Kuno×Kunoの手仕事良品

#017[坂本浩二君の大きな壷]大分県日田市 2007.06.28

小鹿田への想い

 

 小鹿田(おんた)焼の窯元に足を運ぶようになって33年になる。仕事に入った当初から、小鹿田の3人のつくり手(窯元)坂本茂木さん、柳瀬朝夫さん、黒木力さんを注目していた。実際、小鹿田に行き、付き合い始めると、それぞれ個性があり、つくりの良さが飛び抜けて素晴らしいことがわかった。とくに私の気質と非常に良く合うのが坂本茂木さんと柳瀬朝夫さんで、両人とは33年間家族的な付き合いをしている。
 彼らの窯出しにはずっと立ち会ってきたし、窯出しの数日前から、ある時は5〜10日間くらい家に逗留して、九州各地を回ったこともあるし、交通機関を使って訪れたときは坂本茂木さんや柳瀬朝夫さんの車を貸してもらったりすることもある。
 こうして交流を深めていくうち、私なりに小鹿田焼の本質とこれからの流れを感じつつ、小鹿田そのものに私自身がのめりこんでいった。そして、自分のライフワークとして小鹿田と関わっていくべきではないかと思ったのだ。
 柳宗悦の「日田の皿山」という名著や、昭和29年にバーナードリーチが来山し、民藝運動の先達の方々の思いが小鹿田に注がれていたのだ。しかし、古く美しいものを論じるだけではなくて、古いものから新しいものへ、どうつないでいくか重要だ。小鹿田でつくられる素朴なもの、その形態が普遍的なものでありながらも、それをどのように今の暮らし、未来の暮らしに活かしていくかは、これからの民藝運動の骨子といってもいい課題ではないかと私は考えていたのである。
 坂本茂木さん、柳瀬朝夫さん、黒木力さんは自らは意識せずに、仕事に取り組み、佳き物をつくってきたと思う。佳い物というのは、美しく人を満足させてくれる物。そういった物が永遠に続くようにと、つくり手と仕入れ手(私)がお互いに気持ちを保ちながらいくことに意義がある。ただし、互いに齢をとってくると、将来に向かってといいつつも、次の世代の人たちがどうやって、これに取り組んでいくかにも関わることが、この仕事の重要な使命である。


坂本茂木さん

柳瀬朝夫さん

小鹿田の皿山地区の風景

皿山の掟

 

 小鹿田焼は10軒の窯元があって、そのうち5軒が個人でひとつの窯を持っている。あとの残りの5軒は共同窯という窯で、5人で大きな窯を一緒に焚く。2班で2人組と3人組に分かれて均一に物が取れる(焼き物が製品として出荷できる)ように焼くのだ。 私が懇意にしている柳瀬朝夫さんは共同窯に入っている。そして同じ組で焼く窯元が坂本一雄さんだった。坂本一雄さん宅は坂本茂木さん宅の隣にあって、三代前に茂木さんのところから分家した。小鹿田では屋号で呼び、一雄さんのところは新しく分家したから「新宅」と言い、柳瀬朝夫さん宅は本家・柳瀬満三郎さん宅、下隣だから「したんいえ」と呼ばれた。
 小鹿田ではいい年をしても、今でも朝夫さんを「あーちゃん」とか茂木さんのことを「しげちゃん」などと、「ちゃんづけ」で呼ぶ。しかし一雄さんのことは「一雄ちゃん」とは言わず、「かっさん」と呼んだ。「新宅のかっさん」の家は代々の名工の窯だった。とくに父の坂本甚市さんは小鹿田では名の知れた陶工だった。小鹿田ではつくらない茶道具、とくに茶碗を上手につくる技術を坂本甚市さんは持っていたからだ。 また、緑釉(青地釉ともいう)をかけた青土瓶をそろばん型の形でつくっていた。その型が伝統的なものなのかはいまだに不明だけど、そろばん型でつくったのが甚市さんで、結局、坂本一雄さんの窯の伝統になった。それゆえ、坂本一雄さんのつくる土瓶というと、そろばん型になり、いまだにこれが伝統としてつくられているのだ。
 とっかかりは伝統のものでなくても、そこの当主(窯元)が始めて、継続することとなると、いつの間にか伝統となり、それがいつまでも続いていくというのが地方民窯の姿みたいなものがある。そういう意味で坂本甚市さんというのは、よく知られたつくり手なのだ。
 坂本甚市さんの長男は坂本静馬さんという。この人もまた非常に上手な陶工だった。ところが坂本甚市さんが静馬さんの母親と死別して、新しい妻をもらい、その人との間で長男が生まれてしまった。その長男が坂本一雄さんなのだ。静馬さんは前妻の子供なので、皿山から出ていくことになる。それは小鹿田・皿山(日田市の北部、高塚山のふもとにある源栄町皿山地区が小鹿田焼の里)の掟(不文律)だった。坂本静馬さんは上手なつくり手であるということはかなり知られていて、小鹿田の隣の、小石原焼の各窯元が彼を呼んで、職人として雇った。もともと小石原はつくり職人を雇って、窯主は営業販売をしてきた歴史がある。
 私がこの世界に入った35年前、その頃でも坂本静馬の名は聞かされていて、今も日本民藝館の玄関に飴釉に黄線(白泥土)を流した長い龜(かめ)がある。これはもともと味噌龜のかたちだったが、傘立として活用している。堂々としたとても良い物で、これは坂本静馬さんが陶工として小石原に雇われていた時につくったものと聞かされている。 その坂本静馬さんは晩年、小鹿田と小石原の中間に宝珠山(ほうしゅやま)という鉱山の跡地に、焼き物ブームに便乗して始まった宝珠焼のつくり手として招かれ、移住。そこの窯元として彼は一生を終えた。


坂本浩二君

迷う若き陶工と出会う

 

 坂本一雄さんとは、私は関わりがまったく無かった。だから坂本茂木さんを訪ねても、隣の坂本一雄宅には行かなかったし、本人と話をすることもなかった。しかし、坂本一雄さんが共同窯で柳瀬朝夫さんと同じ窯になったものだから、必然的に顔を合わせるようになる。そんな時、まだ自信のなさそうな青年が窯出しをした製品を軽トラに載せて運んでいた。ハンサムで人に惹かれる顔立ちをしているのだから、そんな妙な恰好をしなくてもいいのではと思い、「おい何やっているんだ?」と声を掛けてからかった。この青年は坂本一雄さんの息子、坂本浩二君(現在38歳。当時18歳)だった。
 そのうちに、窯出しされた焼き物を手に取りながら、こんな会話のやりとりがあった。
「こんなものをつくっては駄目だよ」(私)
「これは親父がつくったものだ」(浩二君)
「そんな物はつくらなくていい」(私)
「どうしてだ?」(浩二君)
「飛びかんな(※1)をこんなに浅く広く彫ったら、小石原焼と同じだ」(私)
「じゃあ、なぜ小石原がいけない?」(浩二君)
「手でつくっているのに、機械的でおもしろくない。もっと躍動感のあるものをつくったらいい」(私)
「おーっ」(浩二君)
 こんなふうにからかっているうちに何度目からの窯出しの際、「こういうのはどう思うか?」と浩二君が自分でつくった物を見せて、尋ねてきたので、飛びかんなの間隔のことや、刷毛の打ちかた(※2)をもっと若者らしく大雑把にした方が良いと助言した。

※1 [飛びかんな]:小鹿田焼と小石原焼特有の装飾技法。素地に白土を塗った後、半乾きになるまで乾燥させる。その後、帯鋼を曲げて作った“かんな”を表面に当てる。ロクロを回転させ、かんなの先が引っかかり、飛び跳ねるのを利用して削り目を付ける。
※2 [打ち刷毛目]:これも小鹿田焼の装飾技法。素地の上に、濃く溶いた白土(化粧土)を塗り、その上を刷毛でリズミカルに模様付けする。小物は成形直後に行うが、大物はやや乾燥させて行う。その際、白土の濃淡が出易くするため、白土を塗る直前に全面を水で湿らす。

 すると「じゃあ、やってみます」と浩二君。「おっ、やってみろよ」と言ったものの、そのことを忘れていて、また朝夫さんの窯出しに行った時に、またばったり浩二君に会った。「ちょっと見てくださいよ」と言われたので見てみた。そして、良いところと駄目なところを指摘して返したのだ。私は仕入れ手として販売する立場。仕入れ先でもない人に注釈しても責任が無いので、その程度の受け答えだった。
 ところが浩二君とそんなやりとりをしていると、噂を聞いたのか、坂本茂木さんが「久野さん、注釈するからには、少しでもいいから買ってあげなさいよ。そうすれば彼も本気になるぞ」と言う。当時の私は景気も良かったし、小鹿田に行く回数も多かったものだから、一人ぐらい若者を育てていくこともいいかなと思った。坂本茂木さんには工(たくみ)君という息子がいて、私は工君に一生懸命アプローチしていたが、他所の若者に少しでも求めてもいいんじゃないかなと考えて、坂本浩二君に関わるようになったのだ。しかし、買うからには真剣勝負なので、力を入れて助言していくことになった。

 


小鹿田の共同窯

名陶工を彷彿させる姿勢

 

 年度が変わり、柳瀬朝夫さんの共同窯は3人組になったのだが、2人組が3人組になると、そのまま3人組になるのが小鹿田の流れ。そのため翌年も柳瀬朝夫さんと坂本一雄さんは一緒に組み、それ以外の人がもう一人入ってくることに。この窯は年に6回窯出しがあったから、私はその度に坂本浩二君と顔を合わせ、つくったものを批判したりしていると、なんとなく浩二君に親しみを覚えるようになってきた。だんだん、彼の顔つきも変わってきたし、いつの間にか、顔つきもしっかりしてきた。性格もおとなしかったのが、積極的に話をするようになったのだ。
 坂本茂木さんの家に逗留して工君と一緒に食事をしたり、飲んだりしていると、工君を兄貴分と慕って、隣の家の浩二君が遊びに来る。お酒を飲みながらいろんな話をしているうちに浩二君が前向きに目をきらきらさせながら私の話を聞くようになった。
 そのうちいずれ、浩二君は良いつくり手になれるのではないかと感じてきた。言われた通りに素直な物をつくろうとする姿勢があったからだ。案外、つくり手にはズボラな人が多くて、1回つくったらいいみたいなところはあるけれど、浩二君は指摘されたことを修正してきちんとつくろうとした。当時の浩二君は小さなものしか挽いていないから、それに見合った小さい焼き物を見本として持って行き、こんなものに手を加えてこうしたらどうかなどと具体的に助言したのだった。
 小鹿田で難しいのは、ロクロ台の前に座って、このかたちをああしろ、こうしろと指示できないことだ。なぜかというと、子供の隣に父が座り、その采配のもと子供がつくるから、父の前で注釈はできないのである。だから私は工房では浩二君のロクロ姿を見ることしかできなかった。
 そんな15年前の2月、浩二君がロクロを挽いているのを見ている時に、はたと気づくことがあった。浩二君の仕事ぶりが、坂本茂木さんの若い頃を彷彿させるような姿勢なのである。それがなんとも魅力的な姿勢なのだ。腕の持ち上げかた、足の蹴りかた、体つきがなんとなく坂本茂木さんのような魅力あるものを感じた。
 なぜ坂本茂木さんを引き合いに出すのかというと、茂木さんはたぐい稀な陶工だからだ。芸術的な力、造形的な美意識が体に潜んだつくり手なのだ。別に彼は意識しないで、普通につくっているんだけど、物に接触し、物に立ち向かう時に、ひとつの気持ちが無意識のうちに出ている。その状態と同じ雰囲気を浩二君に感じたのだ。
 浩二君は絶対にものになるぞと。ものにできなければ絶対駄目だと確信した。

 


坂本茂木さんのつくった
「飴釉交差飛びかんな・4斗壷」
(茂木さん45歳の作)

大きな焼き物をつくる

 

 坂本浩二君の潜在能力を知った私は自分なりに決意して、大きな焼き物をどんどんつくってもらうことにした。
 小鹿田で大きな焼き物というと、かつては2斗か2斗5升入りがせいぜいで。それ以上の物はつくれなかった。ところがもっと大きな物、3斗とか3斗5升入り、しまいには4斗入りもできないかという話をしたこともあった。そんな時に、松本民芸家具の池田三四郎さんが小鹿田の伝統は大物づくりだから、大物をじゃんじゃんつくらせろ、という命令があった。
 ということでそれで25〜26年前、毎窯、毎窯、坂本茂木さんや柳瀬朝夫さんに3斗や3斗5升入りの物をつくってもらうように心がけるようになった。それは池田三四郎さんの掛け声に後押しされたのである。そのためにこの両人はあんなに大きな物ができるようになったのだ。それでも満足せずに、もっと大きな物をつくれということになると、共同窯の入口に入らないから、窯を壊してでも入れるということもあったりした。
 その当時、小鹿田で大きな物をつくれる陶工は、坂本茂木さんと柳瀬朝夫さんの他には、黒木力さん、黒木利保(富雄さんの父)さんだけだった。黒木力さんは2斗5升(にとごしょう=45.0975 リットル)よりも大きなものはつくっていなかった。利保さんは分厚くて重たいため2斗5升ぐらいがせいぜいだった。陶技は信楽焼で修行してきた人なので、薄づくりの小鹿田の伝統とは異質であった。
 坂本茂木さんは力強さとバランス感覚を備え、小鹿田を代表するかのような勢いのあるものをつくる力を持っていた。また、柳瀬朝夫さんはまだ元気が良く、力がみなぎっていた。それは朝夫さんのもって生まれた個性だと思う。この3人を比べてみると、坂本浩二君は茂木さんのつくるかたちを参考にしていったらいいのではと考えた。真似ようとしてもできるものではないけれど、とにかく若いうちからつくらないといけない。25歳までに大きな物をつくらないと、良い大きな物をつくれないというのは、焼き物人にとっては常識なのだ。大きな物とは一斗入り(この容量が入る焼き物)や、一斗五升入りなどを小鹿田では指す。そこで、浩二君には手はじめに一斗入りの壷を依頼した。
 この時に小鹿田の若手で大きなものをつくろうとしていたのは、坂本工君だけだった。工君のつくる方法と、浩二君のつくる方法を比べてみると、工君はつくりかたが父の茂木さんに全然似ていない。むしろ浩二君の方が茂木さんに似ている感じがあった。
 浩二君の隣には坂本一雄さんが付いているわけだけど、一雄さんは人柄が良く、優しいところがある。「お父さんの横で勝手なことを言って申し訳ない」と言うと、にこやかに「うちの浩二をよろしくね。好きなようにやりなさい」と一雄さんは言ってくれた。

※3 [斗(と)]:尺貫法における体積(容積)の単位。10升が1斗、10斗が1石となる。日本では、明治時代に1升=1.8039リットルと定められたので、1斗=18.039リットルとなる。

 


坂本浩二君作、
青飴打ち掛け3斗入り丸龜
(近作)

一躍、日本一のつくり手に!

 

 そんなことで浩二君との本格的な付き合いが始まって、最初に一斗入りの飛びかんなの壷に取り組んだのだった。それは真っ白な飛びかんなを打った所に、緑釉(小鹿田では青地釉と呼ぶ。酸化第二銅の粉末を基礎釉=透明釉に混入してつくる釉薬。酸化炎で焼くと、青色に定色する)それから飴釉(地釉とも呼ぶ。錆び土という酸化鉄を多量に含んだ岩石を釉薬にしたもの)を打ち掛ける、小鹿田の伝統的なスタイルの壷だった。民藝を紹介する出版物にはこの手の古作が掲載される。
 私は浩二君がつくった物、大きな物のみならず新しい注文をしては一つ、一つ、批評していった。窯出しの時に批評をしても、つくり手や私も忘れてしまうから、「もやい工藝」に戻って来て、送られてきた物を見て、「この大きさだとこの深さは合わない」とか、「この深さに対して刷毛をもっと密に打ってくれ」とか、あるいは「こんなかたちの物をつくったらどうだろうか」などと提案した。
 浩二君もそうした要望に応じて、つくるのが楽しく、次々とつくってくれた。そして今から13年前、彼が大きな物に取り組んで2年目、25歳になった時につくった大物「2斗飛びかんな、青飴打ち掛け」を私が日本民藝館展に出品した。すると、それが最高賞の「日本民藝館賞」に選ばれたのだ。審査員たちは驚いてしまったようだ。坂本茂木さんも柳瀬朝夫さんも見慣れてきてしまっていた頃で、もはや次の世代では小鹿田でも大きなものはできなくなるのではないかと危惧していた時のことだった。
 そこへ若々しい、迫力のあるダイナミックな大きな物が突然現われたものだから、みんな仰天して浩二君の歳がわからずに票を入れたのだった。同時に、焼き上がりがきれいだった、坂本工君の焼き物も奨励賞に入った。
 その授賞式にこの若い2人が東京に出てきたので、松本の池田三四郎さん宅に連れて行ったり、北陸地方まで案内して、各地の優れた焼き物を見せて勉強させた。それに刺激されて、浩二君とは結びつきが強くなり、自信をもって、ますます大きな物をつくるようになっていったのだろう。


坂本浩二君作、
飛びかんな3斗5升壷
(近作)

 民藝館賞の受賞後、浩二君はさらに大きな物に取り組み、30歳になった時、小鹿田では最大級の3斗5升入りの大壷に挑戦してもらった。模様は飛びかんなだけで、打ち掛けも流しもせず、極めてシンプルなものだった。それはかつて坂本茂木さんが得意としたものである。坂本茂木さんの窯は、窯が非常に暴れて釉薬が途切れ途切れになる。だからむしろ白だけの飛びかんなの大きな物をつくってもらったのだ。それを参考にして、浩二君に注文したのである。そのつくりは軽くて、素晴らしいかたちの物だった。その年の再び民藝館展に出品した。当時の館長、柳宗理さんが喜んだ。そして二度目となる民芸館賞を受賞したのである。
 25歳と30歳で民藝館賞をとったのは浩二君の他には誰もいない。民藝館展で民藝館賞を2度取るということは、全国でも最高のつくり手になる。ところが、彼は決して天狗にならない。というか、まだ自分のつくっている物のどこが良いかわからないという素直なところがあった。
 「久野さんも、みんなも褒めよるけれどね、どこが良いのか俺もようわからん」と時々言っていた(今はそうでもなく、ここ3〜4年で変わってきたけれど)。その後も模様や、つくる物をいろいろ変えて私は注文していき、浩二君は自然と一流のつくり手になっていったのである。
 そういう意味では私は一人の名工を育て上げたと自負している。私は浩二君と終生つき合っていくことになると思う。私がこれまでストックしてきた古唐津などの九州の優れた焼き物を彼に託したりして、これからも小鹿田の伝統的な良い物が、永遠に続けていけるようなことを図ってみたいなと思う。小鹿田の人たちと交流することにより、浩二君のようなつくり手が育ったし、その原動力に私がなったということが喜びであり、自分の仕事の意義というものを確信できたと言える。


飴釉青黄(白泥)流し壷。
左が坂本茂木さん作、大きさは2斗
(茂木さん68歳の作)。
右が坂本浩二君作、大きさは2斗5升
(浩二君28歳の頃の作)

健全な手仕事を継ぐ

 

 今から20年前、民藝運動の先達の一人、鈴木繁男さんと坂本茂木さんの窯を訪ねた時に、彼は深々と頭を下げて礼を言った。
 「茂木さん、あなたはおもしろい人だから、いろいろな逸話を聞くけれども、あなたがこの仕事をずっと続けてきてくれたということが、日本民藝館の柳宗悦の運動を支えてきたんですよ」と。
 柳宗悦は日本の各地域に良い手仕事が残っていて、日本という国は手仕事により文化が成立してきたと運動を通じて伝えてきた。小鹿田の坂本茂木さんがつくり出したものこそが、柳がその重要さを訴えた日本の伝統的な手仕事であり、茂木さんの存在があって、小鹿田の健全な仕事が伝わり、その手仕事を現在まで継続させてくることができたのだと私は思う。 そういう流れの中で浩二君が出てきた。浩二君にはその流れをつないでもらいたいと私は願うのだ。
 小鹿田と民藝運動の本質はここにあるということを私は言いたい。小鹿田の10軒はみんな一緒だとか、やたら礼賛する。国指定の重要無形文化財保持団体になって、いろんな特典もあるし、注目もされる。確かに小鹿田の焼き物は売れている。しかし生身の人間は10人10色違うわけで、それぞれいろんな考えをもった人もいるし、考えをもたない人もいる。そういう中で健全性というものを肌で知った人が一人でもいるということが大きな違いになる。
 われわれ手仕事フォーラムの活動のおかげで、黒木昌伸という優秀で、知的な部分で健全な手仕事を補佐できる人間が出てきた。彼は浩二君と一緒に継続して仕事をやってくれると思う。これは非常に大きな力だと思う。
 浩二君の力はこれからまだまだ伸びるだろう。ただ馴れてきてしまうとマンネリ化して、かたちも弱くなったり、変わってくることもある。だから時々は先輩の焼き物と比較してみたり、前につくった物と比較してみたりしながら修正するよう私も提言する。彼はそれを素直に受けてやろうとしている。ただし、彼は技量があって、才覚もあるつくり手であるけれど、坂本茂木さんはさらにそれを越した天才であるということも言っておきたい。浩二君は天才ではない。凡才であるがゆえの努力家であり、伝統的に良い物をつくれる家系であるということ。それが彼の大きな特色だと思う。
 それからつくる物に関してはきれいな仕上げの物が多い。これは欠点でもあるけれど、逆に利点である場合もある。坂本茂木さんや柳瀬朝夫さんは小鹿田そのものの素朴性、土着性というものが生に出てきた。ところが浩二君は年代ということもあるかもしれないけれど、それを覆いかぶす現代的な焼き物に移していっているところがある。
 それは自分自身の体から出たものであって、決して意識したものではない。また浩二君は自分の弱点を客観的に見れる力もあるので、歳をとっていっても茂木さんのように60歳の時に突然大きな物がつくれなくなるのではなく、息長く続けられるだろう。一方の優れた陶工、黒木力さん的なつくりのていねいな仕上げのきれいさをこなす仕事にも似ているが、より迫力があって、より小鹿田らしいものが生まれてくるのではと思う。

 

(語り手/久野恵一、聞き手/久野康宏、写真/人物・風景=副島秀雄、焼き物=久野康宏)