八木澤さん、仕事を辞める
しかし、5〜6年前から八木澤さんの体の調子が悪くなり、「もう仕事できねえ」と言いだしたのだ。そう言いながらも訪ねると、なんとかつくってくれていて「じいさん、わざとそんなことを言っているのかな」と思ったが、とうとう3年前には病気で倒れ、寝たきりに。「もう仕事は無理だからこんな遠くまで来てもらっても・・・」と八木澤さん。仕事ができない以上、私と会うのがつらいと言う。結局、彼は仕事を辞め、とうとうこの仕事は終わりだと思った。
それでも仕事をやっていなくても様子を見たくて、今年の5月、3年ぶりに会いに行ったのだ。久慈周辺の山形村や大野村の「大地の会」の農作物をつくっている農業関係の方々に話を聞きたいという目的もあった。寒村での有機農法や、健康的で安全な畜産経営に意義を覚えて仕事をされている方々がいるのは非常に尊いことだし、そういうことを突破口にして日本の農業経済そのものが食育を考えていこうという方向になってきている。その原動力の起点がこれらの村だと聞いたものだから、農家の方々に会ってみたいなと思っていた。それに、あわよくば、何か見つけられるのではないかと期待も抱いて・・・。
私はまず八木澤さんを訪れた。彼は寝ていたが、嬉しそうな顔をした。やはり仕事はしていなかったが、倉庫に売れ残りのカゴや笊が3〜4個あったので、私は持ち帰った。それらをつくったのは3年前だから竹の色は少し枯れている。私は最後に「ずいぶん世話になりましたね」と話しかけ、八木澤さんも「いい思いをさせてもらった」と答えた。こんなものをつくっていて、人に褒められると思わなかったと。そういう話を聞くだけでも、私はこの仕事をやっていた意義を感じたのであった。ただし、ノスタルジアで終わってもいけない。この仕事をどうやって今後につなげていけるかが大事なのだ。 ところが、久慈周辺ではつくる人は誰もいないと八木澤さんははっきり言うし、おそらくそうだろうと思うのだ。それで私は諦めて彼の家を後にした。
Aさんのつくる腰カゴ。縁にマタタビの樹皮を巻いている。
カゴのかたちは地方性を表すというが、それを目にしていれば、
つくり手はおのずとかたちをなぞるようになる。
そうして地方独自のかたちが伝承されていくのだ
新たなつくり手を見つける
いつもならば八木澤さんの住む場所からは、大野村を通って、九戸(くのへ)を経て帰るのだが、先の農業運動をしている地、山形村(今は町村合併して、大野村も山形村も久慈市になった)も見てみたかったこともあり、久しぶりに山の中を通ってみようと不意に思いついた。
狭い国道から山形村に入って、「道の駅」に寄り、小休止していたら、バイパス沿いの「道の駅」の向こう側、旧道の川沿いにきれいな集落が見えた。私はそこも通ってみようとUターンして車を走らせた。道端には農作物が干していて、とくに山菜が実においしそうだった。その時のことだった。農作物越しに、なんと苦竹の小さなカゴを見つけたのだ。わりと新しい青々としたカゴだった。車から降りて、畑にいたおばちゃんに「これどうしたの?」と聞くと、「うちのじいちゃんがつくるんだ」と。そのおじいさん(以下、Aさんと呼ぶ)は、ずいぶん以前は竹カゴをつくっていたこともあるのだとか。最近、林業関係の仕事を退職してぶらぶらしていたら、手づくりの仕事をしようという町おこし的なものが持ち上がった。
そこで、昔とった杵柄で、ちょっとつくってみようということになった。そうしてつくったカゴを人に分けているのだという。私がAさんに会いに行くと、腰カゴがあり、驚いた。今は無理だが、いずれ馴れてくれば大きなカゴもつくれると言う。
私は久慈の横駄カゴを次へつなげたいと思っていると考えを伝えた。「久慈にそんなカゴがあったべかなあ」とAさん。しばらくして「そういえばこのあたりの人はみんな昔、久慈で買ってきて使っていたなあ」と思い出したのだった。「そんなカゴはオラだってできるさあ」とまで言う。
Aさんのつくったカゴの縁巻きを見ると、マタタビの木の皮を用いていた。その理由を質問すると「竹で縁を巻くと切れちゃうから」と答えた。Aさんは苦竹の特質をわかっているのだ。マタタビの皮だと巻きやすいのだと言う。その言葉を聞き、新たなつくり手に出会えたと確信した。これからの希望が見えてきたのだ。そしてAさんにカゴの製作を依頼したのだった。
希望というものは常に持たなくてはいけないと私は思う。人の話を聞いて、これはもう無くなってしまったとか、歩きもしないで手仕事は終焉したと言って、その地方のことをまるで認識しているかのそぶりを見せる、これら関係者が多い。自分の足で歩く、見る、聞く。さらに私たちは選び、つくるよう依頼する。それは物に対する視点、美の視点。それから、これから何をしないといけないかという社会に対する姿勢である。それが大事だということを横駄カゴの調査と復興を通じて改めて私は実感した。 |