緑飴を流すことで、特徴ある風合いを醸し出せるのだ。
  この釉の流し法も独特である。緑釉はかつては織部系色でやや透明感があった。今は失透釉の青地釉で施釉の際、流れやすいためシュロ毛を束ねて細い竹筒にくくり筆のような道具にして用いて器物に直に振りながら落とす。飴釉はスムーズに定着するので、割り箸のような平たく薄い細めの板棒に釉をからめて同様に振りながら掛ける。これが重なると、「三彩流し」となる。これが今も唯一、伝統として残る龍門司焼三彩と言われているものである。その後、この三彩だけではなく、黒釉に白釉を流し掛けたり、胎土に白土、その他の釉を掛け流したものなど、特徴ある流し掛けの技法を駆使して、さまざまな「コロ茶碗」をつくり出してもらった。今は、息子の竜平君が受け継いで、この仕事に取り組んでいる。この伝統はまだまだ続いていけると確信している。

 

(語り手/久野恵一、聞き手/久野康宏)