Kuno×Kunoの手仕事良品

#016[水俣のカゴ]熊本県水俣市湯出温泉 2007.05.21

九州ひとり旅

 

 昭和48年末、この仕事を始めて間もない頃、ようやく車の免許を取って、単独の車での最初の旅が九州であった。
 川崎からカーフェリーに乗り、26時間かけて宮崎に到達。宮崎で数泊してから鹿児島の龍門司焼の窯を訪ね、友人を頼ってさらに数泊し、熊本県の人吉へ。人吉城を見たかったのである。なぜかというと大学一年生の春に人吉城を旅し、球磨川という大きな川を天然の要塞とした石垣の城跡に感激した。宮本常一先生のゼミ「生活文化研究会」でスライドを見せつつ、こんな地形ならば攻めるのは難しかっただろうと意見を述べたのだった。
 すると「バカ言っちゃいけないよ、キミ」と宮本先生(得意なフレーズ)。何を見て来たのだと言われた。大きな川があるから攻めにくいというのは、よく見ていない証拠だと。その際に先生から城づくりや町づくりの話を聞いて、鹿児島県と熊本県の境に興味を覚えたのだった。
 また当時、水俣病という社会問題にも関心があり、水俣に行ってみたかった。そんなわけで、人吉から宮崎県のえびの高原に戻って、竹細工のカゴ類やその他の手仕事のつくり手を探りながら水俣を目指したのだった。
 鹿児島から水俣へ下りる途中で出会った、何人もの人に「この辺でカゴをつくっている人はいませんか?」と尋ねて回った。そして水俣市の間近の大藪(おおやぶ)という所で尋ねた人がようやく知っていて、山を越した向こう側の湯出(ゆづる)温泉で、竹細工をつくる人は何人もいますよとのことだった。そこに行こうと、水俣にいったん入ってから湯出川に沿って湯出温泉方面に上がった。


湯出川沿いに宿が並ぶ、湯出温泉

坂口庄太郎さんに出会う

 

 湯出温泉は、谷あいに急峻な山が両方から迫っている地形。川沿いにひなびた宿が並んでいて、少し斜面を上がると、すぐに竹細工をしている人の家が3軒、目に入った。車を停めやすい所に駐車すると、その近くで一人のおじいさんが外に出て竹細工をつくっていた。坂口庄太郎さんという80歳くらいの年齢の方だった。坂口さんにこの地域で竹細工を何人の人がつくっているか聞くと6人で、みんな同じようなものをつくるのだと言う。それらは湯出温泉を訪ねる湯治客相手の物だった。当時の私は自分の店を始める少し前だったので、ここの竹細工を扱ってみたいと打診すると、卸売りはしない、小売りのみなのだと、坂口さんは教えてくれた。 それでも、とにかく坂口さんの所にあるものが欲しいと思った。たまたま一つ「ショウケ」と呼ばれる「米上げ笊」、だいたい5升入れと1斗入れがあった。それは鹿児島とは形態が違っていて、丸みのある、きれいなかたちの米上げ笊だった。当時で1200円。ずいぶん安くつくれるものだと感心していると、ヒゴどり(ここでは「ヘゴ」と言う)をまとめて取っておいてから編み始めるから、日数計算を考えれば1日で1個半とか2個くらいのペースでつくれるのだ、と坂口さんは教えてくれた。

複雑な地域

 そういった話を坂口さんから聞いた後、他のつくり手の所も訪ねようとすると「斜め前の奴は嫌いだ」と坂口さん。その人の名前を尋ねると、知りたければ自分で行けと。ただし向こうで買ったら、俺の物は渡さないぞと言う。どうも仲が悪くて複雑な所なのだなと思った。まず坂口さんに竹細工の物を注文することになった。彼にどんな物をつくるのか聞くと、手の付いた提げるカゴや、背負いカゴをつくるというので、今度来た時までに、それらをつくっておいてくださいと依頼。いつ来るか?と聞くので、では、葉書を出してお知らせしますよ、と言って道を下りて帰るふりをした。坂口さんが家の中に入るのを見計らってから、車で上がり、上からゆっくりと道を下りていった。すると道端で竹細工をつくっている人を2人見かけた。そのうちの一人で、しっかりとした顔つきの人に目が留まった。顔つきを見るだけでも、この人は良い仕事をしそうだなと感じた。そのつくり手の名は柏木芳雄さんという。ところが、私が坂口さんと話しているのを柏木さんは見ていたから、どうも行きにくかった。それでも柏木さんに挨拶しに行くと、無視された。これは人間関係の難しい所だな、まあそのうち再訪すればいいかな、と考えたのだった。
 それから3〜4ヶ月後、坂口さんに葉書を出して注文書を書いて、前回に要望した物を欲しいからと受け取りに行った。ところが、出来上がった、手の付いた提げカゴのつくりが粗いのだ。当時の私には十分な眼がまだ備わっていなかったけれど、あまり上手じゃないなという印象だった。
 その時、坂口さんの所にはビニールの紐で縁を巻き、長めの手が付いたカゴも置いてあった。買い物カゴですか、と聞くと「ビンサゲ(提げ)カゴだ」と坂口さん。宿屋からの注文で、温泉宿の女中さんがビールを縦に3本乗せて持って歩いて部屋に入るためのカゴだと。「ああなるほど、ではビール瓶入れカゴですか?」と問いを重ねると、「まあそうとも言うけれど、こっちではカゴのことをテゴとかメゴとか言う。メゴは細かい仕事だから、これはテゴかなあ(ビンサゲテゴ)」と答えた。
 では今度来た時にこれをつくっておいてくださいよと注文をしつつ、柏木さんの家の方を見たら、立派な背負いカゴが見えた。それは背負って担ぐことからこの地域では、「カレテゴ」と呼ばれていた。柏木さんの所にも行きたいと思ったが、夕方までに鹿児島の友人の所に着かなくてはならず、そのまま帰ったのだった。

竹細工が栄えた理由

 それから1年ぐらい経ってから再び湯出温泉を訪ねた。まずは坂口さんの所に顔を出さなくてはいけなかったが、うまい具合に坂口さん宅の戸が閉まっていた。坂口さんの家は竹カゴ屋というより、お土産品屋。土産品屋に竹カゴが売っている感じ。おばあちゃんがお土産品を売って、おじいちゃんが竹カゴをつくって、そこで売っているという形態なのだ。
 そのような形態は、九州各地でよく見かける。そのことは温泉場の土産物として大分県別府で竹細工が盛んになったことと関連がある。別府はかなり昔から瀬戸内海航路が開けていた。また硫黄が豊富な上、湯の成分が良いために、湯治場としてはかなり平安時代から全国に名を轟かせていた。とりわけ瀬戸内海航路で四国あるいは瀬戸内海の人々、岡山県の備前、備中、備後、播磨、遠くは畿内の人たちが湯治に訪ねることができた。温泉場では多くの客に土産物として生活用品を売り、そこには手仕事の物も入ってくるということになる。湯治客はそうした生活用品を別府のカゴなどの竹製品に求め、そのために、別府が一大竹製品の生産地として発達したのである。九州の竹細工といえば、みんな別府というけれど、九州全体に竹は豊富だ。しかし、別府の生産量が突出しているのは、そういうわけで需要がとても多かったからなのだ。
 というわけで九州各地の温泉場には竹細工をつくる人がいて、小さな産地化(つくり手がたくさん集まってくる)もみられた。そこに住めば、つくり手自らが小売りできるからだ。市場に持って行ったり、店には卸す必要は無い。じかに湯治客に売る形態で、発達していったのだ。湯出温泉の竹カゴもこのような形態で、数多くのつくり手が存在していたのではないかと私は推測している。

ついに柏木さんの所へ!

 話は戻るが、坂口さんの家が閉まっていたものだから、これは絶好なタイミングと思い、すぐに柏木さんの所へ行った。そうしたら、彼はお見通しで、「今日は(坂口さんは)いないだろう。あんたは向こう(坂口さんのところ)へ行けばいい。うちに来なくても」と柏木さん。「いやあ、ごめんなさい。あなたのつくる物は遠くから見てもとても良い仕事なので、まあ話を聞いてください」と私は切り返した。はたして、柏木さんの家には以前、遠目で目にした背負いカゴが置いてあった。密なつくりで、活き活きとしていた。竹の面を取って、非常に緻密に、ふつうの仕事の3倍の手間をかけていた。きれいな編みかたで、上手な人だと、一目で感心した。値段は高い。坂口さんのカゴの倍以上だ。しかし、仕事が上手だからぜひ欲しいと思う。また彼の仕事を見ていると、速いし、ていねいだし、つくづく仕事人だな、と見惚れた。
 で、この「カレテゴはいくらですか?」と聞いた。「カレテゴなんて言葉をどうして知っているんだ?と」柏木さん。ここでは背負いカゴを「オイメゴ」と呼んでいるのだという。背負うという「負う」からの言葉であろう。立ち上がりが高い物は「テゴ」ではなく「メゴ」と呼んだようだ。
 すかかず私は「良い言葉ですね、じゃあそのオイメゴをください」と頼んだ。すると、値はそのままでしか出せないという。当時(30年以上前で)8000円はした。かなり高価だったのだ。でも、どうしても欲しいから買ったのである。他にも柏木さんの仕事を見ると、どれも欲しい物ばかりで、値段は高いけれど、やっぱりこの人とつき合っていきたいなと思ったのだった。


ニコニコして私を迎えてくれる柏木さん(右)

柏木さんの工房

減りつつある竹細工師

 

 柏木さんに話を聞くと、父親の代から竹細工の仕事をしていたそうだ。父親の代には16人くらいの職人がいたが、今はいない。この通りには3人が竹細工の商売をしているが、そのうち2人はこの下にいて自分よりもっと年寄りであまり仕事ができていないと言う。その時の柏木さんは今の私と同年齢の50歳代だったのだろう。すでに白髪で、立派な顔立ちの人だった。
 さらに、どんなものを柏木さんがつくっているのか尋ねてみた。すると「注文ならば何でもつくる」と柏木さん。それが自分たちのやってきたことだと。父親にずいぶん厳しく育てられて、今の家の上に工場をつくって竹細工師を雇ってやっていたのだそうだ。父親自身も職人で、自分の息子も入れてさらに6〜7人の竹細工の職人を養成していたのだとか。そこでつくったものはここで販売していたし、かつては卸し販売もしていたのだという話をしてくれた。他所に出していたのはうちだけだったと。そのため柏木さんの所は竹細工のみ扱うが、他の2軒はお土産屋の形態で竹細工製品を直売していた。

ビンサゲテゴに惚れる

 私は柏木さんの仕事ぶりに惚れると同時に、坂口さんに所で見たあのビンサゲテゴにも惚れていた。なぜかというと、秋田の中川原 信一さんがつくるビンサゲカゴ(「kuno×kuno」第11回を参照)とやはり重なってくるのだ。あけびを素材にしたビンサゲカゴがあるということは、全国共通でビール瓶を入れるカゴがあるのかなと思った。しかも3本収納でき、旅館で使っているということにストーリーを感じたからだ。柏木さんも当たり前につくれるようなので、急遽、ビンサゲテゴも頼んだのだ。
 ところが、この地域のビンサゲテゴは持ち手が当時、1本だけだった。その仕様でビール3本を持つと重たいだろうし、持ち手自体もはずれてしまうのではと柏木さんに聞いた。「いやとんでもない。これで十分だ」と柏木さん。「こちらでは良いかもしれないけれど、長持ちさせようと考えた時に、2本ぐらいで手を交差してまとめた方が力も分散するから、良いのでは」と私は提言した。柏木さんは「確かにそうだなと。じゃあ、そのうちつくってやろう」と答えてくれた。
 こうして柏木さんとのつながりができていったのだ。それからは九州に行くたびに、必ず水俣に寄ったし、坂口さんの所にも顔を出したが、私が柏木さんの所に行っていることをすでに知っていて、嫌な顔をする。挨拶しても無視される。それでなんとなく行きづらくなって、坂口さんの所には寄らずに、柏木さんの方に通うようになった。そのうち5〜6年したある日、坂口さんの家が戸締まりされたままになっていた。聞いたら、おばあちゃんが亡くなられて、その後にすぐに亡くなられたという話だった。その家は25〜26年経っても、いまだにそのままの状態になっている。

たぐい稀なつくり手

 柏木さんの仕事がどんなにていねいでも、それは地元相手のつくりだから、手抜きではないけれど、普通に使えるようにつくっている。私としては、都会で使うためには仕上げを美しく、より仕事をていねいにということを求める。柏木さんは非常なテクニシャンな人だから、竹のヒゴを取った時に、竹の節を手間かけてナイフで削って、こんもりしたかたちにつくっていくこともやるのである。この人は私の知る限り、真竹(青竹)細工では、いちばんつくりが上手な人だと思う。加えてこの人自身が竹に対して感性的なものをもっている。
 なぜかというと彼は竹を自分で取りに行くのである。九州各地の竹細工のほとんどのつくり手は竹を竹屋にまかせる人が多いのに。柏木さんは素性の良い竹のみを求める。竹はどこにでもあるから竹細工の用いられるのではなくて、土壌や斜面の日照時間などにずいぶん左右されるのだそうだ。それによって節と節の間が均一だとか、節があまり太くないとか、粘り気が強いかなどに影響してくるのだとか(あまり粘り気が強い竹も良くない)。柏木さんは1年物の竹と3年物の竹を区分けして使うし、良質な竹を見分ける眼が直感的にたけている。
 それにつくりについても、ていねいさが当たり前だと考えている。ていねいすぎる注文に文句は絶対に言わない人なのだ。それが作品でなくて、製品であっても良い物をつくりたいという想い(心がけ)をもっているのだ。これはきっと名人といわれた親方の父親からの薫陶を受けているのだろう。同時に彼がもって生まれたセンスを持っていたこともあるのだと思う。
 私は竹細工師の中にも上手い人、下手な人がいて、感性的にも鋭い人がいるのだと知ることができた。たとえば焼物で沖縄の金城次郎という傑出した力をもつ人が出てきたように、柏木さんは竹細工師の中でもたぐい稀なる力を持った人なのだ。この人がもし昭和初期時代のつくり手だったら、柳宗悦の目に留まったかもしれない。それだけのつくりの良さがあるのだ。


22年前に最初につくってもらったビンサゲテゴ。
胴体の着色が気に入らない

ビンサゲテゴをリ・フォーム

 

 その後、20数年前からは私の方から提案した、かなり難しいものを柏木さんにつくってもらうようになった。それまでは定番化している品を注文して使いやすいように多少変えてもらっていた。今度はこちらからアプローチしたものをどんどんつくってもらうようになったのだ。
 その第一回目の作品がビンサゲテゴ(下の写真)である。従来のビンサゲテゴは持ち手がもっと背高い。そうしないとビール瓶がカゴ本体に入りづらいからだ。私は、これを買い物カゴのようなものに直し、もう少し洒落たものにしたいと考えた。ヒゴの幅を狭くして、持ち手の柄を二本束ねて留めるための材料を普通は葛(ツヅラ)の蔓(つる)で編むのだが、柏木さんは葛の蔓だといずれは切れてしまうし、がっちりしたものになってしまうと言う。自分はもっと華奢で洗練されたものが好きで、籐蔓(とうづる)で巻いて出来上がってきた。
 しかし、私はそれを見た時に気に入らなかった。籐が白々としていて。さらにゴザ編みをした胴体に洒落で着色した竹を組み入れていたのだ。とくに出来たては嫌な色で、「こんなことをしないでくれ」と言った。これは嫌な物だと私はずいぶん文句を言ったのだ。「いやそんなことはない。これをとても気に入っている」と柏木さん。「今度つくる時には着色しないでくださいよ」と言いつつも、これは持ち帰って、自分の家で玄関のスリッパ入れとして使い出したのだった。

手間をかけなければ納得しない

 これは「茶碗カゴ」(下の写真)である。(正式にはここでは)「ワンメゴ」とも言う。全国共通して足が付くが、九州ではさらに水切れが良いように底面を四つ目で編む。また、中に物を置くカゴだから幅広で厚めのヒゴを取る。さらに水切れが良いように、面を取ってつくるのだ。
 柏木さんの茶碗メゴは水切れが良いように、きちんとアールのカーブをとってつくられている。足もふつうは丸々1本の竹を足にしてしまうところを、竹を半分に切った上に細工を施すのだ。 これは手間をかけて高く料金をとるというのではなくて、そうしなければ彼が納得しないからなのだ。持ち手のカーブも外側にふくらむようにしている。こうした造形から、彼が美意識や、工芸的な感覚を備えている人だということがわかるのである。
 当初、柏木さんは手とカゴの接続部に穴を開けて竹釘で留めていた。彼はそれで十分だと言う。しかし私は頻繁に使うためには十分ではないと思った。それに地元の人ならばすぐに修理してもらえるけれど、都会の人が使っていて壊れてしまったら現実的に修理は容易ではない。なるべく長く使うためにはきちんとつくってくださいと、その部分をやむなく籐蔓で巻いて留めてもらった。たとえば、そういったこちらからの希望にすぐに応える心構えをしていて、竹細工師として柏木さん大変なつくり手だと思うのである。


ワンメゴ

手と本体の接合部は籐蔓で留める

ワンメゴの底に付く足

大中小のサイズでワンメゴを頼むと、
このように入れ子状にきちんと納まるように配慮してくれる。
発送時の効率も考えているのだろう。
ひとつひとつのつくりかたに対してきめ細かな配慮ができる人なのだ

再度製作してもらった買い物カゴ

買い物カゴをつくる

 

 ビンサゲテゴを応用した買い物カゴも、その後、納得いくように「こぎれいでがっちりしたものをつくってくれ」と再度、製作依頼した。手は3本にして、センターに太い手、まわりに補助的に細い手を付けてまとめてもらったのだ。手をまとめるのは繊細な籐蔓ではなくて、がっちりした葛蔓を用いた。また、これに足を付けると、買い物カゴとしてはちょっと野暮ったいので、柏木さんは葛の蔓を底のまわりに付けることで足代わりの補強をした(下の写真を参照)。もし葛蔓が腐っても、また新たに葛の蔓を巻き直せばよく、本体の竹そのものには影響が無いように配慮されているのだ。
 また、内底の竹も面取りしている。これは手が当たった時にささくれないようにと、つかい手のことを考えているのである

 今回私はこの買い物カゴの他に、まったくの新製品として衣類入れもお願いした。ふつうの四角く手の無い脱衣カゴと違って深みのあるものにして、衣類だけでなく、茶碗をいっぱい入れてもいいようなものをつくってくれと依頼。おおよそのことを検討して伝えたらこれ(下の写真)をつくってくれたのだ。


3本の手を葛の蔓でまとめる。

買い物カゴの底に巻いた葛の蔓

脱衣カゴ

これは「タラシ」といって、魚を売る際に杉の葉を敷いて、
その上に魚を横並びにして売るためのカゴというよりザル。
本来はもっと粗雑な物なのだけれども、柏木さんに頼むと、
こんなにていねいな物ができてくる

柏木さんにつくってもらった祝いカゴ

祝いカゴへの想い

 

 30数年前、私は島原半島にて島原木綿を探しに回ったことがある。半島の有明海沿いに大三東(おおみさき)という所があり、そこで竹細工をしている人に出会った。非常に良い仕事をしていたが、経済的に恵まれない人でなかなか物を送るということができなくて、現地に行かないと製品は手に入らなかった。で、結局そのままになってしまったのだ。
 そして平成2〜3年の頃に、手仕事日本の調査を始めたころに、そのつくり手を思い出し、訪ねたらすでに亡くなられていた。しかし、その家の隣でちょうど大きな家を壊していて、蔵からいろんな物が放り出されていた。その物の中に素晴らしいカゴを見つけた。それは「祝いカゴ」だと言う。祝言の時、嫁さんにそのカゴに供物を入れ持たせて嫁入りさせたもので、それを一度持って行くと、終生、その家に置いておくというカゴだった。驚くほど緻密なカゴで、編み方法をさまざまにとり入れていた。また、造形的にも美しいものだったため、写真を撮って、寸法まで計らせてもらった。島原地方の物かはわからないけれど、このカゴを再現したかったのだ。 そして、今このカゴを再現できるのは柏木さんしかいないと思い、彼の所に持って行き、つくってもらった。製作には大変な手間がかかり、1個つくるのに10日は要したと言う。しかし、彼は「自分たちのように竹細工をする者にとって、これほどのテクニックを労するものはやってみたくなる」と言う。その言葉の通り、柏木さんは挑戦して3個つくったのだ。そのうちの2つを平成5年の「手仕事の日本展」と「日本民藝館展」に出品した。当時、その物の凄さがなかなか理解してもらえなかったが、本来は入賞に値する物なのだったのにと思う。また今思うに、そのカゴを自分で持っているべきだったなあと後悔している。つい先日(平成19年2月)柏木さんの所を訪ねたら、思いかけずに最初につくった1個がまだ残っていた。それは彼いわく「失敗した物」と言うが、単に虫に食われてしまったものだったようである。

手が言うことを聞かない

 そして再び、そのカゴを再度頼んだのだが、なかなかつくるには大変だと言う。柏木さんは3年ほど前に奥さんが亡くなられてしまった。奥さんがヒゴ取りなど、ずいぶん仕事の補助をしてくれていたのだ。60歳になる息子さんも外へ仕事に出て、竹細工は継がない。柏木さんはがっかりして、間もなく仕事を辞めると電話がかかってきたこともあった。私も諦めていたが、力づけに立ち寄った時に、また元気に仕事を再開していた。しかし、すぐに体を悪くして入院して、とうとう仕事を辞めてしまったのだった。
 それでも長いつき合いもあって、会いたいものだから、今年の2月、久しぶりに彼のもとへ寄ったのだ。すると、なんとまたカゴをつくっているではないか。「辞めたのではないですか」と問うと「手が言うことを聞かないのだ」と柏木さん。その言い方が良い。要するに仕事をしたくて仕方がないのだ。
 良い竹が無いと自分は絶対に仕事をしないのであるが、自分では取りに行けなくなったために、他に竹職人に頼んで良い竹を分けていただいて、また仕事をするようになったのだという。
 竹細工は、この頃では作家の人も出てきているけども、いわゆる柏木さんのような「青物細工」は、工芸品ではなくて実用品。それは作家に人たちからは差別されているようなところがある。作家は非常に細かい、筋の細い細工物をテクニックにまかせてつくるが、そういった物は茶道具に多い。柏木さんは実用的な物をつくりつつも、良い仕事をしなくてはと自分自身を律し、高めた気持ちを具体的に日用品に転化している。職人の中でもたぐい稀な技術と、優れた芸術性をもった人。美意識をきちんと持っているが、自分自身では美意識があると感じていない。ただ良い物をつくらないと納得しないという良いつくり手。彼のようなつくり手がまだ今の世の中に何人かはいるのだと思う。ただし、こういう人はおそらくこれから出てくることはないだろう。私は柏木さんのような人がつくったものを保存することで、活用できることを模索しつつ、将来何か新しい方向にもっていけたら良いと考えているのだ。

 

(語り手/久野恵一、聞き手/久野康宏)