Kuno×Kunoの手仕事良品

#014[氷見の箕]富山県氷見市論田 2007.03.26


論田の風景

箕を探しに

 

 平成12年(2000年)、日本民藝協会が「手仕事の日本展」を金沢で初めて開催するにあたって、周辺の手仕事を探ろうということになった。実はその8年前、私は金沢市周辺で箕(み)の製作者を探しまわったことがあった。 箕はお米などの穀物を入れて振って、ゴミと穀物とに分ける道具。鹿児島県薩摩半島から青森県弘前の岩木山麓までの列島各地に箕をつくる場所が点在している。それらが共通して釣り鐘のようなかたちをしているのは、農作業にいちばん適したかたちだからだろう。
 私は富山県氷見(ひみ)市から石川県羽咋(はくい)市へと抜ける街道の県境手前にある集落、熊無(くまなし)が昔から箕をつくっていると耳にしたので、そこを訪ねると、農繁期の昼間だったので、作業しているのはわずか一人だけだった。しかも、残念ながら、その人の仕事そのものはあまり良くなかったのであった。
 当時の記憶をもとに、その人は健在だろうと熊無を目指したが、すでに亡くなっていた。そこで集落の人に尋ねると、このあたりでも5〜6人の人が箕をつくっているとのことだった。だが、あいにくタイミングが悪くて、その日は製作者の誰とも会うことができなかったのだ。街道を150メートルほど戻ると、地域の農協があって、「箕を販売しています」という張り紙を目にした。農協は閉まっていて中に入れなかったが、私は思うところがあって再び熊無に戻った。すると、以前は箕づくりをしていたという人が昼休みで集落に戻ってきていて話を聞くことができた。今、その人は箕をつくっていないけれど、箕は道をはさんで向こうの山側に論田(ろんでん)という地域があって、そこでもまだ箕をつくっている人が6〜7人いるという。論田には上手な人もいるという話だった。そう聞けば、当然その人に会いたくなるもの。それでは、行こうと論田へ向かったのだった。


坂下武夫さん

つくり手との出会い

 

 論田はあまり大きな地域ではないのだが、浄土真宗の立派なお寺もある、山の斜面に開かれた集落だった。斜面に家が点在し、登っていくと美しい棚田が目に入り、しみじみと良いところだなあと思った。そうして何軒かの家を訪ね歩いて行くと、「いちばん上手な人は坂下武夫さんだよ」という情報を得た。早速、坂下さんを訪ねた。昼の終わり頃だったが、ちょうど彼が農作業に出ようとしていた時だった。この地域では農繁期や農閑期も含めて、ほとんど外へ仕事に出る。そして昼食を自分の家で食べるために、昼にはいったん家に戻ってくる。そのわずか1時間ほどの昼休みの後はかなり夜遅くならないと戻って来ない。だから日中はほとんど家に不在なのだ。「箕をつくっていると聞いて来たんだけれども、どんな箕をつくっているか見せてくれませんか?」と坂下さんに声を掛けると、「ちょうど今、つくりおきがいっぱいあるから見せてあげるよ」と答えた。
 まず私はこの坂下さんのきっぷの良さに惹かれたのだ。一貫して言えることなのだが、私にとってつくり手の第一印象は大事で、その人とうまくいくか、いかないかは、得てして、相手の人格、人情が左右する。それは話をしていれば、おのずとにじみ出てくるものなのである。私は坂下さんと話して、ああなかなかこの人は良い感じの人だな、良い印象だなと感じた。そして話をしているうちに、じゃあ、つくっているところを見せてやろうかと、仕事場に案内してくれたのだった。
 彼の仕事場は家の中にあり、そこに箕が5〜6枚重ねておいてあった。一目で上手だなあとわかった。坂下さんはつくりかたまで見せてくれたが、私はすでに製法については知っていた。私が何より感心したのは、箕のつくりである。何か骨格があるというのかな、そこが他の箕と違うように見えた。不思議なことに、具体的に他の箕とどう違うかは説明できない。つくる人の個性が製作した物に反映されているのだろう。これはなかなか並みの人ではないな、という気がしたのだ。

箕の造形美

 

 箕をいただけないかと坂下さんに聞くと、みんな中途半端なつくりのものばかりということで、もらえなかった。ただ、その中の「中箕(ちゅうみ)」と呼ばれる1枚には驚いた。現地ではふつうの大きさの箕なのだそうだ。 坂下さんによれば、箕には何種類かあり、「大箕(おおみ)」という大きな箕と「中箕」と、「一升箕(いっしょうみ)」、「二升箕」、「三升箕」という小さな箕、それから「長箕(ながみ)」があるのだという。その時には、「中箕」がたまたまあって、細部を見たら、桜の皮が中に入れこんであった。 箕には、枠の四隅に桜の皮を入れるという決まったつくりかたがある。なぜ入れるかというと、そこに穀物が溜まるからだ。溜まって当たるから一番壊れやすい。そのために、桜の薄皮をさし込むことによって強化しているのである。また、隅に溜まった穀物ゴミを滑りやすくすることで取りやすくなるのだ。穀物を掃き出す部分も収穫物が集まるから壊れやすいから、ここにも桜の皮をさしこむ。このつくりかたは全国共通している。 しかしそれに加えて、坂下さんの箕には中央部にも桜の皮が入っていた。これに私はとても目を奪われたのだった。道具としてではなくて、造形物として惹かれたのだ。「これはいい、これをください」と言うと「駄目だ」と坂下さん。つくった箕を囲炉裏端に置いておいたら、真ん中が燃えて穴が開いてしまった。せっかくつくったからと、自分の家用に使おうと、焦げたのを隠すために、桜の皮を入れこんだのだとか。 私はその模様の美しさを見て、これをぜひつくってほしいと頼んだのだが、「そんなわざとらしいものはつくる気が無いし、そんなことをしてもしょうがない。第一、お前さんたちは何につかうんだ? 箕として実際につかうのではないのか?」と坂下さん。 実用品としては使わないと答えると、だったらミニチュアでいいじゃないかと言われた。私はミニチュアではなくて本物をつくってくれと再度お願いをした。それで、結局はつくってもらうことになったのだが、ミニチュアなんてことをどうして彼が知っているのか気になって尋ねた。そうすると、彼は小さな箕「二升箕」を見せてくれたのだ。
 二升ぐらいの米を振れるから二升箕と呼ばれ、「こんな物は使うものじゃねえんだ」と彼は言う。坂下さんのつくった二升箕は木の外枠を藤の皮で巻いているが、だいたいはビニール紐で巻いて簡単につくるもの。この二升箕は関西の恵比寿天神などに年間6000枚出しているのだそうだ。それも一人でつくるのではなくて、論田と熊無の箕製作者およそ16人が組合をつくっている。この組合で農協に出し、農協が天神様の市に正月用に持って行って、お面を付けて福の神、福招来用の飾り物として出荷するのだとか。これは毎年買い求めるものだから、つくられたものが一年後には捨てられてしまうのである。それはもったいないと言うと、いやそういうもので、二升箕があるから俺たちは生活していけるんだと坂下さん。
 この話を聞き、手間ひまかけて、自然の素材をわざわざ集めてきているのに使い捨てられてしまうことに私はショックを受けた。しかし、考えかたによっては、今のように農作業が近代化された状況下で、こういう手仕事の昔ながらの物を使うなんてことはないわけだから、箕づくりの技術を残すにはやむをえない方法なのかなとも思ったのだ。
 坂下さんに「こんなミニチュアな箕で十分じゃないか」と言われたとき、「いや自分たちは実用的な物が欲しいんだ」と言うと、「でもお前たちは実用に使うのではないではないか」と、すったもんだしたのである。そうやりとりしながら、だんだん坂下さんが理解してくれて、自分たちがなぜ来たかというと、こういう造形的に優れた物をこれからも長く保つには、その物の良さを見せることだと説得した。現実にこれを農作業に使う時代は無くなるだろう。しかし、廃れてしまう前に、この仕事を継続できるようなことを私たちは求めている。そのためには造形的な美しさを社会に訴える必要があるのではないかと説明したのだった。
 今まで箕については、ただ珍しい道具だとか、素材のおもしろさばかりを強調してきた。だが、私たちはそれ以上に造形的な美しさを伝えたいと思った。加えて、箕は日本の長い歴史の中から培われた伝統によってつくられたものであり、農作業のために使うという「用」を充足するために、きわめて機能的にできているはずだ。そういう物は非常に大切な物だから、これからもつくってもらいたい、そのために私たちはあなたの所に来ているんだと説明したら、坂下さんは「わかった、つくってみよう」と理解してくれたのだった。
 私は桜の皮を中央部にもさし込んだ箕の製作を依頼した。何ヶ月かしたらできるからと坂下さん。それはちょうど春先だった。その年の秋、10月に「手仕事の日本展」が催されるので、私は出来上がった箕を9月に受け取りに行ったのだった。


坂下さんがつくった蓑。枠の四隅と掃き出す部分に、補強のために桜の薄皮をさしこんである。中央部にも皮をさしこんでもらった

大蓑のサイズはこんな感じ

二升箕。一般の家庭では、このくらいのサイズの方が使いやすい

展示に感激

 


日本民藝館展の奨励賞を受賞した坂下さん

 私が坂下さんに注文した箕はわずか3枚。その時は中箕を頼んだ。他に長箕や大箕があると聞いていても、その時はとにかく箕をつくってもらうことで頭が一杯だった。そして、できあがったことに感動して、この中箕を金沢、香林坊大和百貨店での「手仕事日本展」会場の正面入口に展示することにしたのだ。坂下さんに展覧会の案内状も差し上げ、ぜひ見に来てくださいと言った。しかし、彼が見に来てくれるとは予想してもいなかったのだが・・・。すると、坂下さんはなんと初日に訪れてくれたのだった。彼は入口のところで驚いた顔をして呆然としていた。声を掛けると、言葉を失い、ただ戸惑っている様子だった。
「わしのつくったのがそこに飾ってある・・・」(坂下さん)
「いいじゃないですか、あなたのつくった箕はとても立派だったのだから。これは北陸地方を代表する仕事だと私は言ったでしょう。だから飾りますよ」(私)
「こんなところに飾るもんじゃねえ、これは使うもんだ。いいのか飾って・・・」(坂下さん)
「どうですか、自分のつくったものを見て、良く見えるでしょ?」(私)
「いや立派に見える」(坂下さん)
「そういうものでしょう。置いた所がどこであろうと、あなたのやっている仕事は素晴らしい仕事で、あなたは単に農作業のための道具としてつくったものかもしれないけれど、実はつくった物そのものが大変な物なのだということを、みんなに知らせたかった」(久野)
 坂下さんは感動してくれて、その後、「俺の箕がここに飾ってある」と家族まで連れて来てくれた。私はやりがいがあったと自己確認したものだった。
 こうして坂下さんとの付き合いが始まり、その年の日本民藝館展に出品して、当然入選を果たした。それと同時にこういった物の良さもある程度知られていったのだ。箕は日本各地にありながら、このタイプの箕はそれまで日本民藝館展に出たことが無かったのである。

箕の素材

 

 氷見の箕の特徴はまず本体にフジの皮を使っているということ。漆の木の外枠(フレーム)に巻いているのは、フジの外皮だ。そして補強に桜の皮も使っている。坂下さんの箕には本体のフジと矢竹(やだけ)が用いられている。この竹は非常に強い竹。弓矢の矢にしたから矢竹と呼ぶ。本来ならば、粘りのある篠竹を用いてもよさそうなものだが、同じ篠竹系でも矢竹を使うのは、厚いフジの皮を押さえて組ませるためには、強靭で割れにくい竹を使わないといけないからだ。その上で、さらに桜の裏側の皮で補強しているのである。
 つまり箕は樹皮、竹、あるいは草など、さまざまな編組品の中でも自然素材をトータルで使う物なのである。これをつくれる人は非常に特殊な技術力を備えていなければならない。竹細工の技術だけでは駄目。樹皮だけで編む民具づくりの技術でも足りない。伝えられるところによると、かつては山の民たちがつくっていることが多かった。
 実際に箕をつくっている地域をみていくと、山の民が住まいを定着した所が多い。彼らは陽当たりの良い斜面に集落をつくってきた。それがいつ頃からなのかは地域によって違うが定かではない。たぶん江戸の幕末から明治期ぐらい、あるいは江戸期に檀家制度ができたころに定着させられたのではないかという話はある。また、昭和までも、そのような習俗が続いていたということも聞く。
 そういう所に住んでいる人たちが山の素材を採取して箕をつくっていくことで、技術が発達した。そして明治に入ると米作のやりかたが進歩し、山の斜面に棚田や畑を開いてお米など農作物をつくれるようになる。そうすると箕づくりは生業から副業になっていく。副業ということは現金収入になるということだ。そのため、日本各地で箕の産地はほとんど無くなりつつある。このような状況のなかで、氷見には箕のつくり手が15〜16人いるということは、毎年、恵比寿市に6000枚も出すという恩恵があるからだろう。 
 フジの皮が剥き出しとなった木肌色の瑞々しい色づかい、桜の皮を使った独特の風合い、そして外枠が素朴な漆の木で、それをきちんとフジの皮で巻いていく箕。その自然から生まれ出た造形的な物の美しさは身近に使ってみたい、置いておきたいという魅力がある。造形的に圧倒されるのは、たしかに大箕が一番だが、たとえば花を活けたり、天ぷらを載せたりして一般的に都会の家庭で使うには小さな箕で良いだろう。二升箕をたくさんつくってもらえれば安価なこともあって販売が可能だ。ただし、大きな箕はなかなか売れないけれど、そばに置いておきたいとも願う。本物の中の本物を身近に置くことで。今の軟弱な時代にこんなものがあるのだと社会に提案したいのだ。 
 ちなみにフジの皮を素材にした箕は中部地方が多い。私が知っている限り、長野県の戸隠や北志賀、それから以前は佐渡島、埼玉県もフジ皮を主な素材とする箕をつくっていた。
 だが矢竹を用いるのは氷見だけだ。矢竹はもともと日本には生育していなくて、中国から入ってきたもの。弓矢の矢になることから、城があった所には必ず矢竹が生えている。氷見がある、石川県と富山県の県境は加賀前田藩の時代から、あるいはその前の浄土真宗の加賀一向一揆があった時代から戦(いくさ)が絶えずおこなわれていた場所。そのため矢竹をいっぱい自生させるように生育させたのだろう。


箕の素材の矢竹を前に

漆の木の外枠

箕の需要

 

 坂下さんのもとへ通うようになり、この地域の生活のありかたを聞いてみると、彼の家族も昔から箕をつくっていたという。また、周辺の人もみんなつくっていて、そのほとんどを北海道に出したというのだ。北海道は明治になって開拓が始まり、農地がつくられていく。ところが北海道は寒い所だから、農作業の道具のほとんどは輸入に頼ることになる。冬の酷寒地では手仕事は不可能であろう。素材になる物も寒すぎて身辺にあまり無い。そのため北海道の人たちは日本海ルートの海の交通によって農作業用の道具をずいぶん仕入れて、仕事をしてきたことがわかった。箕はいまだに年間600枚、大箕を北海道美幌町などに送っているのだそうだ。掘ったジャガイモを入れるのに、化学素材の製品と異なり、ジャガイモの皮を痛めない。しかも泥はけが良くて便利というのだ。
 箕のサイズのことも尋ねると、一般的には、中箕がいちばん使われやすいのだとか。大箕は平野部が広い所、たとえば石川県の加賀平野では大箕を使う。長箕は「入善箕」とも呼ばれ、なぜか富山県の入善(にゅうぜん)町でしか使われないという。なぜ長い箕が必要なのか、つくっている自分たちも、使っている人たちもわからないという。 実は佐渡にも氷見と似た箕がつくられているのだが、佐渡の人に言わせると、佐渡の方から氷見へ箕づくりの技術が伝承されたのではないかという。で、佐渡の箕がすぐに無くなってしまったのは、氷見の箕の方が使いやすくて丈夫だからと、北海道の人が氷見の箕ばかり買うようになったためと言っていた。それに氷見の箕は本体が深くつくれるのだそうだ。それは素材の強さから出てきているのだと思う。
 氷見には三尾(みお)という竹細工の産地がある。そこでは「ソウケ」(九州では笊のことを「ショウケ」と言う。それがたぶん北陸地方のなまりで「ソウケ」になったのかもしれない)という名の片口笊(ざる)がある。その独特な片口の口のつくりかたが針金を巻いてお粗末なのだ。とても私たちが欲しいものではないけれど、いまだにつくり手が5〜6人いる。そのソウケづくりも佐渡島から来ているという。佐渡島の「丸口」のかたちを真似てつくったものであるといわれているのだ。佐渡島の丸口は粘りがあり、柔らかい篠竹でつくる。しかし、氷見には篠竹のような柔らかくい竹が無いので真竹でつくるのだ。だからフチのつくりかたが「笊ブチ」ではなくて、「あてブチ」で、しかもフチに巻くのに針金を用いている。それゆえに魅力が無い。佐渡島と氷見のつながりは、海を渡れば近いということもあって交流があったのではないかと推察できる。


なぜか富山県の入善町でのみ使われている長箕

素材と技術を活かす

 

 坂下さんとは平成12年からの付き合いだから、かれこれ6〜7年。箕は販売が難しいものだから、たくさん仕入れられる物ではない。それでも坂下さんに会いたいという気持ちと、坂下さんの暮らす論田という地域の美しさに惹かれて、ずいぶんいろんな人を紹介して連れて行った。そのうちに箕の素材を活かした物を現代的な物に転用した物を考えようということになったのである。
 そして私は3年ほど前、この箕の素材を転用して箱物をつくってもらおうと考えた。箕には立ち上げの部分があるが、これは型枠をすぼめる技術があるから可能だ。四隅をすぼめる技術があれば箱物ができるわけのである。ならば、収納するカゴのような物をアイデアとして坂下さんに提案しようと思ったのだ。
 このアイデアを思いつくきっかけは、宮城県仙台市郊外の大和(たいわ)町で昔からつくられる「肥料振りカゴ」にあった。このカゴもおそらく箕からアイデアを得て転用した農具だと想像できるのだ。肥料振りカゴも素材は桜の皮がほとんど。桜の皮を篠竹ではさんで編み組みしている。これができるということは、ここでもできるのではないかと思って提案した。 坂下さんは、そんなものをつくったことがないから自信は無いと嫌がる。と言いつつも、坂下さんの家には平たいカゴがあった。それは箕づくりで余った材料で製作した収穫物を入れるカゴだった。
「このカゴが欲しいんですよ」(私)
「いや、このカゴは手間がかかって面倒くさい」(坂下さん)
「せっかくここまできたんだからやってくださいよ」(私)
 嫌だなあと言いながらも、寸法を決めてくれということになり、私は収納カゴの寸法を思案した。すると同行した手仕事フォーラムのメンバーが書類入れにしたいと言い出した。書類入れならばA4サイズが入る物が良いと。しかし、A4サイズでぴったりしたものではなく遊びが無いといけないと、少し大きめにして、笊のような収納カゴを最初につくってもらうことにしたのだ。
 このカゴを坂下さんがつくるのは冬場なので、翌年の春に見に行った。すると、きちんとできていて私たちは感動したのだった。
 さらには、これならばカゴにフタを付けることもできるのではないかとフタ付きのカゴも考えた。ただし、フタを付けるためには箱とフタのサイズを合わせないといけないので、竹ひごの間隔をきちんと揃えないといけない。坂下さんは大変な苦労をしたそうで、フタ物は二度とつくりたくないと言う。そこで、後で合わせていくから、フタは下の箱のことを考えずにつくってくれと頼んだのだった。 
 この収納カゴは箕の自然素材をもとに、現代の暮らしに転用した製品例のひとつだ。農具を現代に向く物に転用するなど誰も考えたことがないし、ありえないと思っていたのではないだろうか。だから、もしこれがうまくいったら、箕づくりの伝統的な技術を絶やさずに、新たに実用的な工芸品としてつくっていくための大きなヒントになると思うのである。

 

(語り手/久野恵一、聞き手/久野康宏)


箕づくりの技術を転用したと思われる大和町の「肥料振りカゴ」

坂下さんの作業場にて。完成していたカゴに対面して感激

箕の素材を転用した最初の収納カゴ。
立ち上がりの部分が箕のようにふくらんでいる

昨秋にできたフタ付きカゴ。参考商品