九州ひとり旅
昭和48年末、この仕事を始めて間もない頃、ようやく車の免許を取って、単独の車での最初の旅が九州であった。
川崎からカーフェリーに乗り、26時間かけて宮崎に到達。宮崎で数泊してから鹿児島の龍門司焼の窯を訪ね、友人を頼ってさらに数泊し、熊本県の人吉へ。人吉城を見たかったのである。なぜかというと大学一年生の春に人吉城を旅し、球磨川という大きな川を天然の要塞とした石垣の城跡に感激した。宮本常一先生のゼミ「生活文化研究会」でスライドを見せつつ、こんな地形ならば攻めるのは難しかっただろうと意見を述べたのだった。
すると「バカ言っちゃいけないよ、キミ」と宮本先生(得意なフレーズ)。何を見て来たのだと言われた。大きな川があるから攻めにくいというのは、よく見ていない証拠だと。その際に先生から城づくりや町づくりの話を聞いて、鹿児島県と熊本県の境に興味を覚えたのだった。
また当時、水俣病という社会問題にも関心があり、水俣に行ってみたかった。そんなわけで、人吉から宮崎県のえびの高原に戻って、竹細工のカゴ類やその他の手仕事のつくり手を探りながら水俣を目指したのだった。
鹿児島から水俣へ下りる途中で出会った、何人もの人に「この辺でカゴをつくっている人はいませんか?」と尋ねて回った。そして水俣市の間近の大藪(おおやぶ)という所で尋ねた人がようやく知っていて、山を越した向こう側の湯出(ゆづる)温泉で、竹細工をつくる人は何人もいますよとのことだった。そこに行こうと、水俣にいったん入ってから湯出川に沿って湯出温泉方面に上がった。
湯出川沿いに宿が並ぶ、湯出温泉
坂口庄太郎さんに出会う
湯出温泉は、谷あいに急峻な山が両方から迫っている地形。川沿いにひなびた宿が並んでいて、少し斜面を上がると、すぐに竹細工をしている人の家が3軒、目に入った。車を停めやすい所に駐車すると、その近くで一人のおじいさんが外に出て竹細工をつくっていた。坂口庄太郎さんという80歳くらいの年齢の方だった。坂口さんにこの地域で竹細工を何人の人がつくっているか聞くと6人で、みんな同じようなものをつくるのだと言う。それらは湯出温泉を訪ねる湯治客相手の物だった。当時の私は自分の店を始める少し前だったので、ここの竹細工を扱ってみたいと打診すると、卸売りはしない、小売りのみなのだと、坂口さんは教えてくれた。 それでも、とにかく坂口さんの所にあるものが欲しいと思った。たまたま一つ「ショウケ」と呼ばれる「米上げ笊」、だいたい5升入れと1斗入れがあった。それは鹿児島とは形態が違っていて、丸みのある、きれいなかたちの米上げ笊だった。当時で1200円。ずいぶん安くつくれるものだと感心していると、ヒゴどり(ここでは「ヘゴ」と言う)をまとめて取っておいてから編み始めるから、日数計算を考えれば1日で1個半とか2個くらいのペースでつくれるのだ、と坂口さんは教えてくれた。
複雑な地域
そういった話を坂口さんから聞いた後、他のつくり手の所も訪ねようとすると「斜め前の奴は嫌いだ」と坂口さん。その人の名前を尋ねると、知りたければ自分で行けと。ただし向こうで買ったら、俺の物は渡さないぞと言う。どうも仲が悪くて複雑な所なのだなと思った。まず坂口さんに竹細工の物を注文することになった。彼にどんな物をつくるのか聞くと、手の付いた提げるカゴや、背負いカゴをつくるというので、今度来た時までに、それらをつくっておいてくださいと依頼。いつ来るか?と聞くので、では、葉書を出してお知らせしますよ、と言って道を下りて帰るふりをした。坂口さんが家の中に入るのを見計らってから、車で上がり、上からゆっくりと道を下りていった。すると道端で竹細工をつくっている人を2人見かけた。そのうちの一人で、しっかりとした顔つきの人に目が留まった。顔つきを見るだけでも、この人は良い仕事をしそうだなと感じた。そのつくり手の名は柏木芳雄さんという。ところが、私が坂口さんと話しているのを柏木さんは見ていたから、どうも行きにくかった。それでも柏木さんに挨拶しに行くと、無視された。これは人間関係の難しい所だな、まあそのうち再訪すればいいかな、と考えたのだった。
それから3〜4ヶ月後、坂口さんに葉書を出して注文書を書いて、前回に要望した物を欲しいからと受け取りに行った。ところが、出来上がった、手の付いた提げカゴのつくりが粗いのだ。当時の私には十分な眼がまだ備わっていなかったけれど、あまり上手じゃないなという印象だった。
その時、坂口さんの所にはビニールの紐で縁を巻き、長めの手が付いたカゴも置いてあった。買い物カゴですか、と聞くと「ビンサゲ(提げ)カゴだ」と坂口さん。宿屋からの注文で、温泉宿の女中さんがビールを縦に3本乗せて持って歩いて部屋に入るためのカゴだと。「ああなるほど、ではビール瓶入れカゴですか?」と問いを重ねると、「まあそうとも言うけれど、こっちではカゴのことをテゴとかメゴとか言う。メゴは細かい仕事だから、これはテゴかなあ(ビンサゲテゴ)」と答えた。
では今度来た時にこれをつくっておいてくださいよと注文をしつつ、柏木さんの家の方を見たら、立派な背負いカゴが見えた。それは背負って担ぐことからこの地域では、「カレテゴ」と呼ばれていた。柏木さんの所にも行きたいと思ったが、夕方までに鹿児島の友人の所に着かなくてはならず、そのまま帰ったのだった。
竹細工が栄えた理由
それから1年ぐらい経ってから再び湯出温泉を訪ねた。まずは坂口さんの所に顔を出さなくてはいけなかったが、うまい具合に坂口さん宅の戸が閉まっていた。坂口さんの家は竹カゴ屋というより、お土産品屋。土産品屋に竹カゴが売っている感じ。おばあちゃんがお土産品を売って、おじいちゃんが竹カゴをつくって、そこで売っているという形態なのだ。
そのような形態は、九州各地でよく見かける。そのことは温泉場の土産物として大分県別府で竹細工が盛んになったことと関連がある。別府はかなり昔から瀬戸内海航路が開けていた。また硫黄が豊富な上、湯の成分が良いために、湯治場としてはかなり平安時代から全国に名を轟かせていた。とりわけ瀬戸内海航路で四国あるいは瀬戸内海の人々、岡山県の備前、備中、備後、播磨、遠くは畿内の人たちが湯治に訪ねることができた。温泉場では多くの客に土産物として生活用品を売り、そこには手仕事の物も入ってくるということになる。湯治客はそうした生活用品を別府のカゴなどの竹製品に求め、そのために、別府が一大竹製品の生産地として発達したのである。九州の竹細工といえば、みんな別府というけれど、九州全体に竹は豊富だ。しかし、別府の生産量が突出しているのは、そういうわけで需要がとても多かったからなのだ。
というわけで九州各地の温泉場には竹細工をつくる人がいて、小さな産地化(つくり手がたくさん集まってくる)もみられた。そこに住めば、つくり手自らが小売りできるからだ。市場に持って行ったり、店には卸す必要は無い。じかに湯治客に売る形態で、発達していったのだ。湯出温泉の竹カゴもこのような形態で、数多くのつくり手が存在していたのではないかと私は推測している。
ついに柏木さんの所へ!
話は戻るが、坂口さんの家が閉まっていたものだから、これは絶好なタイミングと思い、すぐに柏木さんの所へ行った。そうしたら、彼はお見通しで、「今日は(坂口さんは)いないだろう。あんたは向こう(坂口さんのところ)へ行けばいい。うちに来なくても」と柏木さん。「いやあ、ごめんなさい。あなたのつくる物は遠くから見てもとても良い仕事なので、まあ話を聞いてください」と私は切り返した。はたして、柏木さんの家には以前、遠目で目にした背負いカゴが置いてあった。密なつくりで、活き活きとしていた。竹の面を取って、非常に緻密に、ふつうの仕事の3倍の手間をかけていた。きれいな編みかたで、上手な人だと、一目で感心した。値段は高い。坂口さんのカゴの倍以上だ。しかし、仕事が上手だからぜひ欲しいと思う。また彼の仕事を見ていると、速いし、ていねいだし、つくづく仕事人だな、と見惚れた。
で、この「カレテゴはいくらですか?」と聞いた。「カレテゴなんて言葉をどうして知っているんだ?と」柏木さん。ここでは背負いカゴを「オイメゴ」と呼んでいるのだという。背負うという「負う」からの言葉であろう。立ち上がりが高い物は「テゴ」ではなく「メゴ」と呼んだようだ。
すかかず私は「良い言葉ですね、じゃあそのオイメゴをください」と頼んだ。すると、値はそのままでしか出せないという。当時(30年以上前で)8000円はした。かなり高価だったのだ。でも、どうしても欲しいから買ったのである。他にも柏木さんの仕事を見ると、どれも欲しい物ばかりで、値段は高いけれど、やっぱりこの人とつき合っていきたいなと思ったのだった。 |