Kuno×Kunoの手仕事良品

#015[島根の洋皿]島根県石見地方 2007.04.23

石見の陶土活用法を思案

 

 島根県邇摩郡温泉津町(にまぐん ゆのつまち)に、森山雅夫さんという陶工がいる。河井寛次郎さんの最後のお弟子さんであり、修行していた時に、「いいつくり手よりもまず立派な人間になれ」と教えられた。そしてその言葉を大事に今でも陶工として真面目に仕事に取り組んで生きてきた。彼は河井さん譲りのコバルトの釉薬を駆使し、「いっちん模様」が得意である。しかも、それらを雑器として安価でつくるものだから、かなり人気が高い。 私が30年ほど前に工芸店を始める時、すでに森山さんの噂は聞いていたものだから、当初より森山さんの物を入手したく、熱心に関わっていったことで、その後も深いつながりができていった。その当時に河井さん系のあるお弟子さんから聞いたのだが、森山さんを今の温泉津の窯へ連れ出したのは、荒尾常蔵さんという人だったという。荒尾さんは京都の人で、河井さんのお弟子さんの中でも影響力のあった方。豪快で親分肌の陶芸家だったという。
 荒尾さんは45年ほど前に京都から温泉津に窯を移した。島根県石見地方の陶土(白土)は硬質で割れにくい半磁器。そして焼成すると、味気なくて食器などの小物雑器類への転用が非常に難しい。ただ防塩、防酸には優れた土であるゆえ、これを活かすことに取り組んでいきたいこともあってか、窯を移られたのだとか。
 森山窯を訪ねるたびに、そんな話を聞き、この私も何かできないのかなと思ったのだ。そんな折、たまたま鈴木繁男さん(柳宗悦さんのもとで働き、終生、柳宗悦さんを師と仰いだ方で、希代の目利きである工藝意匠家)という民藝の先達から、陶器の皿はロクロで挽くと、フラットになりにくく、どうしても深めになってしまう。日本でも洋皿をつくれないかという話を持ち出されたこともあった。平たい皿をつくるとすれば、磁器でつくるしかないが、それでは味気ないものになる。陶器の洋皿は使い勝手が馴れないと、割れやすくて難しいのである(陶器はカオリナイトを含まない粘土を原料とし、釉薬を用いる。透光性はないが、吸水性がある。厚手で重く、叩いたときの音も鈍い。一方の磁器は粘土質物や石英、長石を原料として半透光性で、吸水性がない。陶磁器の中では最も硬く、軽く弾くと金属音がする)。
 石見地方の硬質な土ならば、洋皿づくりが可能ではと私は思い、土質のことをつくり手の人に聞いたりした。すると、イギリスのストーンウエア(?器=せっき。よく焼き締まって吸水性の無い焼き物)に近い感じがするという。ならば、工夫して新たな平たい皿づくりに利用できないだろうかと考えたのだった。


森山窯の外観

森山窯を訪ねた私(左)と談笑する森山夫妻

洋皿の見本となったピューター皿。
ピューターとはピューターは、スズを主成分とし、これにアンチモンや銅を加えて調整した合金。中世(15〜17世紀)のヨーロッパでピューター製品の人気が急速に高まった。とりわけイギリスには、当時で世界最大のスズ、鉛、銅の鉱山があり、ピューター製品が盛んにつくられ輸出された。1348年までには、ロンドンが世界最大のピューター製品生産地になる。イギリスでは、ピューター製品に関する品質基準が定められて厳格な管理がおこなわれたという。その結果、英国製ピューター製品に対する高い評価が定着した
(画像提供/five from the ground
www.from-the-ground.com)

ピューターにヒントを得て

 

 洋皿はどういうものか、まだ認識不足だったので、デパートなど洋食器扱いの店を回り、洋皿を見に行った。今でこそ洋皿は当たり前のようにあるが、30年ほど前はそんなに洋皿が出回っていなくて、日本製ではノリタケなどのメーカーのもので、すこしも魅力がないから、形態は参考にしても真似る必要はないなと感じた。その頃、目白の骨董店の「坂田」に私はよく出入りしていて、初めてピューターという皿を見せてもらった。平たく薄いかたちで、19世紀頃、英国では盛んに食器として使っているのだという話を聞いた。これを焼き物に置き換えたらおもしろいのではないかと考えた。ところが、当時のピューターは7万円くらいしていたものだから、私自身購入するほど余裕が無くて、事情を話した上で、坂田さんに貸してくれないかと相談すると、快く承諾してくれた。
 ロクロ技術がとても巧みな森山さんならば、平たい皿ができるのではないかと考えたからである。坂田さんから借りたピューターを手に、このかたちでつくってみないか、と森山さんを訪ねた。30代後半の元気な森山さんは挑戦してつくってみたいと言った。
 金工品と陶器は全然物質が違うものだから、このまま真似しても、同じようにはできないが、高台を広くとってみたら可能では?と言う。ロクロ挽きの皿は高台を持たせないといけない。高台が狭いと、焼いている時に皿の出たつばが下に落ちる。高台が広ければ、底が底切れする(乾燥時や焼成時に底にひびが入る)性質がある。それを防ぐには、ロクロで挽いて高台の輪をしっかりとった上に、その高台を薄めにしてみたらどうかということになった(内側をほじくるような高台。「内高台」とも言う)。
 さらに、ピューターの表面の線引きに私たちは着目した。この溝は持った時に滑り止めの役割をしているのではないかと想像した。ならば、陶器の洋皿も高台が低いと持ちにくく滑りやすいから、これを真似て、線引きをすることにしたのだった。

コバルトの洋皿をつくる

 皿のかたちをつくると、では釉薬は何にしようかということに。私はすかさず、森山さんが得意とするコバルトを掛けてくださいと進言した。コバルト釉薬には2種類あって、呉須釉(ごすぐすり)と瑠璃呉須(るりごす)とがある。瑠璃呉須は釉薬ではなく、呉須(酸化コバルトを主成分し染付に用いる彩料)を刷毛(はけ)で曲面に塗り、その上に石灰釉薬を掛けてからコバルトを再度掛ける。これを何回か繰り返すのである。そうして焼くと、前面に明るい紺碧、いわば太平洋岸の海の色のような色になる。呉須釉薬のみだと、日本海のような深みのある濃紺色になる。石見の白陶土は土が白いので(鉄分をあまり含んでいないため)、メリハリが出てしっかりと色が出てくるのだ。森山さんは早速、見本を10枚ほどつくってくれた。これがなかなか良い出来でびっくりした。
S  洋皿づくりのきっかけをつくった鈴木繁男さんに我が家に来ていただき、泊めて、森山さんの洋皿を見せたのだった。すると、意外にも鈴木さんは良い感触を覚えなかったようだ。「こんな平たい皿をつくる必要はない」と言う。「平たい皿をつくれたら・・・」と言った本人がその皿を見て、あまり好ましくない顔をするのだ。私は鈴木さんを尊敬し、信頼していたので「これだけ良い皿をつくったのに・・・」とがっかりしたのだ。
 しかし、気持ちをきりかえて、モーニングをこの皿で出してやろうと、翌朝、妻がキャベツを刻み、ハムエッグやトマトを添えて鈴木さんに出したのだ。すると「おっ、この皿はすごく良いねえ」と言う。昨日と180度違うことを口にしたのだ。しかし、直感的であり、実感的な率直な感想が伝わり、嬉しかった。
 皿は使って見せることが大事なのだと私は実感した。後で私なりに理解したことであるが、おそらく鈴木さん自身は、皿のかたちよりもコバルトの釉薬を掛けたことに抵抗があったのだろう。実は鈴木さんが河井寛次郎さんに対しては互いに敬遠していたことも所以だったのではないだろうか。という単純な話だった。森山さんが河井寛次郎の弟子だったということ自体に抵抗があったのかもしれない。そのため、つくったものは良かったが、快い気持ちができなかったのではないだろうか。
 鈴木さんは皿をまじまじと見て「こんな平たい皿をロクロで挽いてしまうというところが凄いな。ふつうだったら、へたるか、底切れするよ。これからはこういった皿も目指すべきではないかな。良い物を今日は見た」と褒めてくれたのだった。早速、その場で森山さんに電話した。彼も喜んで、ならばこの皿をこれからつくっていこうと言っていた。
 このようにして平たい陶器の洋皿は製品化の道をたどることとなる。最初につくったのは、坂田さんから借りたピューターと同じ大きさで、7寸5分ほどの寸法だった。そして、製品の幅を広げてみようと、洋皿ならインチなのだが、尺2寸や、尺、5寸5分や6寸5分の小さな皿などを手がけた。
 森山さんの洋皿は斬新で、民藝館展でも評判となった。当時の審査員の先生たちが、陶器をロクロでこれだけ平たいものを挽く技術に感嘆し、この新たな皿づくりは素晴らしいことだと評価をした。むろん私の店でも森山さんの平皿は定番製品となったのだった。


森山さんは筒描きという手法が得意だから、
こんな皿もアレンジしてつくってもらった。
「いっちん花模様」

奥の皿は森山さんが一番最初につくった、
瑠璃色の7寸5分の縁付き洋皿(平皿)。
これが鈴木繁男さんに褒められた皿。
手前が皿のバランスを考えて完成させてもらった洋皿

ケーキ皿

バリエーションを注文

 

 瑠璃呉須は呉須を塗るから「塗り呉須」とも呼ばれ、私たちは森山さんの皿を「瑠璃釉」と呼んで扱った。
 ただ、このパターンだけならば、あまりにも一辺倒なものだから、「並釉」という透明感をもった釉薬も取り入れるようにした。この並釉を石見の白陶土に掛けると透明感がとてもよく出た。そして、還元炎で焼くと(酸欠状態の不完全燃焼の状態で焼くと)明るい薄草色に呈色する。石灰釉薬のなかに土灰をすこし混ぜると、土灰のなかの成分によって陶器が黄緑色にもなった。また、縁に線を入れたり、センターに線を入れたり、この皿の良さを見せたいとさまざまな試行錯誤をしたのだった。
 何より瑠璃色の発色がきれいだったが、それも使っているうちに飽きてくると困るので、鉄釉を用いたものも考えた。かたちもそれに伴って、やや縁を切立にしたものもつくられた。
 石見陶土には赤土と白土が存在したが、それまで森山さんは白土ではなく、赤土をつかっていた。赤土は鉄分が多いため、焼いたときに鉄分の作用によって色の変化が激しいものだから、白化粧土を掛けたり、呉須や灰釉には向いていた。洋皿づくりで白土を用いたことで、森山さんの仕事の幅が広がったし、私もこの件にずいぶんのめりこんだのだった。
 洋皿を手仕事でつくったということは大変な挑戦でもあり、成功例のひとつだ。それを可能とした大きな要因は石見地方の、普通では日用品に使えないような、焼き上がると寒い(暗い)陶土だったのである。この土の割れにくい性質を積極的に活用して工夫したことで日用雑器に転化できたのだ。このことに関われたことは私にとっても大きな力になったし、石見地方の陶業に寄与できたと思ったからである。


赤土に化粧土を掛けた洋皿を試みてみた。
これも森山さん作

赤土を利用した洋皿

宮内謙一さんと知り合う

 

 森山さんは個人で仕事をしている上、器物ひとつひとつに対してていねいに取り組むため、時間がかかり、その分、価格がどうしても上がってしまう。時代的にも最近は、日常雑器で高い物は敬遠されてしまう。 しばらくして、その後、同じ島根県の石見地方、江津市(ごうつし)のはずれ、都野津(つのづ)に窯を持っている宮内謙一さんという人と知り合いになった。宮内さんは大物づくりの職人で、江津は昔から白い陶土で大物をつくっていた。大きい水龜(みずがめ)だとか、硫酸瓶など、酸にも塩にも強く漬け物に適していると日本各地の瀬戸物屋で売られていたこともあった。一石、二石入りなどの巨大な甕(カメ)をつくる技術を持っていたが、今は技術力が低下して、その技術を持つ人は少なくなり、宮内さんはその代表格で、名工といってもよい。
 彼は全国の民藝店を相手に小石原焼き風や、小鹿田焼き風の飛び鉋や刷毛目を打った、やや土管型の傘立てをいっぱいつくっていた。それらは値段が圧倒的に安い。小鹿田焼きの1/3くらいの値段だ。宮内さんは技術力があるため量をつくれ、その分安いのだ。だが、その傘立はいかにも民芸品っぽいものだから、私は敬遠していたので、それまでは縁が無かった。
 私が宮内さんの窯を訪ねるきっかけになったのは、石見地方の古い片口に出合ったからだ。片口がすり鉢になっているもので、量産できて、価格が安ければ、これは今でも十分使えると思い、これをつくってもらおうと、最適なつくり手として宮内さんの窯にお願いすることになる。
 ところが宮内さんは昔、職人の頃つくったことはあるが、今ここには見本が無いし、かたちも覚えてもいないという。それであちこちを聞き回り、浜田市のはずれ、江津市との境目に「吉田屋製陶所」という窯があり、そこに行ったらまだ残っているかもしれないと聞いた。
 訪ねると大きな登り窯があったが、すでに廃業に近い状態で、そこにいた人は「俺らは辞めてから10数年経つけれど、昔はこの大きな窯でつくっていましたよ」と言う。その窯で「ものはら」と言って、焼き損じて捨てられている野原にあった物のなかに昔の片口を見つけた。
 「これは良いな」と手に取り、宮内さんの窯に持って行き、つくってもらうことになる。それが、今はポピュラーになった「目片口」という片口すり鉢だ。大量につくれるから値段も安いし、丈夫で割れにくくて、私の店ではヒット商品になったのだ。 そうして宮内さんともつき合うようになると、宮内さんの技術力をもってすれば、この平たい皿もつくれるのではないかと思って、おそるおそる「実は森山さんにもやってもらっているんだけど、宮内さんもつくってもらえないか? ただし人のつくっているものを真似するのは嫌うでしょうから、森山さんと同じようなつくりではなくて、デザインもやや変えて、少し幅や寸法も変えるので、つくってもらえないか?」と打診した。
 すると「私は注文を受ければ何でもつくりますよ。それが職人というものです」と宮内さん。だったらぜひお願いしたいと、彼にも洋皿に製作を依頼したのだった。


私と談笑する宮内さん(左)

宮内さんが製作した大甕

宮内窯の内外観

宮内さんにつくってもらった目方口

奧は宮内さんがつくった白掛けの洋皿、大きさは8寸5分。
手前が縁にアクセントをつけた洋皿

地域の特質とつくり手の技量を見極める

 

 こうして宮内さんに平皿をつくってもらいはじめて10数年が経つけれど、評判が高い。ところが彼には森山さんみたいに瑠璃釉薬やコバルトなどの釉薬をつくる技術力は無い。陶工として生きている上で、ロクロ仕事が専業である。釉薬をつくるには化学的な知識が豊富で研究をする時間も要する。森山さんは釉薬の達人、河井寛次郎さんのもとにいて、釉薬調合のノウハウを受け継いでいるから、釉薬をつくることはわりと長けていた。宮内さんが釉薬を研究するのに、困難な仕事ぶりなのである。 
 どうしてもこの白土を活かすことを考えないといけないのは、何も施さなければ、焼成した時に一般には冷たい焼き上がりの色となり、寒く感じてしまうのだ。だから、まず鉄分の強いベンガラ(酸化第二鉄)を薄く赤化粧した上に、さらに他所からの白土を化粧掛けすることで、温かみのる白を生じさせるという方法を考えた。そして尺2寸、尺1寸と寸刻みでどんどんつくっていってもらった。今はこれがまさに人気が高いのだ。安価な上、丈夫で割れにくいし、使いやすい。平たいために積み重ねても高くならないから収納にも都合が良い。何も無い無地だけれども、よく見ると白い化粧土を掛けたときに、化粧土がたまった所に雰囲気がある。なんとなく風情を感じられるのだ。 森山さんの挑戦に始まり、宮内さんの実用的で使いやすくて誰もが平素無事に使える仕事にもっていけた。このことは私たちが地域の特質をきちんと見極めて何をつくればよいか方向性を指し示すし、それによって根付いた仕事ぶりに定着させる試みが成功したといってようであろう。 昨今出回りだした、表層的で自己中心的な嗜好民芸品は、浅はかで、物の本質を理解しえないところで、得て勝手に誤解する傾向があり、それが一時的であれ、流行していく気風もある。私たちはそんな時代の中でも、つくり手の性質を見極め、その技量をみて、きちんとしたものをつくる方向性をこちらで提案していかなくてはいけない。そして、その提案をつくり手に受け入れてもらって、良いものをつくっていく。
 私はこの洋皿づくりを通じて、そういうひとつの方向性が見えてきた気がする。次世代のつくり手にも、このようにアドバイスしていけたら、まだまだ日本の手仕事の良品が健全に育っていくのではないかなと思っているのだ。

 

(語り手/久野恵一、聞き手/久野康宏)