Kuno×Kunoの手仕事良品

#013[沖縄・北窯のやちむん]沖縄県読谷村(よみたんそん)2007.2.26

山田真萬さんのやちむんに衝撃を受ける

 

 沖縄の読谷村を僕が初めて訪ねたのは24年ほど前。それまでは、沖縄の焼き物(やちむん)に私自身が関わるのは少し抵抗があった。学生時代の社会問題を考えると、後ろめたさを覚えて、なんとなく沖縄には行きづらかったのだ。しかし、民藝の世界に染まってしまうと、沖縄を代表する、焼き物のつくり手、金城次郎さんをはじめ、その他の優れた陶工たちの仕事を見る機会が常にあるし、それを使い楽しんでいる民藝人の生活を見ると、自分も欲しくて仕方が無くなる。しかし、今はそういう魅力ある沖縄の焼き物がだんだん無くなってきている。そういった物をもう一回再興させるということは大きな意義があることと思いつつも、沖縄には躊躇して行けなかった。 ところが25年前、日本民藝館の新作展に、沖縄から新しい窯の焼き物がかなり出品されてきた。これは今、私がやっているようなことに取り組んでいる方がいて、その人が出してきた物だった。その中に、白掛けでグレーがかった5寸皿に、縦方向へ指で描き落とした皿があった。
 指描きという技法は、円周に添って指で描き落としたり、波文様を施すのが通例で、指描きを皿の中心から縦に、3本の指で片方へ落とすなど大胆なことをするなんて初めて目にした。頭をぶん殴られたかのような衝撃を受けた。しかも焼きが強くてグレーがかっている。これは酸化炎で焼かれる窯の中で還元がかって焼成されたのだった。この皿を見た時に「うわあ、こんなものをつくる人がまだいるのだな」と驚いたのだった。
 その翌年に沖縄で日本民藝協会の臨時全国大会があった。これは復帰10周年を記念して、沖縄県立博物館で、日本民藝館が沖縄から戦前に収集したものを里帰りさせて展示させる企画だった。民藝協会の仕事でもあったので、私も行かないか?と誘われて、行きたい気分と10年ほど前の自分の心的な感傷とが交わって、とうとう付いて行くことになったのだ。大会参加もどこへやら、沖縄の各窯場を回って、例の衝撃を受けた皿が読谷村の窯でつくられたものだとわかった。その窯は最近できた、焼き物の共同窯だと聞き、レンタカーを借りて当時の仲間たちと訪問したのだった。
 現地に着き、たまたまいちばん車の入りやすい場所にある窯をまず訪問した。そこがなんと偶然にも例の皿をつくっていた、山田真萬(しんまん)さんの窯だったのである。幸運なことに、ちょうど本人が窯出しをしている最中だった。目の前に例の皿が出てきたものだから「これ良いなあ、良いなあ」とまわりの人にも同意を求めるくらい私は喜んでしまったのだった。


山田真萬さんが描いた力強い皿

 山田真萬さんは私より少し年上だけれども、大人的な雰囲気の良い、話しやすいタイプだった。すぐに打ち解けて「沖縄になぜ来ないのか? 店をやっているのなら、私のつくる物も扱ってくれませんか?」と彼に言われた。私が沖縄に来れなかった理由を話すと「いやあ、沖縄というのはそんなことを気にする所ではないよ。まあ、おおらかにやってください。沖縄は受け入れることはなんでも得意だから」と山田さん。そう言ってもらえたことで、自分のタガが外れたような感じになって、それから私の沖縄通いが始まったのである。
 山田さんとは気が合った。何せ、食べることが好きなので、訪ねれば、沖縄らしい、珍しいものをごちそうしてくれるし「何かおいしいものを食べに行きましょうね」という言葉に誘われ、県内の美味しい店へ毎晩のように連れて行ってもらったのだった。私も沖縄へ行く楽しみがいっそうと増したわけだ。
 こうして親しくなった私は、山田真萬さんにさまざまな注文をしてつくってもらいはじめた。そして自信をもって、私が出品者として日本民藝館展に出すようになり、第1回出品で民藝協会賞(2番目の賞)を受賞してしまった。これほど明るくて大胆で、しかもエネルギッシュな焼き物がまだ沖縄にはあるのだと審査員みんなが感嘆した。沖縄には伝統という強い力が地下の水脈に流れていて、それを掘り当てるとわーっと沸き上がってくる感じがすると言う審査員もいた。
 いきなり協会賞を受賞した山田さんも驚き、とても喜んだ。そうして一躍、山田さんは注目されるようになったのだった。
 その後、山田さんとの付き合いは、とても濃くなっていき、2年後には民藝館賞という最高賞を受賞した。その時の彼は元気良く、勢いがあって、どちらかというと、金城次郎さんの流れと多少似た部分がありながら、次郎さんのように沖縄の地面から沸き上がったような感じではなく、もう少し知的な部分があり、その知的な部分と大胆さが組み合わさり非常におもしろいものがあった。


北窯の「登り窯」

共同窯

 

 当時、山田さんのもとでは、私より5歳年下の宮城正享(まさたか)君が修行して、すでに職人になっていた。彼は雑なつくり手といってもよいのだが、非常に大胆なロクロ挽きをする。それが奔放で力強い、山田真萬の描く絵柄と重なったために、非常にダイナミックでいかにも沖縄の熱を感じさせる焼き物ができた。しかし、読谷の各窯で修行している他の陶工と同じく、宮城君もいずれは独立することを考えていた。修行を何年かしたら、自分の窯を持ちたいと。とはいえ、一人で窯を持つのは大変だからと共同窯という形で仲間を集めてやろうと考えていた。彼が学んでいる山田真萬さんの窯も「読谷やちむん窯」という共同窯だった。4人の窯元が大きな登り窯を共有しながら焼くわけのだ。その各窯元に弟子たちが何人もいて、その弟子も将来、自分たちも窯元になるよう職人どうして話し合っていた。 宮城君のいる山田真萬工房の隣に、大嶺実清(じっせい)という沖縄を代表する陶芸家がいて、そこで修行する松田米司(よねし)、共司(きょうし)君という双子の兄弟が宮城君と一緒に独立しようという話になり、さらに一人加えて4人で共同窯を持つ構想が始まっていた。 山田さんは自由に仕事をしていた人で、奥さんが宜野湾市普天間でお花屋さんを営んでいたものだから、彼は呑気に仕事をしていた。ところが、しばらくして子供さんたちも大きくなってくることで、生業としての焼き物に取り組んでいかなくてはならなくなったのである。
 そうなると、量をこなさないといけないし、仕事のノルマも果たさないといけないと、仕事に対しての方向に変化が出てきた。さらに宮城君が独立するため、他の職人を雇うことになり、そのあたりからも作風が変わっていく。また、彼自身も自分の存在意義を高めて、自己主張的な仕事をしていきたいと強い気持ちを持つようになり、いわば作家になっていく。作家を目指すためには、いろんな人たちと広範囲につき合うことが求められるものだから、だんだん彼の仕事の方向性が私たちの目指すものと少し違ってきた。14〜15年前のことだ。
 そんな時に宮城君たちが共同窯「北窯」を設立することになる。北窯は松田共司、松田米司、宮城正享君、与那原正守君の4人が4つの工房をつくって、それぞれが一つの窯を持つという共同体的な窯。沖縄でよく言う「ゆいまーる」的な精神で焼き物の工房を運営しはじめたのだった。「北窯」は山田さんたちの「読谷やちむん窯」の北側にできたから単純にそういう名前になった。復帰後、読谷村が米軍から払い下げされた大きな土地を持っていた。読谷村はそもそも焼き物の発祥の地であり、伝統的な花織りもあるなど工芸が盛んな風土。それを当時の町長さんが意識したのか、工芸運動的なことを念頭に入れ、共同的な形態で仕事場をつくるならば村有地を払い下げてもよいとしたのである。そこで、彼らは共同窯をつくることで、その許可を得たのだった。
 宮城君が独立した際、山田さんから「久野さんも宮城のことをよく知っているわけだから、宮城がこれから一人で食べていくことは大変なこと。少し関わって面倒みてくれないか?」と相談された。私は山田さんとのつながりが強いけれども、山田さんだけではちょっと物足りなさを感じていた頃だったものだから、それはちょうど良いと思い、宮城君の工房ができたら当初よりアドバイザーとしてさまざまな注文を出して仕入れし、つき合うことになった。

 

松田共司君へのアドバイス

 

 北窯・宮城君の窯出しを見に行くと、当然、他の3軒の工房も覗くことになる。その中の一人、松田共司君(以下、共司君)の焼き物に目が留まった。 沖縄の焼き物は荒焼き(あらやちー)と、上焼き(じょうやちー)の2つに分かれるが、私が主に仕入れるのは上焼きの方。これは赤い陶土の上に白土を載せて(白化粧して)、そこに絵柄を染め付けを施したり、化粧土を指でかき落としたり、クシで絵柄を描いたり、飛び鉋を打ってみたり、下に色をさしてみたり、さまざまな技法によって多彩な物が生まれるのだ。それがまた、つくり手の個性や能力が如実に出てくる仕事なのである。
 共司君の焼き物は、絵付けが素朴で大胆な感じで描かれているし、心を動かされるほどではないのだが、何か感じるものがある。ただ少し力が弱いなという印象も受けたものの、物のつくりがなかなか良いと注目していたのだ。ところが宮城君や山田さんとの関わりが強いので、彼と接触するのは難しいと思っていた。
 そんな矢先に、山田さんの所に共司君が、絵付けの仕方を教わりに来ていた。それで山田さんからは、共司君ともつき合ってアドバイスしてあげてくださいと言われた。私はしめたと思った。自分から共司君のところへ行くと、久野はやっぱり販売目的のために、店で売りやすい物を置こうとするんだなと彼にとらえられてしまう。それまでの山田さんとの付き合いは、単に取引のみの関係では無いので、そう思われたくなかった。当たり前のことだが、売り手、つくり手の仕入れ関係で他の店がやるように、良い物があったから、すぐに飛びついて買うということはできなかったのである。
 それで彼の北窯の窯出しに立ち会う際には、宮城君の焼き物を最初に見て、それから共司君の焼き物も見るようになったのだ。
 実際には、当時、共司君の焼き物が北窯の中では一番売れていなかった。つくっているものが何か弱い感じがしたのだろう。私は共司君の能力が高い人だとみていたものだから、ならばどうしたらいいかと考えた。そして、まず化粧土を変えてみたらどうかとアドバイスしたのだ。今の化粧土は白がのっぺりして見えるのは、釉薬が厚いためで、もっと薄くしたらどうかと伝えた。絵付けにしても、もう少し大胆になっても良いのでは?と提言した。とくにできあがりの白土をどうしたら良いのかと、山田さんの窯を見に行ったり、他の窯を見学して釉薬づくりを研究させた。沖縄の骨董屋さんを一緒に回って、古い沖縄の焼き物の破片を買って「これを参考にできないか?」と彼に渡したこともある。
 こうして改善をしてみたら、すごく良くなった。これはすごいなと思うようなものができるようになるのだ。私のアドバイスに耳を傾けるだけでなく、彼自身も前向きに山田さんの所へ行って絵付けの仕方を聞いてきたりした。絵付けは共司君の奥さんが担当した。奥さんは本当に純粋な人で、職人的な仕事ぶりである。当然、主婦だから家のことも、子供の面倒もみないといけない。それから弟子がたくさんいるから、食事の世話もしてあげないといけない。ということで、絵を描く時には、まとめていっぺんに描くわけだ。結果的にそれがとても良かった。窯に入れる少し前、2〜3週間ぐらい前に何千枚という物に一気に描くのだ。そこには、余談も偏見も作為も方向も何も無い。どんどん描くのだ。そのやり方が共司君のつくりの良さに合って、非常に魅力ある製品ができてあがったのだ。
 その工人形成に私が関与したということは、自分にとっては幸運だったということもあるけれど、自分で言うのはおかしいけれど、一人の良い陶工を育てたなという気が今でもしているのだ。 そんなわけで、私も共司君の焼き物も仕入れるようになった。


窯から出たばかりの陶器をチェックしながら
にっこりする宮城正亨君

共司君が窯出しされた小ものを並べているところ

宮城工房の品々。
7寸皿、 6寸皿、マカイ(鉢)、湯飲みなど

共司君に藍と飴の釉薬で描いてもらった葉紋の皿など

マエヌケ

 

 10年ぐらい前までは、そんなことがありながらも、沖縄に行けば、山田真萬さんを親分に、共司君、私の3人で本島各地を一緒に回って楽しかった。その頃、共司君に「どうだ、私にまかせてみるか?」と尋ねると「お願いします」と答えた。ならば、と私が彼の焼き物を選んで民藝館展に出したのだ。そうすると、値段が安い上、製品化されているので、日常に使うにはとても良いと審査員たちが喜んだのだ。そのため出品すれば、ほとんど入選することになる。私もやりがいを感じ、当時、金城次郎さんのつくったものが本になって紹介されていたので、それを参考にして、とにかくいろいろなものを共司君につくってもらった。彼も40歳代だったからやる気がみなぎり、精力的に応えてくれたのだった。
 一方、山田さんは作家的な道をたどりはじめた。彼は英語を話せるものだから、駐留米軍や大使館関係の人ともつき合うようになって、訪米して現地でも窯まで持って仕事をするなど、名も知られて値段も高くなり、作家的な仕事をするようになり、少し私たちが目指すものとは離れるようになった。 それに対して、共司君は数物をつくることに励んでくれた。弟子の中には私が紹介した若者などもいて、彼らもまた一生懸命、働いてくれたものだから、ますます縁が深くなっていった。
 ところが一つ難点があった。それは窯の歩留まりが悪いということ。歩留まりというのは、窯出しの際、焼き物が変形したり、仕上がりが悪かったりして不良品が出るのを除いた製品化できる率のことを言う(製品として売れる)。たとえば歩留まりが7割と言えば、3割は焼き損ねるということ。あまり焼き損ねがあると、窯の経済を左右するため、共司君もかなり悩んでいたようだ。私の注文をつくってくれるのはいいけれど、その時に6割くらいが取れれば良いという感じだったのだ。絵付けまでして熱心にかつ、大量につくっても歩留まりが悪いと、落胆するものだし、自分自身に嫌気がさすようなものにもなる。歩留まりが悪い理由はなぜかと私は彼の窯を見せてもらった。
 北窯のような登り窯の場合、複数の室(むろ)が一つづつ独立して連なっている。登り窯の最初の室は「火口」もしくは「火袋」といって、まず窯の中の温度を上げるために、内部の湿気を取り去り、温度を800度ぐらいまで上げるための室である。そこで焚き上がって全体が温まってから、各室を順番に1200度以上に上げるために薪をくべていくのだ。薪は窯の横から入れるのだが、薪を入れたとたんに一気に火炎となって上がる。その際に、火の前に接して置かれている器物がいちばん強い火に当たることになる。ということは、不完全燃焼する場合もあるし、火が強すぎて土が耐えきれずに膨れてしまったり、変形してしまったり、あるいは釉薬が溶けてしまう。共司君はわりと強く焚くのが好きなものだから、薪をどんどんくべる。すると火にいちばん接する火前の物が全部不良品化してしまう、取れるのは火裏の物ばかりになる。それで歩留まりが悪いわけだ。
 火は室の面を伝って上がっていくので、壁のアーチ形状に添って落ち、「サマ」という通路を伝わって隣の室に火が抜けるようになる。ということは、火が上がった所の火の前であえて大きな物を焼けば、その後側の物が取れる確率が高まるのだ。この策を小鹿田では「マエヌケ」と言っていた。火が前に抜けるという意味だ。私は小鹿田でそのことをよく聞いて知っていたので、このことに思い当たったのである。 火の前に置く大きな物は化粧掛けしない。なぜかというと、白土を掛けても釉薬が流れてしまい、意味をなさない。加えて、釉薬も鉄釉薬や飴釉薬など、火が当たっても差し障りの無いものを施し、たとえば大きな瓶や壷だとか、大きな瓶を火の前に立てるのである。 しかし、共司君は「僕は大きな壷はつくれるけれど、それは何万円もするから、うまく焼けないと困る。だとしたら、何を置いたら良いかわからないので考えてほしい」と相談されたので、私は思案したのだ。

沖縄の角甕(かくがめ)

 話は前後するのだが、15年ほど前に、私は沖縄那覇市、壺屋のやちむん通りを友人の横山正夫氏とぶらぶら歩いて骨董屋めぐりをしていた。この通りには、焼き物の販売店が並んでいる。その中の一軒で四角い羊羹のようなかたちをした傘立てを見つけた。私はその模様が気に入り、誰がつくっているかわからないが、購入した(のちに照屋佳信さんが製作した物とわかった)。そして沖縄にはこういう角甕の仕事が残っていると、早速、「手仕事の日本展」に沖縄を代表する作として出品したのだった。
 角甕は型起こしではなく、「板起こし」と表現してもよい仕事によりつくられる。板を組み立てて、そこに土を貼付けて、板でかたちを整えて板を抜く。すると四角いかたちができるのだ。この板起こしの仕事は、福島県の会津本郷焼きの「鰊鉢(にしんばち)」が有名だ。沖縄では板起こしでつくられる物としては、ジーシーガァーミ(厨子瓶)というお骨入れ、そしてそれに付随する線香入れのような物しか現存していない。 ジーシーガァーミは今もつくる窯がたまにあるけれど、そのほとんどが装飾過剰なものばかりだ。ジーシーガァーミはかつて葬式に使われていた。そんな物を装飾品として使うのは嫌だから、最初から問題外として注文したこともなかった。
 しかし、自分の記憶をたどってみると、日本民芸館に「高火鉢」という名前で、巨大な角の甕があることを思い出したのだ。沖縄のような暑い場所で火鉢というのは、よく考えたらあまり考えられない。おそらくこの名称はこじつけではないかと思う。私はこの「高火鉢」に興味が湧いて、いろいろ調べていったら、そんなに古い物ではなくて、戦前か戦後の最近の物。沖縄で火鉢を使っていたという話は聞いたことが無いし、所蔵されている物も無い。ならば何のためにつくられたのか想像をめぐらせてみた。
 そして思い当たったのが、ジーシーガァーミの本体が角甕であることに着目したのだ。この角物をつくる伝統的な技術を残すために、たぶん濱田庄司先生あたりが考え、金城次郎さんあたりにつくらせたのではないだろうか。いずれジーシーガァーミが必要性から無くなったとしても、角物の甕のつくりかたを伝統として残したかったのではないかと。
 そういう考えを抱きながら日本各地を歩くと、金城次郎さんがかつて角物の細長い甕をたくさんつくっていたことに改めて気づくのだ。30〜40年前、民藝愛好家は金城次郎さんのつくった物をあさるようにして収集した。私のいちばん身近な人では、富山県の吉田桂介さんの家にも傘立てがあるのだ。絵柄は濱田庄司さんの物を真似して描いているのだが、製作者は金城次郎さんだと聞いた。私はこの傘立てに模様を施して焼いてみたらどうかと共司君に話をしたのだ。


沖縄、照屋佳信作さんの角甕

金城次郎さん作のジーシーガァーミ

松田共司君の角甕

 

 共司君もこの角甕を火の前に置けば良いと言う。焼き物で角の物は裏表4方向だから、火の前は釉薬が流れてしまうかもしれないけれど、後ろ側は残るので、思い切って白化粧した角甕をつくろうということになった。私は、沖縄らしい唐草模様の大胆な絵や、コバルトや飴の点打ちという2色を釉薬で飛ばすやり方(二彩点打ち)、緑と飴を飛ばすやり方(三彩点打ちとも言う)の伝統的な模様を角甕に描いたらおもしろいので、つくってみようと助言した。ただし、私は角甕のつくりかたを知らなかった。すると共司君がだいぶ前に大嶺実清さんに弟子入りしていた時に、何度かジーシーガァーミをつくらされたことがあると言う。そのため彼は角甕のつくりかたをきちんと覚えたいたのだ。
 ということで、私は共司君に角甕を注文して、マエヌケ用としてつくってもらった。このマエヌケのおかげで、後側の焼き物はほぼ完成品として取れるようになった。よかった、よかったと喜んでいたのだ。
 このマエヌケの角甕のかたちを見たら、とても良いものだから、これを何か有効に使う方法は無いだろうかと思い、これも販売していこうと話し合った。ただ傘立てだけだと小さくてつまらないからともっと大きな甕はできないかと聞くと、共司君は大きな物の方がつくりやすいと答えた。ならば、さらに巨大な物をと、製品名を「角甕」にして、絵柄を唐草か三彩点打ちなどにして、大・中・小のサイズをつくってもらったのだ。
 確かに火の前側は釉薬が流れるけれど、火の裏側はきれいに取れる。これをもやい工藝や各地の展覧会に持って来たら、初めて眼にする物だからずいぶん好評を博し、よく売れたのだった。最初から割れることを前提につくっているから金額もあまり高くないことも売れた要因のひとつだろう。
 それでも10本つくれば6本は駄目になる。下手したら2〜3割しか取れないこともある。それでも角甕の後ろ側が守られるからそれでも良いと共司君と私はポジティブにとらえた。 ところが私も欲を出し、せっかく良い物ができたのなら、もっと良い物をつくってもらおうかと考えた。たとえばふちに緑を施すとか、前の広い面積の方に唐草模様を描き、さらにサイド側にも飴とコバルトを点打ちするなど、いろいろつくってもらったのだ。また、もっと大きな物や小さな物をと要望する人が出てきたので、特大サイズやミニサイズも発注した。
 すっかりこの仕事は定着し、定番製品となった。加えて、角甕がマエヌケとして効果を発揮し、共司君の窯は歩留まりがとても良くなった。後ろの焼き物を守るためには恰好のアイデアだったというわけだ。これは共司君の仕事が安定してきた大きな理由のひとつかもしれない。それに私が寄与したということは、沖縄に対してほんの少しの貢献ができたのかとも思っている。また、窯焚きが荒いため、安定はしていないものの、筋の通った仕事を続けている宮城君に対してもアドバイスしたり、その後も親しく関わっていて、今や北窯は沖縄やちむんを代表する窯として、名を馳せるようにもなっている。私としてはそれに寄与できたと自負している。

 

(語り手/久野恵一、聞き手/久野康宏)


これは火が直接当たらない裏側(背面)。
三彩点打ちの模様が素晴らしい

共司君がつくった「切立角甕」。
これは火が当たった正面側

去年、今までの角甕の中でいちばん良い物ができた。
それは某企業から注文を受けてつくってもらったもの。
傘立てのつもりで注文したのだが、あまりにも良い物だから、本社受付に堂々と飾ってあるそうだ

今は角甕の原型になるジーシーガァーミの大きな物はつくれないけれど、小さな物で抜群に上手なのは照屋佳信さんだ。
これをお骨入れに使うかどうかは別にして、角甕に利用するには、この大きさで傘立てを考えたり、火鉢にしたり、灰皿にしたり、花活けにしても良いし、いろいろなサイズの物を彼はつくれるはずだ