洋皿の見本となったピューター皿。 ピューターとはピューターは、スズを主成分とし、これにアンチモンや銅を加えて調整した合金。中世(15〜17世紀)のヨーロッパでピューター製品の人気が急速に高まった。とりわけイギリスには、当時で世界最大のスズ、鉛、銅の鉱山があり、ピューター製品が盛んにつくられ輸出された。1348年までには、ロンドンが世界最大のピューター製品生産地になる。イギリスでは、ピューター製品に関する品質基準が定められて厳格な管理がおこなわれたという。その結果、英国製ピューター製品に対する高い評価が定着した (画像提供/five from the ground www.from-the-ground.com)
ピューターにヒントを得て
洋皿はどういうものか、まだ認識不足だったので、デパートなど洋食器扱いの店を回り、洋皿を見に行った。今でこそ洋皿は当たり前のようにあるが、30年ほど前はそんなに洋皿が出回っていなくて、日本製ではノリタケなどのメーカーのもので、すこしも魅力がないから、形態は参考にしても真似る必要はないなと感じた。その頃、目白の骨董店の「坂田」に私はよく出入りしていて、初めてピューターという皿を見せてもらった。平たく薄いかたちで、19世紀頃、英国では盛んに食器として使っているのだという話を聞いた。これを焼き物に置き換えたらおもしろいのではないかと考えた。ところが、当時のピューターは7万円くらいしていたものだから、私自身購入するほど余裕が無くて、事情を話した上で、坂田さんに貸してくれないかと相談すると、快く承諾してくれた。
ロクロ技術がとても巧みな森山さんならば、平たい皿ができるのではないかと考えたからである。坂田さんから借りたピューターを手に、このかたちでつくってみないか、と森山さんを訪ねた。30代後半の元気な森山さんは挑戦してつくってみたいと言った。
金工品と陶器は全然物質が違うものだから、このまま真似しても、同じようにはできないが、高台を広くとってみたら可能では?と言う。ロクロ挽きの皿は高台を持たせないといけない。高台が狭いと、焼いている時に皿の出たつばが下に落ちる。高台が広ければ、底が底切れする(乾燥時や焼成時に底にひびが入る)性質がある。それを防ぐには、ロクロで挽いて高台の輪をしっかりとった上に、その高台を薄めにしてみたらどうかということになった(内側をほじくるような高台。「内高台」とも言う)。
さらに、ピューターの表面の線引きに私たちは着目した。この溝は持った時に滑り止めの役割をしているのではないかと想像した。ならば、陶器の洋皿も高台が低いと持ちにくく滑りやすいから、これを真似て、線引きをすることにしたのだった。
コバルトの洋皿をつくる 皿のかたちをつくると、では釉薬は何にしようかということに。私はすかさず、森山さんが得意とするコバルトを掛けてくださいと進言した。コバルト釉薬には2種類あって、呉須釉(ごすぐすり)と瑠璃呉須(るりごす)とがある。瑠璃呉須は釉薬ではなく、呉須(酸化コバルトを主成分し染付に用いる彩料)を刷毛(はけ)で曲面に塗り、その上に石灰釉薬を掛けてからコバルトを再度掛ける。これを何回か繰り返すのである。そうして焼くと、前面に明るい紺碧、いわば太平洋岸の海の色のような色になる。呉須釉薬のみだと、日本海のような深みのある濃紺色になる。石見の白陶土は土が白いので(鉄分をあまり含んでいないため)、メリハリが出てしっかりと色が出てくるのだ。森山さんは早速、見本を10枚ほどつくってくれた。これがなかなか良い出来でびっくりした。
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洋皿づくりのきっかけをつくった鈴木繁男さんに我が家に来ていただき、泊めて、森山さんの洋皿を見せたのだった。すると、意外にも鈴木さんは良い感触を覚えなかったようだ。「こんな平たい皿をつくる必要はない」と言う。「平たい皿をつくれたら・・・」と言った本人がその皿を見て、あまり好ましくない顔をするのだ。私は鈴木さんを尊敬し、信頼していたので「これだけ良い皿をつくったのに・・・」とがっかりしたのだ。
しかし、気持ちをきりかえて、モーニングをこの皿で出してやろうと、翌朝、妻がキャベツを刻み、ハムエッグやトマトを添えて鈴木さんに出したのだ。すると「おっ、この皿はすごく良いねえ」と言う。昨日と180度違うことを口にしたのだ。しかし、直感的であり、実感的な率直な感想が伝わり、嬉しかった。
皿は使って見せることが大事なのだと私は実感した。後で私なりに理解したことであるが、おそらく鈴木さん自身は、皿のかたちよりもコバルトの釉薬を掛けたことに抵抗があったのだろう。実は鈴木さんが河井寛次郎さんに対しては互いに敬遠していたことも所以だったのではないだろうか。という単純な話だった。森山さんが河井寛次郎の弟子だったということ自体に抵抗があったのかもしれない。そのため、つくったものは良かったが、快い気持ちができなかったのではないだろうか。
鈴木さんは皿をまじまじと見て「こんな平たい皿をロクロで挽いてしまうというところが凄いな。ふつうだったら、へたるか、底切れするよ。これからはこういった皿も目指すべきではないかな。良い物を今日は見た」と褒めてくれたのだった。早速、その場で森山さんに電話した。彼も喜んで、ならばこの皿をこれからつくっていこうと言っていた。
このようにして平たい陶器の洋皿は製品化の道をたどることとなる。最初につくったのは、坂田さんから借りたピューターと同じ大きさで、7寸5分ほどの寸法だった。そして、製品の幅を広げてみようと、洋皿ならインチなのだが、尺2寸や、尺、5寸5分や6寸5分の小さな皿などを手がけた。
森山さんの洋皿は斬新で、民藝館展でも評判となった。当時の審査員の先生たちが、陶器をロクロでこれだけ平たいものを挽く技術に感嘆し、この新たな皿づくりは素晴らしいことだと評価をした。むろん私の店でも森山さんの平皿は定番製品となったのだった。 |