Kuno×Kunoの手仕事良品

#011[中川原信一さんのあけび蔓編細工]秋田県横手市金沢町 2006.12.28

 あけび蔓(つる)細工のつくり手、中川原信一さんの父、中川原十郎さんに出会ったのは、33年ほど前、民藝店を始めようと思い、全国各所を回っている時だった。その時期(昭和47年)に新宿の小田急デパートで「秋田県の観光と物産展」をやっていて足を運んだ。当時はお土産品が多い今の物産展と違って、手仕事の真面目な品もそうしたイベントにわりと出ていたので、物産展を見るのも好きだったし、情報もとれた。 この会場であけび蔓細工の製作を実演していたのが、中川原十郎さんだった。私は山形県月山(がっさん)や会津、あるいは青森県弘前地方、また、長野県野沢温泉のあけび蔓を剥いた皮で編んだカゴなどを見て、あけび蔓細工がどのようなものかは承知していたが、つくり手のことはあまり知らなかった。


現在、信一さんがつくっている、手提カゴ

 中川原さんの手さばきの早さ、集中力の凄さにとても驚き、惚れ惚れと、しばらく眺めていたのだった。興味深いものだから。座り込んでじっとそばで見ていると、中川原さんから「若いのに熱心に見ているな」と声を掛けられた。私は「こういうものはどこで売っているのですか?」など、初歩的な質問を多く投げかけたら、十郎さんは「お前、何も知らねえんだな。でも、お前はずいぶん熱心だから、今度俺の家に遊びに来いよ」と言ってくれたのだった。彼はとても気さくで、見るからに頭が良さそうな人だった。 私は十郎さんが手にする、あけび蔓の活き活きとした明るい茶色にすごく惹かれた。そして、たわわで弾力性に富んだ編み方をしてつくられていく造形的な物に心を奪われたのだった。他のあけび蔓と異なり、何か心を打つものがあったから、ぜひこの人の所へ訪ねてみたいなと思った。 そんな想いはありつつも、当時、まだ車の免許を持っていなかったので、なかなか行くチャンスはなかった。

 その頃、私は店を出す以前で、各地で買い付けてきたものを卸し販売していた。その取引先の東京の「B民芸店」のOさんともに、秋田の仙北地方など東北各地を仕入れもかねて旅行する機会を得た。Oさんに、そのついでに中川原さんの工房を訪ねようと提案すると、「いや、あそこに行っても、何も手に入らないから」と言われた。注文しても頭から駄目だと言われてしまうし、つくる量が限られているから断られてしまう。一人で製作しているため、それを全国の民藝店が求めてくるのだから、新参者がお願いしても、それは無理な話なのだという。私は、「このあいだ会って親しくなったから」と、せっかくだから行きましょうと促したのだった。
 雪の中、タイヤにチェーンを履かせて道に迷いながら、なんとか中川原さんの家にたどりついた。すると、中川原さんはつい先ほど、東京から4軒の民藝店の店主が一緒に来て、全部持って行ってしまった、何も品物は無いと言う。そして私を見て中川原さんは「お前のことはなんとなく覚えている。『B』は前、俺の所に来たけれど、断ったよなあ」と。あまり付き合いの無い奴に品物を出せるわけがないとOさんを一喝していた。ただ、今度、東北に来ることがあったら寄ってみな、とは言ってくれたのだった。


手提カゴの原型となった、背負いカゴ「コダシ」

一升瓶を運ぶための「ビンサゲ」。
花入れカゴなどに転用できる

 私は、やっぱり中川原さんの所へ行きたくて仕方が無かったから、免許を取った翌年の夏頃、再訪した。毎日、中川原さんはつくっているので、取り置きもあったが、その時も他店からの注文品で取りに来るのを待っているとのことだった。「注文品なんだけど、せっかく来たんだから、まあしょうがねえな、やるべ」と、3つほど頂いたのだ。で、「きのうはお前、どこの宿に泊まったんだ?」と聞くから「いや、宿なんかに泊まれるわけがないじゃないですか?
 車の中で寝ました」と答えると、十郎さんは驚き、「お前、若いのに元気よく頑張っているな。実はお前と年が変わらない、俺の息子も頑張っていてなあ、この仕事をやるかどうか、迷っていて、今は東京に出稼ぎに行っているんだ。息子が帰ってきたら、酒でも飲みながら話をすればいいじゃねえか」と言ってくれた。

 当時、中川原さんがつくるものの中でも、手提カゴが引く手あまただった。当時、スーパーでポリ袋に買ったものを入れるのではなく、八百屋など商店に買い物かごを持って行っていた頃、経済的に余裕のあるレベルで、物好きな奥様は、中川原さんのつくる手提カゴを欲しがったのだ。ちょっと上等な質の高いカゴを持って行くのは、お洒落な気分を味わえるとずいぶん人気があって、とにかく民藝店に置けば、右から左へ売れた時代だった。
 私は、中川原さんがどこで習ったのか、興味があったので尋ねると、隣の仙南(せんなん)村の野際(のぎわ)という所にあけび蔓を農家の副業としてつくる人がたくさんいたという。そこで技術を覚え、終戦後、戻って来て婿養子になって、現在の金沢(かねざわ)町に移り、あけび蔓細工を副業でつくっていた。そのうち高い技術が評判となり、あちこちの荒物屋に卸すようになった。この頃まで、東北地方の農家の人たちは、農作業用のカゴやざるなどは荒物屋で買うのが当たり前だった。
 私が「B民芸店」の奥村さんらと秋田の湯沢に行った時には、盆踊りで有名な西馬音内(にしもない)という地域に荒物屋の「佐藤仙之助商店」と「文吉屋」があり、この2軒それぞれの店に対して野際のあけび蔓製作者がいて、春先に品物を渡すのだとか。そのつくり手の中でも抜群に中川原十郎さんは上手だったものだから、なんとなく知れ渡っていき、独自でやれるほど有名になり、副業でなく専業になったと聞いた。
 それは民藝ブームという時代の背景もあったけれど、中川原さんのもとへ全国の民芸店が買いに求めるようになった。かといって、中川原さんは作家ぶって、えばるわけでもない。ただし、口は悪くて、辛辣なことをズバズバと言われたけれど、私には行動形態は気に入られて、親密につき合うようになったのだった。

 民藝ブームの以前、秋田仙北地方では、あけび蔓細工は「コダシ」「ビンサゲ」が中心だった。「コダシ」は大きいものから小さいものがあって、底の長さが尺6〜7寸から8寸、大きなもので2尺。奥行きはこの長さとのバランスや蔓の太さで決まる。小さな「コダシ」はたとえばキノコを入れたり、大きい物は山に行って葉っぱを入れてみたり、肥料を入れたりする。農作業用のカゴだった。 「ビンサゲ」は瓶を持ち歩くためのカゴ。明治頃から瓶が日本でも製造されるようになるが、当時、瓶は非常に貴重品だったので、ふんだんに使えない。だから各家で持っている一升瓶を携えて、酒屋へ酒やしょう油を買いに行く。東北の昭和20年代頃の民俗資料の中に、雪の中、蓑(みの)を背負った人たちが一升瓶を「ビンサゲ」に入れて、持って歩くシーンが写っている。花入れのカゴに見えるかもしれないが、一升瓶を入れるカゴだったのだ。
 また、東北地方は焼き物の産地が少ない。粘性に富んだ陶土が東北地方には少なく、とくに徳利などは上を引き延ばす形状のため、土に粘りがないとつくれない。焼き物を水挽(みずひき=手に水を付けてロクロで成形すること)するのに、冬場の東北では水が凍ってしまうから不可能ということも焼き物が少ない理由でもある。九州に行くと、瓶が無くても陶磁器の徳利があるが、産地が少ない東日本は焼き物を持ち得ない。せいぜい益子までで、益子から北になると、焼き物が瓶の代わりにというわけにはいかない。それゆえに瓶は非常に貴重品であり、「ビンサゲ」に瓶を入れて持ち運びするわけだ。

ツヅラカガイ
 31年前に中川原十郎さんから強引にもらってきた、特製の手提カゴ。倍の値段を払うと言ってもつくれない手間のかかるもの。手が付いている部分のつくりが違う。むろんずっと壊れることなく、現役で母の買い物カゴとして活躍している

 ここで何より大事なポイントは瓶を提げるカゴのために、手を付ける技術がすでにあったということ。買い物カゴをつくるために付けた技術ではなくて、「用」から出てきた技術ということなのだ。
 カゴに手を付けるのは非常に難しいこと。同じ素材の物に手を付けるということは、素材自体に粘りが無いといけない。「ビンサゲ」の技術が元来あり、伝統として継承されていたからこそ、「コダシ」という物に手を付けることで、買い物カゴになれたのだ。そもそも買い物カゴなどは、都会の生活のための物で、地方の人は手に提げずに、背負ったり、腰に下げたりする。そのために腰に提げる部分に輪が付いている。この輪にヒモを通して背負ったり、小さなカゴは腰に提げていたのだ。民藝ブームになって、「コダシ」のような物を現代の生活に転化しようと生まれたのが、手提カゴだった。

 中川原十郎さんのもとへ、半年後に再び訪れた。その時には、息子の中川原信一さんが出稼ぎ先で今の奥さんにめぐり会い、秋田に連れて帰ってきて、新たな生活を始めていた。十郎さんは息子の嫁さんにプレゼントしようと、一生懸命つくった手提カゴを私に見せてくれた。それは手を付ける部分に、現行の物と違って輪がカゴの縁に取り付けられていて、その輪(リング)を持ち手がしっかりと、さらに取り付けられている。持ち手はまた二重巻きにもなっていて、いっそうと耐久性が優れる特製品だった。私は一目で惚れ込み、欲しいと抱きかかえてしまった。「これは大事な嫁にあげるものだからと駄目だ。お前はどうせ売っちまうんだろう?」と十郎さん。「冗談じゃない、こんなに良い物は自分で持っていたい」と反論すると、十郎さんは「お前、女じゃないのに、こんな物を持っても買い物には行かないべ」と言う。そこですかさず私は「いやあ、俺は母一人、子一人だから、お袋にプレゼントしたい」と言い、強引に持って帰ってしまった。母に贈りたいというのは口実で、自分で持っていたいと思ったのだ。とはいえ、カゴは使わずに、置きっ放しにしていたら、ホコリなどを吸収して汚く変色してしまうので、その後、母に使わせてあげているのだ。

ツヅラカガイ
三つ葉あけびの弾力性を活かしてつくった丸いカゴ。
太い蔓は大きなカゴづくりに用いている

 やがて十郎さんは信一さんと二人で仕事をするようになった。この、あけび蔓は一人では仕事ができない。まず、材料を取りに行き、取ってきたら、それを干さないといけない。そして、干したものを編む前の日に水に戻して柔らかくして編まないといけない。
 編む時には、腰を立てるふうに組み合わせでつくっていく人と、縁を巻く人、手を付ける人がいる。この一連の作業をすべて一人でやっていたら、とても時間がかかってしまう。各パートごとに分担していけば効率が良くなる。たとえば、奥さんが手を付ける。あるいは腰立てをつくるというふうに、茶の間に座って、家族労働で分業にしていくのだ。同じ物をいっぱい並べておいて、流れ作業でつくっていく。腰を立てていれば、こっちでは縁を巻いていく。中川原さん一家はこの効率の良さをうまく利用してつくっていくようになった。というわけで、信一さんが帰って来て、生産量が飛躍的に伸びた。かといって生活が楽になるわけではない。あまり単価を上げてしまうと美術品になって売れなくなってしまう。というジレンマに陥いながら、この仕事をしなくてはいけない。だから、ある意味、不当な労働対価を強いられていて、本来は専業というより農業の副業で農閑期につくることしかできない。専業でやっていくためには、かなりの数をつくらないといけない。ということは、手早く編める人でないといけないし、そういったことに自分自身が好きでのめり込んでいる人でないと、この仕事は続けられない。昭和40年代くらいから、生業として、カゴ、ざる類を編む人が日本で消えていくのは、そういう事情もあるわけだ。美術品に転向してしまい、こういったカゴを1個、5万円、6万円で売れれば、生活が成り立つけれど、1個1/3くらいの値段になると、そうはいかない。だからといって、高くしたら一般の人が持たなくなり、一部の人の物、趣味の物になってしまうのである。また、逆に買い手が限られてしまい、やがて販売も衰退化する恐れがある。 信一さんはお父さんの薫陶(くんとう)を受けているものだから、かなり頑張ってこの仕事を続けてくれている。十郎さんは10年ほど前に亡くなられたなんだけど、非常に上手な人だったし、アイデアマンであけび蔓の素性を非常によく知っていて、その素性を活かした新しいものをどんどん生み出していった。
 その素性とは、あけび蔓は3つの葉をもった、「三つ葉あけび」と、5つの葉をもった、「五つ葉あけび」の2種類に分かれる。三つ葉蔓の方が粘性に富んでいる。しかし、地域によっては、五つ葉蔓しか採れないところもあるし、三つ葉しか採れないところもある。たとえば、青森県弘前地方はあけび蔓の産地で、今でもたくさんつくっているが、ここは五つ葉蔓を使う。五つ葉は弾力性が無いものだから、中川原さんのつくるカゴのように、円形のものを自由自在に操っていくわけにはいかない。型にはめて編む。それゆえ、直方体的な型にはめて、蔓をぐるぐる巻いてつくることになる。青森では民藝ブームのあおりで、一時あけび蔓を乱獲し過ぎて、不足したこともあった。あけび蔓を半分に割いて、割いて白くなった部分を着色して編んだものもつくっていた。半分にしているわけだから弱い。おのずと粗雑な物になるわけだ。青森県のあけび蔓細工は、そのために魅力に乏しいカゴが出回ってしまった。特にそれに気がつかないメディアが取り上げ、ギャラリーなどで展示会も催していたこともあったが、この頃はあまり聞かない。

ツヅラカガイ
 もやい工藝にて、あけび蔓細工の製作風景を披露する中川原信一さん

この技法は「寄せ編みつくり」と呼ぶ。
手さばきの速さにただただ見とれる

なんと製作の合間に掛け唄も聴かせてくれた。
美声に聞き惚れながら、信一さんの誠実な人柄の虜となった

 20年くらい前から、買い物カゴが売れなくなった理由のひとつには、スーパーなどの食料生活雑貨の店などがポリ袋を使うようになったからである。そのためカゴを持たずに買い物に行くようになった。すると、つくり手も呼応して買い物カゴ以外の物もつくらないといけない。そこで現代の生活に合わせて考え出したのが、太い蔓を活用してつくる大きなカゴ、細い蔓を取り揃えてつくる小さなカゴという物たちだ。自分で考えるだけでなく、籐(とう)細工の本が随分出ているので、そこからヒントを得たり、お客さんの方から、こんなカゴをつくってくれないかと注文もたくさんあった。しかし、副業でつくっている人にはそういったニーズに応えられない。中川原さんの家のように、専業でやっていれば、勉強もしているし、つくる量も違うから、対応力がしっかりしている。そのため、それらを取り入れてつくっていくことができた。現在のように丸いカゴをつくり、それに手を付ければ花カゴみたいな物にもなるし、あるいはドライフラワー入れや、マガジン入れをつくってみたりする。中川原さんの使う三つ葉あけび蔓は、弾力性に富んでいるから、膨らんだエネルギーが吹き出すような丸いかたちをさまざまに造形できる点に魅力がある。つまり素材の素性を上手に利用したものを多くつくっているのだ。信一さんは誠実な人で、技量を持った人。実力と性格が一致している上、常に横に十郎さんという名人がいて、非常に卓越した技術をもつ人になっていったのだ。そして、今やカゴづくりでは日本では有数な人になった。とくに、あけび蔓細工では、彼の右に出る人はいない。多様な注文もうまくこなすことができるし、自分のかたちにうまく持っていくこともできる名人なのである。

信一さんは小さい頃から、仙北(せんぼく)地方(横手市は後の呼称)に伝わる民謡「仙北ニカタ節」が得意だった。これは掛け合い唄といって、その地方に住んでいる人が、その時の時勢を互いに唄い合いながら相撲をとる(七七七四五調で唄う)。信一さんはこの唄合戦でもチャンピオン。その時の社会状況から芸能関係、スポーツ関係から政治関係のことまでが彼の唄言葉の中に出てくる。言葉の受け答えをしながら、徹夜をしてまで続け、息が詰まったら負け。ということは常に答えられるだけの能力を持っていないといけない。どうしてそんな能力を持っているのかというと、私はやはり仕事にあると考えた。信一さんは朝から晩まで、深夜までも仕事をしながら、NHKのラジオを聴いている。テレビを見ながらでは仕事ができない。耳に入る豊富で多様な情報を彼はインプットしてあるから、掛け合い唄も強いのではと想像するのだ。もちろん彼の頭の良さもあるけれど、あけび蔓細工と掛け唄、この2つの能力で彼は日本でも有数の人間だ。彼は手仕事フォーラムの結成以来、協力してくれて、フォーラムの全国各地のイベントに来て製作を実演するなど、集まった人を惹き付けてくれる。なにしろ仕事ぶりがプロ中のプロなのだ。これからも信一さんのような人が出てくるかどうかわからないけれど、いずれは、信一さんがお父さんの優れた技術をそのまま継いで良品をつくっていったように、次は息子さんが継いでくれればと淡い期待を持っている。
 弾力性があり、つくられたもが何かしら、枯れてしまった現代の社会に豊かさを感じさせてくれる信一さんのあけび蔓細工。その造形的なセンスは大変なものだと思う。そして、つくった物から、彼の嬉しさ、喜びみたいなもの、手の温もりが伝わってくる。これこそまさに手仕事を極めるということではないだろうか。

 

(語り手/久野恵一、写真・聞き手/久野康宏)