山田真萬さんのやちむんに衝撃を受ける
沖縄の読谷村を僕が初めて訪ねたのは24年ほど前。それまでは、沖縄の焼き物(やちむん)に私自身が関わるのは少し抵抗があった。学生時代の社会問題を考えると、後ろめたさを覚えて、なんとなく沖縄には行きづらかったのだ。しかし、民藝の世界に染まってしまうと、沖縄を代表する、焼き物のつくり手、金城次郎さんをはじめ、その他の優れた陶工たちの仕事を見る機会が常にあるし、それを使い楽しんでいる民藝人の生活を見ると、自分も欲しくて仕方が無くなる。しかし、今はそういう魅力ある沖縄の焼き物がだんだん無くなってきている。そういった物をもう一回再興させるということは大きな意義があることと思いつつも、沖縄には躊躇して行けなかった。 ところが25年前、日本民藝館の新作展に、沖縄から新しい窯の焼き物がかなり出品されてきた。これは今、私がやっているようなことに取り組んでいる方がいて、その人が出してきた物だった。その中に、白掛けでグレーがかった5寸皿に、縦方向へ指で描き落とした皿があった。
指描きという技法は、円周に添って指で描き落としたり、波文様を施すのが通例で、指描きを皿の中心から縦に、3本の指で片方へ落とすなど大胆なことをするなんて初めて目にした。頭をぶん殴られたかのような衝撃を受けた。しかも焼きが強くてグレーがかっている。これは酸化炎で焼かれる窯の中で還元がかって焼成されたのだった。この皿を見た時に「うわあ、こんなものをつくる人がまだいるのだな」と驚いたのだった。
その翌年に沖縄で日本民藝協会の臨時全国大会があった。これは復帰10周年を記念して、沖縄県立博物館で、日本民藝館が沖縄から戦前に収集したものを里帰りさせて展示させる企画だった。民藝協会の仕事でもあったので、私も行かないか?と誘われて、行きたい気分と10年ほど前の自分の心的な感傷とが交わって、とうとう付いて行くことになったのだ。大会参加もどこへやら、沖縄の各窯場を回って、例の衝撃を受けた皿が読谷村の窯でつくられたものだとわかった。その窯は最近できた、焼き物の共同窯だと聞き、レンタカーを借りて当時の仲間たちと訪問したのだった。
現地に着き、たまたまいちばん車の入りやすい場所にある窯をまず訪問した。そこがなんと偶然にも例の皿をつくっていた、山田真萬(しんまん)さんの窯だったのである。幸運なことに、ちょうど本人が窯出しをしている最中だった。目の前に例の皿が出てきたものだから「これ良いなあ、良いなあ」とまわりの人にも同意を求めるくらい私は喜んでしまったのだった。
山田真萬さんが描いた力強い皿
山田真萬さんは私より少し年上だけれども、大人的な雰囲気の良い、話しやすいタイプだった。すぐに打ち解けて「沖縄になぜ来ないのか? 店をやっているのなら、私のつくる物も扱ってくれませんか?」と彼に言われた。私が沖縄に来れなかった理由を話すと「いやあ、沖縄というのはそんなことを気にする所ではないよ。まあ、おおらかにやってください。沖縄は受け入れることはなんでも得意だから」と山田さん。そう言ってもらえたことで、自分のタガが外れたような感じになって、それから私の沖縄通いが始まったのである。
山田さんとは気が合った。何せ、食べることが好きなので、訪ねれば、沖縄らしい、珍しいものをごちそうしてくれるし「何かおいしいものを食べに行きましょうね」という言葉に誘われ、県内の美味しい店へ毎晩のように連れて行ってもらったのだった。私も沖縄へ行く楽しみがいっそうと増したわけだ。
こうして親しくなった私は、山田真萬さんにさまざまな注文をしてつくってもらいはじめた。そして自信をもって、私が出品者として日本民藝館展に出すようになり、第1回出品で民藝協会賞(2番目の賞)を受賞してしまった。これほど明るくて大胆で、しかもエネルギッシュな焼き物がまだ沖縄にはあるのだと審査員みんなが感嘆した。沖縄には伝統という強い力が地下の水脈に流れていて、それを掘り当てるとわーっと沸き上がってくる感じがすると言う審査員もいた。
いきなり協会賞を受賞した山田さんも驚き、とても喜んだ。そうして一躍、山田さんは注目されるようになったのだった。
その後、山田さんとの付き合いは、とても濃くなっていき、2年後には民藝館賞という最高賞を受賞した。その時の彼は元気良く、勢いがあって、どちらかというと、金城次郎さんの流れと多少似た部分がありながら、次郎さんのように沖縄の地面から沸き上がったような感じではなく、もう少し知的な部分があり、その知的な部分と大胆さが組み合わさり非常におもしろいものがあった。 |