手仕事調査Kuno×Kunoの手仕事良品

Kuno×Kunoの手仕事良品

#020 [O君の磁器]岩手県郊外 2007.09.27

グループ展会場で初対面

 今回は盛岡郊外で磁器の焼き物をつくっている陶房の仕事を紹介しよう。O君とEさんの夫婦が営む小さな工房だ。ただし、今回取り上げる良品は、現在進行形の仕事ではない。O君が“かつて”秀でた技術をもつ職人として輝いていた時代の物だったのである。O君は今、40歳半ば。本来ならば職人としての人生はまだまだこれからなのに、なぜ過去を懐かしまなければならないのか・・・。これは私にとっては、非常に残念なつくり手との物語なのである。
 15年ほど前のこと、盛岡の民藝店「光原社」を訪れた時のことである。経営者である及川隆二さんから、最近、売りこみに来た陶芸家を目指す若者がいると言われた。「光原社」と同じ、材木町で以前商売していた下駄屋の息子、O君が愛媛県の砥部焼で磁器の修行に行っていたが、戻って来たという。仕事場を滝沢村に設け、砥部の修行時代、絵付けの勉強をしていた同僚と結婚し、ここで焼き物を始めたのだという。見た目は朴訥とした人で、ちょっと会ってもらえないかと頼まれたのだった。 私はその青年と会うなかなかチャンスを得なかったが、話が伝わり、東京駿河台下の小さなギャラリーで催されたグループ展の案内状をもらい、訪れ、会場にO君がいて、話ができた。私が「もやい工藝」の店主であると自己紹介すると、窯を開く前に鎌倉へ行って「もやい工藝」の前を通ったら、「ああ、こんな店に自分のつくった物を置けたらいいなという印象を持った」と言う。私は好印象を持ち、会場でいかにも砥部焼的な分厚い、どっしりとした深めのどんぶりを出品していたので買い求めた。
 当時、私の周辺には個人的にロクロ挽きで磁器の仕事をしている人がいなかった。O君の仕事はロクロ挽がきちんとしているから、「私のアドバイスを聞きながら、磁器づくりの仕事をやってみたいと思わないか」と誘うと、彼は「ぜひお願いします」と答えた。

仕事場は乱雑だが、ロクロ技術は一流

 早速、私は盛岡へ行き、O君に迎えに来てもらい、郊外にある彼の工房へ行った。山間の村にも少しづつ住宅が増えてきていて、その中の1軒、今風で広い家の奥に彼の仕事場があった。仕事場はちょっと乱雑だなと感じた。どんな仕事でもいえるが、仕事を取り組みだしたばかりの仕事場が整頓されているのは、たいてい仕事ができるつくり手である。その点、彼はどうなのかなと疑念を抱いたが、実際にはロクロの技術は達者なものだった。妻のEさんは絵付けを担当。彼がつくったものに花模様などを描いていた。しかし、その絵付けははっきり言って魅力的でなかった。あまりにも絵が未熟であると同時に、誰かの物真似であったり、素人の陶芸教室の延長線上にあるレベルだった。だからO君の磁器は絵付けをしないで、線でまとめたていった方がいいだろうと考えた。
 これはこのコーナーで再三登場する、民藝運動の先達であり、希代の目利き、鈴木繁男先生からの教えだったのだが、昔の素晴らしい伊万里でも、一人で描いた絵付けというのは皆無だという。集団で分業化して描いているのだと。線を描く人、模様だけを描く人、「ダミ」といってコバルトの釉薬を描かれた枠線内に塗りつぶす専門の人と仕事が分かれ、トータルとして一つのものをつくるのであって、そこには作為といったものが消えていき、必然的に美しさが宿るのである。
 「一人で絵付けして物をつくっていくことは非常に限界があるので、これからは絵付けも幾何模様でまとめていく方がいい」と鈴木先生は言っていた。私はO君の仕事を観ながら、まさにその言葉通りだなと思った。
 磁器は染め付けといってコバルト(藍)の顔料で絵付けして還元炎で焼くときれいな青い色になる。その染め付けを絵柄ではなくて、幾何文様でやっていく方向を探ろうではないかと私は提案した。彼もその当時、生活に困っているし、仕事して糧となるものが欲しかったものだから、全面的に私の話を聞くという。それから彼との付き合いが始まったのだ。

磁器のつくり手との付き合いは難しい

 私自身も、磁器に憧れていたし、非常に好きだった。今の仕事を始めて間もない頃、知り合ったのは「大日窯」(佐賀県有田の窯。日用雑器としての磁器をつくることで知られる)の久保徹さんだったけれど、この窯はロクロ挽ではなく、型で成形する工場生産をおこなっていた。そんな環境下で古伊万里の素朴な良さを現代の物に転化しようという方向の仕事をしてきた。
 一人で製作している磁器のつくり手というと、やはりこの仕事に就く頃に出会った京都のIさんの名が挙げられる。私は彼の窯に行って、積極的にアプローチした。Iさんは河井寛次郎さんのお弟子さんで、Uさんという白磁の陶芸家の弟子だった。当時のIさんはUさんの登窯で磁器を焚いていた。彼自身はガス窯しか持っていなかったけれど、先生の窯で一緒に焼いていて、登窯ならではの、とても良い味わいの物をつくっていた。その焼き物は無骨で分厚くて、重たいが、力強さを感じる焼き物で、私は大好きだった。
 その後、Iさんは自分の生まれ故郷へ引っ越した。ガス窯の窯を開いたのだが、磁器のつくり手には傾向として、非常に神経質な人が多い。信頼する人や仲間注釈されると、それを鵜呑みにしたり、逆におもしろくなかったりと付き合いが難しい。私のようなストレートで関わっていく人間だと、ある程度のところまでいくと、うまくいかなくなってしまうことが多々あった。私もIさんからは逆に嫌な想いをさせられたものだから自ら縁を切ってしまったのである。
 またちょうどその頃、鳥取海岸のYさんという陶工に出会ってもいた。昔、この地方では磁器土が採れて、磁器を焼いていたことがある。その復活を願い、故・吉田璋也氏(民藝プロデューサー)がYさんに援助してつくらせようとしていた。彼はIさんとは比べようがないくらいロクロ技術が達者で、薄づくりを得意とした。民藝の磁器といえば、とても厚手の物が多いのだけれど、Yさんは薄づくりの物もできた。私も磁器に夢中になっていた時期だったので、各地の古美術店、骨董店を回っては古伊万里、南方染め付け、あるいは李朝もので安い物があれば買って来て、つくり手に見せて、つくらないかと勧めていた。その中に長崎の骨董店で買った、中国南方の染め付けで、小さな煎茶碗があった。それをYさんがどうしても欲しいというものだからあげてしまった。すると彼はそれにハンドルを付けて紅茶碗にしたのだ。それを日本民藝館展に出品すると、まだ健在だった濱田庄司さんが絶賛して、「この頃の民藝派というと分厚い物が多いけれど、これは先進的な新しい物だ。ハンドルのかたちも無骨ではなくて、納まりが良い」と奨励賞を授けたのだった。Yさんは驚き、喜び、有頂天になってしまった。その受賞は人との協力で実現したというより、自分が目利きだからだとあちこちに言いふらしてしまった。それを知って、私もまだ若かったからおもしろくなくて縁が切れてしまったのだった。Yさんはいまだに、濱田さんに褒められたことを誇りとして生き続けているようだ。
 そんなことがあって、磁器への想いはありながら、関われる磁器のつくり手とはなかなか出会えなかった。神経が細かく、独自性が強い。人の親切なアドバイスも逆にとったり、あるいは人の言ったことをうまく利用してしまうといった、こざかしい部分がある人がけっこう多くて、関係がうまくいかなかった。

ロクロ台をはさんでのやりとり

 そんな中で、O君に出会ったものだから、私も嬉しくて、頻繁に彼のもとへ通った。ただ彼は、何か見本が無いとかたちをつくることもできない。たとえば私のいちばん好きな湯呑みのかたちをロクロで挽いてもらうといった具合だ。私の好きな湯呑みのかたちとは、濱田庄司さんのかたちだったが、ロクロを挽いてもらっているその場でO君に合ったかたちに変えてみたくなる。私はロクロ台の目前に座りながら、彼が挽いていくのを前にして、「腰を膨らませたら」「縁を反らせてみたら」と技術的なことをアドバイスしながら、1個づつ、つくらせていくのだ。そして一つの型が決まると10個ほどいっぺんにつくった。さらに、それに番号でふっておいて素焼き(約800℃の焼成温度で焼くこと、または本焼きとする前に釉薬をかけずに焼き固める方法)してもらう。素焼きにすると、かたちがきちんとしてくるので、その中でランクをつけて、佳い物に釉薬をかけて焼いてもらう。さらにその中からベストの物を取り、それを一つの定番にするといった流れで作業を進めたのだった。
 このやりかたで湯呑みや、大中小の飯茶碗、かたちを丸めた物、反らせた物をつくった。それぞれ見本として有田や古伊万里の古作、それ以外の良いかたちの物を私が選んで持参し、そのかたちを参考にしつつも彼に見合う物をつくってもらった。彼はロクロ技術が熟練した仕事人なので、なんなくやってくれるのだ。 こうやって製品の種類を増やしていき、定番製品は「もやい工藝」と「光原社」で販売することにした。


右側が有田焼(古伊万里といってもよい)の幕末か明治あたりの俗にいう
「番茶碗」のかたちがとても良かったので、それを模して磁器でつくった。
つくっていくうちに縁の反らせ具合とか、高台をしっかりするとか、少し変形させた

濱田庄司さんの湯呑みを参考にした製品。
大ぶりな物と、少し中ぶりな物がある。
飲み口がやや反り気味なので、口当たりが良い。
この反り具合がポイントである

龍門司焼のコロ湯飲みを模してつくった物。
もともとコロ湯飲みは磁器でつくられた小さな湯飲み茶碗のことを言う。
それを真似てつくった龍門司焼をさらに真似てつくった(右側の2つ)。
※KUNO×KUNOのバックナンバーを参照



左側が土物で、美濃あたりでつくられた安物の飯茶碗。櫛描きを施し、
縁に鉄が巻いてあって、なかなか洒落ているし、
かたちも良くて食べやすそうだったので、
これを磁器に転化しようと思ってつくったもの(右)。
飴釉のかわりにコバルトを巻いた


ちょっと前にベトナムあたりでつくられた、いわゆるゲテ物汁茶碗(左)。
そのかたちがとても良かったので、
やや深めのかたちにして磁器でつくったもの

コロ茶碗や番茶碗をつくるのに、線書きでまとめたかったので、いい模様が無いかなと思っていた。物としては佳い物ではないが、明治あたりの瀬戸物「杯洗(はいせん)」という盃を洗う台内側に、模様がシンプルな線引きが施されていたので、これを模して磁器でつくってみた(右)

土と釉薬の工夫で、味わいある色を出す

 磁器というのは、陶土の精選、どういう陶土を選ぶかが肝心だ。ほとんどの磁器のつくり手は陶土を買う。盛岡付近もまた、磁器に適した陶土が採れないから、瀬戸や有田から買っていた。そして釉薬もできたものを買うことが一般的だが、O君には風情のある物をつくって欲しかったので、青みをもたせたいために、使っている瀬戸磁土に「鬼板(おにいた)」という鉄分の多い土をほんのわずか混ぜる。また、買ってきた釉薬にも土灰を混ぜた(普通は石灰釉のみを使う)。そうして還元炎(窯の通風孔を部分的にふさいで酸素を減らした、不完全燃焼の弱い炎)で焼くと(磁器はすべて還元炎で焼く)、色が非常にきれいな青みがかった、風情のある色調になるのだ。
 このように、磁器というのは逃げ場の無い仕事。陶器の場合は多少の凸凹があったり、指の跡があっても逃げられる。しかし、磁器は逃げられないのだ。挽いたかたちがそのまま出てくるから、ロクロ技術がその場で上手いか、下手かわかるのである。逃げ場の無い仕事だからこそ、釉薬を大事にしていこうとしたのだった。
 焼成がうまくいくと、今度は絵付けをしたくなる。婦人のEさんが横で仕事を観ているから、彼女は絵付けをしたくて仕方が無い。だが、Eさんにはうちがお願いした磁器には絵を描かないで、せいぜい最小限のコバルトの線でまとめてくれと指示した。


骨董品の写真を観て、ロクロで作り上げてもらった物。
ご飯茶碗あるいは汁茶碗として。
内側にコバルトを巻いてもらったのは、その時のアイデア

赤絵を筆で描くのではなくて、線描きで幾何模様でまとめてもらったらどうかと考え、線の配置を指示しながらつくってもらった物

鹿児島県の平佐(ひらさ)という江戸幕末期から明治のはじめ、わずか30〜40年の間にできた窯があった。磁器を焼いた窯だった。大らかで素晴らしい素朴さがある磁器で、非常に珍しい物。それを参考資料にして同じようにつくってもらったのがこれ。「平佐型筒花立て」

「民藝協会賞」を受賞したことがネックに

 O君のもとに通って3年目には、日本民藝館展で彼の磁器が「民藝協会賞」を受賞する。この受賞によって、岩手県在住のさまざまな工芸分野の人たちがグループ展や個展をやりなさいとO 君に言ってくるようになった。地方のギャラリーでは珍しい作家がいると、寄って来た。職人的な仕事であろうと、つくり手に先生と呼ぶのを常としている。また、さらに困ったのは、私たちの仲間の中から「人の言うことを聞くのではなくて、つくり手は自分自身の感覚でやりなさい」と指導した人までいたのだ。
 しかし、そう言われても、できる人とできない人がいる。O君の場合は誰かの援助が無ければ、物のかたちもできなかったし、方向も見えなかった。それで私がたまたま言ったことによって、うまくマッチングして佳い仕事ができたのだ。出来上がった所だけを観て、「君はたいしたものだ。独力でやりなさい」と言われてしまったのだ。
 そんな折、ここ4〜5年間の集大成としてO君の展覧会をやってみようと「光原社」が提案してきた。展覧会となると磁器の場合、壺、花立、一輪挿しのような物も必要になってくる。それで、ちょっと変わったかたちの花立、一輪挿しをつくった。骨董品や濱田さんや河井さんたちのかたちの物を私なりに利用して、彼と一対一で取り組みながら、いろんなかたちの花瓶をつくり、それに赤絵を施したのだった。その赤絵の色があまり良くなかったことは確かだが、展覧会は無事できたし、販売も好調だった。展覧会にもいろいろな人が来て、他のギャラリーオーナーがうちの方でもやってくれないかなどと申し出てきた。
 Eさんも夫の焼き物に絵付けをしたいのだが、私が辞めろというものだから、微妙な対立が起こってきた。
 それからは訪ねても何か雰囲気が悪い感じが漂い出したのだ。それでもO君は誠実に仕事をこなしてくれていたのだが、だんだん煮詰まってきて、私に対して多少抵抗するようになった。個展を開きたいとか、もともとこのかたちの物は自分が前からやろうと思っていたなどと急に今まで口にしなかったことを言い出したのだ。それで私はそんなことを言うのはおかしいではないか諭した。ところが彼の焼き物も売れるようになってきて、うち(「もやい工藝」)も「光原社」もいっぱい物を取る。民藝館展に名前を出して出品したことにより、各地の店やギャラリーのオーナーが噂を聞きつけて各地から買いに来るようになったので、今までのO君の生活体系ががらりと変わり、かなり佳い方向にいったのだった。



左側が平佐焼の茶碗蒸の受け皿だと思う。反りの具合とかたちがとても良かったので、そのまま磁器でつくってもらった(右)

古伊万里にある蕎麦猪口のかたちをなぞってもらった物

O君に託せなかった宝物

 実はその何年か前、鈴木繁男さんが大事に宝物のように持っていた物を私は預かっていた。それは中国呉須(酸化コバルトを含んだ鉱物の名で、染付の顔料)の最上の物だった。「その呉須は自分が死ぬまでには必ず誰かにあげようと思っているが、あげられる相手が今のところいないのだと。この呉須をちゃんと有効に使える人間を君が探してくれ」と鈴木さん。私はO君のつくった磁器を鈴木さんに見せると、最初は黙っていたけれど、「この男はなかなか仕事ができる。あと5年、久野君が彼の仕事を見守って、佳いと思ったら、彼に呉須をあげてくれ。それまで君が預かっていて欲しい。O君が駄目だったら、駄目でかまわない」と言ってくれた。私はこの呉須を受け取って、今も持っている。鈴木さんの遺品だ。O君にあげようと思って,その一部を持って行った。ところが彼の状況がおかしくなったため、結局、取りやめて返してもらった。今、私は鈴木先生の宝物を預かっているが、先生の意向をそのまま受けて、この貴重な中国呉須を使えるつくり手が出てきたら、その人に差し上げて未来を託そうと思っている。
 その後、自分で日本民藝館展にも出品したいと私に申し出た。その予定の作品を見ると、それはあまり佳くない物で、私が指摘すると、気分を害したのか、「久野さんにはもうついていけないと」O君。彼とは完全に縁が切れて、預けていた見本も返してもらった。 それからのO君は案の定、焼き物づくりも、販売もうまくいかなくなったようだ。当たり前だが、多くの店、ギャラリーオーナーたちは自分の店の存立と発展が責務なのである。人を育てる力のある店はほとんどいないのが現実だ。売れなくなれば扱いを辞めてしまう。だが、私は売れなくても、その人は変わると思ったら頼んでいた物は引き取って、なんとかしてきた。ところがO君は他に引く手あまたと思って、私とは決別してしまった。
 結局今は、焼き物の仕事ではたいして発展していないようだし、陶芸教室で生計を立てているという話も聞く。友達とのグループ展はしているようだが、表立った活動はたぶんできないだろう。せっかくの優れた技術を持っていながら活かせなかったのだ。あのまま私たちとつき合っていれば、彼はかなりのレベルの高い仕事をしていただろうし、そこからひとつの流れをつくれるくらいの実力をもっていた。
 誠に残念である。

(語り手/久野恵一、聞き手・撮影/久野康宏)


8寸5分のお皿。平たい皿をつくってくれないかという注文があり、
つばを広くした洋皿をヒントにして、
中央にコバルトの円を描いて巻いてもらった

左側が本物の朝鮮李朝時代の「杯台」で盃を載せる台。
そのかたちがとても良くて、つば縁を拡げると、灰皿になるのではないかと。
灰皿の場合、通常はタバコを載せる筋を付けるのだが、
それは物体を壊してしまい嫌だったので、つばを拡げてつくった
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