Kuno×Kunoの手仕事良品

#018[久慈の苦竹カゴ]岩手県久慈市 2007.07.27

横駄カゴに魅せられて

 

 日本民藝館の蔵品の中に「横駄カゴ」という素晴らしいカゴがある。これは今の時代で言えば、コンテナのような役割の大きなカゴで、岩手県の北東部、三陸海岸を臨む港町、久慈でつくられていた。この地域特有の苦竹(にがだけ)で編んだもので、いかにも東北らしく、粗野でありながら骨太な力強さを備えている。こんなカゴを今でもつくれないかと私は20年ほど前、日本民藝館で横駄カゴを眺めながら思った。
 しかし、その当時、このカゴのことを知っている人たちに尋ねても、もうすでにつくられていないという返事だった。それでも自分で探ってみようと、平成2(1990)年頃の日本民藝協会 手仕事調査の一環として現地を訪ねてみたのだ。この仕事に入って間もない頃にも久慈を旅したことはあるが、その時はさらりと回っただけで、山奥まで入っていなかったので、このカゴを見逃していたのだろう。
 岩手県は非常に大きく、四国と同じくらいの面積がある。盛岡を起点に、久慈まで探しに出かけても丸一日は要す。今でこそ高速道路があって、3〜4時間で行けるけれど、以前は6時間くらいかかって、とても一日では回りきれず苦労したのだ。
 まず久慈でそのカゴがあるかどうか探しまわったが、初日は見出せなかった。私は民俗資料を調べ、竹細工をつくっていた人がかつて暮らしていた場所を地図上から推測して、目的地を決めていた。当時は県や町の教育委員会や商工観光課などで尋ねることをしなかったし、そういう行為自体が好きでなかった。自分の勘というか、人から聞き取りしながら、物やつくり手と出合えそうな場所を特定していくやりかたをとっていたのだ。そのため、意外性で出合うこともあるが、見落としていた箇所も多かった。ところが、本格的な工藝店を今の佐助に設けたため、10数年間、経営に力を入れざるを得ず、時間的な余裕も無く、仕入れの旅の延長線上で物探しをするしかなく、調査を怠っていたため、このカゴに関しても新たな発見をできないままでいたのだった。

つくり手を発見!

 というわけで、平成2年、久しぶりに横駄カゴの調査を再開してみようと、下調べをして、ある程度の見当をつけ久慈周辺を回った。そうして情報を得て、目的地を目指した。その途中に小久慈焼(こくじやき)という昔ながらの民窯の窯元がある。素朴な味わいのある飴釉が特徴で、注ぎ口の長い片口が代表的な物として知られている。そこからさらに山あいに入ったあたりに竹細工のつくり手が何人かいたらしいのだ。そのあたりの住民や交番で聞いてみると、今でも久慈では月に3回市が出るのだが、その市にたまにカゴを持ってくるおじいさんが一人いるという。そして、そのおじいさんがどこから来ているのか探しまわって、ついに探り当てたのだ。 そのおじいさんは八木澤由蔵(やぎさわ よしぞう)さんという方。当時、70歳台前半の年齢(大正11年生まれ)。「今でも竹細工をつくっていますか?」と聞いたら、つくっていると答えた。そこで、彼の作業小屋にお邪魔すると、苦竹を素材とする背負いカゴや腰カゴが置いてあった。苦竹はとても強靭な女竹系の竹。日本民藝館の蔵品は飴色になっている。蔵品になるものは皆、使いこんだ物を、さらに磨かれたような物ばかりで、美しく仕上げられている。
 ところが八木澤さんの苦竹のカゴはすでに使い古されている雰囲気で、正直、色が汚いなと感じた。竹の青々しさがまだ見えるカゴもほとんど無い。古い竹を使いながら編むのだと言う。そこで、昔の話を聞くと、確かに自分も横駄カゴをつくったことがあると八木澤さん。ならば、それをつくって欲しいと頼むと、「いや、つくれない」ときっぱり。このカゴをつくるには技術もさることながら手間がかかる。素材も非常に強靭な竹なので粘りが無い。大きなカゴ自体はつくれるけれど、数をつくるのは大変なことだから、やりたくないのだと言う。それに、つくってもすぐに縁が壊れてしまうのだとか。なぜかというと、久慈周辺にはカゴの縁にたやすく巻けるような柔らかい竹が無く、しかたなく同じ苦竹で巻くと、その部分が切れやすくなるとのことだった。一般に、竹細工は縁巻きには粘性が柔らかい生育して1年の若竹を用いるのだ。しかし、苦竹には若竹たりとも柔らかさが無いのだというのであった。
 私はなるほどと理解し、その場にあった5〜6点の売れ残り(市に持って行っても農作業用に買う人はせいぜい3〜4人で、たいていは売れ残るのだとか)を全部買い求めた。
 その中にあった大笊(ざる)の大きさは尺8寸(直径55cmくらい)だが、それはなかなか力強い物だなと思った。さらに大きな65cmくらいの大きな笊もつくれるという。ただし、これは美しいというより道具そのものだった。いわゆる民具である。だが、東北らしい強さを感じて、これは良いと褒めたのだ。そして、背負いカゴと腰カゴを何点かと、大笊で新しい物をつくってくださいと頼むと、竹を採るのにふさわしい時期があるから待ってほしいと(訪れたのは秋)八木澤さん。その時期については私もわかっていたので、半年後にまた訪ねるということにした。


八木澤由蔵さん(撮影/久野恵一)

八木澤由蔵さんの家まわりの風景(撮影/久野恵一)

八木澤由蔵さんのつくった背負いカゴ。
畑の収穫物を入れて運ぶ。以下、八木澤さんの手によるカゴ

腰カゴ。背負いカゴと同じようなかたちで、サイズが小さい。
腰に付けて肥料を蒔いたり、小さな収穫物を入れる


大笊。縁に巻いているのは苦竹

 


小笊

沢グルミの皮と苦竹を組み合わせる

 

 これは良い物を見つけたと、喜び勇んで翌年の春に注文していたカゴや笊を八木澤さんのもとへ受け取りに行くことになる。その道筋は、東北道から八戸道に入り、軽米インターで降り、お椀で町おこしで知られる大野村を経由して、久慈に入る。そして山あい、里山を岩手県北の深い緑の樹林帯を通る美しいコースなのだ。
 それらは、きれいな竹で編んでいたものだから青々としていて心が動かされた。真竹や孟宗竹の青とは異質で、苦竹の性質上、竹の表面に茶褐色も混じっていた。それでも魅力のある物なので嬉しかったのだ。
 私は横駄カゴもつくってもらいたいものだから、再度打診してみたが、またしても断られてしまった。そうして、しばらくいろいろな話をした。苦竹で縁を編んだカゴは剥がれやすいことがどうしてもつくりたくない理由であることがわかった。ならば、剥がれにくくする方法を質問すると、竹ではどんなふうにやっても無理だという話になった。
 その時、たまたま私は山ぶどうの手提げを持っていたものだから、なんとなしに、縁を山ぶどうのようなもので巻けないかと聞いた。八木澤さんは山ぶどうなんか知らないという。ならば、このあたりに柔らかくて巻ける樹皮が無いかと聞くと、「ああ、それならクルミが巻ける」と答えた。沢グルミという川沿いに自生するクルミの皮を剥いで、柔らかくして巻くものならば、縁は簡単に巻けるということを私はわかっていたので、それで巻けないかと聞いた。「それは簡単だ」と八木澤さん。実際にクルミで巻いたものもあるよと出してきたのが、自身がつかっている柳行李(やなぎごおり=衣装箱)。その縁が壊れたものだから、クルミの皮で補強していたのだった。 私はすかさず、こういうふうに巻くだけでいいんですよと伝えた。クルミの皮は質感が荒々しくて魅力ある素材。苦竹という強い材料にクルミの皮を巻いて、質感を変えることで、より東北らしいダイナミックな物ができるのではないかと私は考えたのだ。それで、苦竹と沢グルミの樹皮を組み合わせた、背負いカゴを頼んだのである。
 「じゃあつくりましょう」と彼は了承してくれた。ただし、クルミの皮を採るのに適した時期は6〜7月で、それから巻いてつくるとカゴの完成は秋口になるということだったので、その年の夏に再度訪ねることにしたのだ。

 


八木澤さんにようやくつくってもらった横駄カゴ

ついに横駄カゴが完成

 

 こうして出来上がった背負いカゴを目にした時、私はとても感動した。そして再度、面倒でもなんとか横駄カゴもつくってくださいとお願いしたが、横駄カゴはどんなふうにつくるのか忘れてしまい、できないと言う。もし見本があればつくれますかと聞くと、つくれるというので、盛岡の「光原社」が昔、市内の荒物屋で買ったという古い横駄カゴを持っていたので、それを頼んで借りて、八木澤さんのところへ持って行ったのだ。これを見本にしつつ、縁を沢グルミの皮で巻くのならつくれるとのことで翌年の春まで待つことに。そして待望の横駄カゴが完成した。
 1つ出来たので、さらに続けて横駄カゴの製作を依頼することになった。竹の量を必要とするのと、楕円形のコンテナのようなカゴなのでつくりにくいらしい。それでも訪ねれば、5〜6個はつくってくれて、約10数年間、八木澤さんとはおつきあいしてきた。
 その3年後ぐらいに、このカゴを日本民藝館展に出品したら、最高賞の日本民藝館賞を受賞した。まったく無名の人が一番良い賞を取ったことは意義があることで、これこそ日本民藝館が推進してきた運動の成果であり、それに関わってきた私も良いことができたと大いに喜び、翌年の春に賞状を持って八木澤さんを訪れた。八木澤さんはこの賞の意味をよく理解していなかったけれど、嬉しくて少し涙も流していた。そして、それからは積極的に横駄カゴのような手のこんだ物をつくるようになってくれた。


「光原社」から借りた古い横駄カゴ(撮影/鈴木修司)

横駄カゴの活用例。かさばるカバンの収納に使っているそう
(撮影/北川 周)

横駄カゴはもともと馬の鞍の両側にくくりつけられ使用されていたものと思われる。写真は宮城県千厩町の馬事資料館に展示されていた「荷籠」。カゴのつくりは久慈の横駄カゴとずいぶんと異なる(撮影/大橋正芳)

八木澤さん、仕事を辞める

 

 しかし、5〜6年前から八木澤さんの体の調子が悪くなり、「もう仕事できねえ」と言いだしたのだ。そう言いながらも訪ねると、なんとかつくってくれていて「じいさん、わざとそんなことを言っているのかな」と思ったが、とうとう3年前には病気で倒れ、寝たきりに。「もう仕事は無理だからこんな遠くまで来てもらっても・・・」と八木澤さん。仕事ができない以上、私と会うのがつらいと言う。結局、彼は仕事を辞め、とうとうこの仕事は終わりだと思った。
 それでも仕事をやっていなくても様子を見たくて、今年の5月、3年ぶりに会いに行ったのだ。久慈周辺の山形村や大野村の「大地の会」の農作物をつくっている農業関係の方々に話を聞きたいという目的もあった。寒村での有機農法や、健康的で安全な畜産経営に意義を覚えて仕事をされている方々がいるのは非常に尊いことだし、そういうことを突破口にして日本の農業経済そのものが食育を考えていこうという方向になってきている。その原動力の起点がこれらの村だと聞いたものだから、農家の方々に会ってみたいなと思っていた。それに、あわよくば、何か見つけられるのではないかと期待も抱いて・・・。
 私はまず八木澤さんを訪れた。彼は寝ていたが、嬉しそうな顔をした。やはり仕事はしていなかったが、倉庫に売れ残りのカゴや笊が3〜4個あったので、私は持ち帰った。それらをつくったのは3年前だから竹の色は少し枯れている。私は最後に「ずいぶん世話になりましたね」と話しかけ、八木澤さんも「いい思いをさせてもらった」と答えた。こんなものをつくっていて、人に褒められると思わなかったと。そういう話を聞くだけでも、私はこの仕事をやっていた意義を感じたのであった。ただし、ノスタルジアで終わってもいけない。この仕事をどうやって今後につなげていけるかが大事なのだ。 ところが、久慈周辺ではつくる人は誰もいないと八木澤さんははっきり言うし、おそらくそうだろうと思うのだ。それで私は諦めて彼の家を後にした。

 


Aさんのつくる腰カゴ。縁にマタタビの樹皮を巻いている。
カゴのかたちは地方性を表すというが、それを目にしていれば、
つくり手はおのずとかたちをなぞるようになる。
そうして地方独自のかたちが伝承されていくのだ

新たなつくり手を見つける

 

 いつもならば八木澤さんの住む場所からは、大野村を通って、九戸(くのへ)を経て帰るのだが、先の農業運動をしている地、山形村(今は町村合併して、大野村も山形村も久慈市になった)も見てみたかったこともあり、久しぶりに山の中を通ってみようと不意に思いついた。
 狭い国道から山形村に入って、「道の駅」に寄り、小休止していたら、バイパス沿いの「道の駅」の向こう側、旧道の川沿いにきれいな集落が見えた。私はそこも通ってみようとUターンして車を走らせた。道端には農作物が干していて、とくに山菜が実においしそうだった。その時のことだった。農作物越しに、なんと苦竹の小さなカゴを見つけたのだ。わりと新しい青々としたカゴだった。車から降りて、畑にいたおばちゃんに「これどうしたの?」と聞くと、「うちのじいちゃんがつくるんだ」と。そのおじいさん(以下、Aさんと呼ぶ)は、ずいぶん以前は竹カゴをつくっていたこともあるのだとか。最近、林業関係の仕事を退職してぶらぶらしていたら、手づくりの仕事をしようという町おこし的なものが持ち上がった。
  そこで、昔とった杵柄で、ちょっとつくってみようということになった。そうしてつくったカゴを人に分けているのだという。私がAさんに会いに行くと、腰カゴがあり、驚いた。今は無理だが、いずれ馴れてくれば大きなカゴもつくれると言う。
 私は久慈の横駄カゴを次へつなげたいと思っていると考えを伝えた。「久慈にそんなカゴがあったべかなあ」とAさん。しばらくして「そういえばこのあたりの人はみんな昔、久慈で買ってきて使っていたなあ」と思い出したのだった。「そんなカゴはオラだってできるさあ」とまで言う。
 Aさんのつくったカゴの縁巻きを見ると、マタタビの木の皮を用いていた。その理由を質問すると「竹で縁を巻くと切れちゃうから」と答えた。Aさんは苦竹の特質をわかっているのだ。マタタビの皮だと巻きやすいのだと言う。その言葉を聞き、新たなつくり手に出会えたと確信した。これからの希望が見えてきたのだ。そしてAさんにカゴの製作を依頼したのだった。
 希望というものは常に持たなくてはいけないと私は思う。人の話を聞いて、これはもう無くなってしまったとか、歩きもしないで手仕事は終焉したと言って、その地方のことをまるで認識しているかのそぶりを見せる、これら関係者が多い。自分の足で歩く、見る、聞く。さらに私たちは選び、つくるよう依頼する。それは物に対する視点、美の視点。それから、これから何をしないといけないかという社会に対する姿勢である。それが大事だということを横駄カゴの調査と復興を通じて改めて私は実感した。


新たなつくり手、Aさんに出会えた(撮影/久野恵一)

歩く、見る、聞く、選ぶ、つくらせる

 

 仙台市博物館が日本民藝館の蔵品の中から「柳宗悦と東北の民藝」というタイトルで、柳宗悦が選んだ東北の手仕事の物を展示するという。かつて東北の手仕事の物には美しく優れた生活道具が生きていたということを社会に広めるのは意義があるだろう。しかし、柳が選んだ物を紹介し、その美しさにただ打たれるだけではいけない。今の我々がまずやらなければいけないのは、それらの素晴らしい物が消えてしまったことに対して、その意味とそれをどう活かしていくかである。柳自身が思い、願っていたことを理解し、推進していくことである。
 そして、決して諦めてはいけない。歩く、見る、聞く、選ぶ。そしてそれをつくっていき、未来の方向を見据える。そういうことを繰り返していかないといけないのだと思う。すでに無くなってしまったといいながら、まだ根強く残る日本の文化の素晴らしさを身近に感じてもらいたいと思う。とくに東北地方の民藝品や手仕事に関わりのある人は、長い間に培われた雪の文化、暮らしの中から出来上がった工芸というものを、もっともっと身近に感じて、それをどう次へとつなげていけばよいのか考えてほしい。そのためにはまず自分たちが動かないといけない。動かないで語るだけでは運動は前向きにならないと言いたい。
 私が今、Aさんにお願いしているのは、大笊と背負いカゴの製作だ。それらの縁はマタタビで巻く。クルミは採ったことも無いと言っていたので、やはり彼が馴れた材料を使うべきだろう。クルミの素材を使うことはこの人に関しては難しいと感じた。ただし、製作しているうちに技術が開けてくるかもしれない。年齢はまだ70歳そこそこなので、まだまだこれからである。淡い希望と願いだが、さらに互いに頑張っていきたい。

 

(語り手/久野恵一、聞き手・撮影/久野康宏)