手仕事調査Kuno×Kunoの手仕事良品

Kuno×Kunoの手仕事良品

#021 [小石原焼の太田ファミリー]福岡県朝倉郡東峰村小石原 2007.10.22

焼き物がつくられる場を初めて覗く

 昭和47(1973)年のこと。学生時代の友人が陶芸家になるための修行で、小石原焼、太田熊雄窯に修行で入っていることもあって、当時、この仕事に入ったばかりの私は、まずその窯を訪ねてみようと目指した。もともと小石原焼には「皿山」と呼ばれる10戸の窯元が集まる場所があったが、昭和30年代からさらに窯元の数が増えてきて、今や50戸を越える一大産地に発展した。私は本家本元の皿山へ向かい、その中の1軒、太田熊雄窯にヒッチハイクしながらたどり着いて驚いた。展示場も仕事場も大きく、家も立派なお屋敷になっていて、焼き物屋さんというのは、経済的に豊かなのだな、という印象を持ったのだ。
 表には誰の姿も見当たらなかったので、作業場を覗くと、私より少し若いくらいの、感じの良い若い青年がロクロを挽いていた。青年の名は太田哲三さんといった。私は焼き物がつくられる様子を目にしながら、哲三さんといろいろと話しこんだ。彼は電動のロクロを使用していた。「蹴りロクロ」(足で蹴りながら回転を出して成型する)ではないのですね?と聞くと、自分は有田工業高校を出たため、そこで学んだロクロしか扱えない。本当は小石原焼でのロクロの回転は朝鮮式で左回転だけれども、自分のロクロは学校で学んだ通り、右回りなのだと言う。私はおもしろい話だなと思いつつ、陶土をよく見ると黄土色をしていることに気づいた。この土は焼くと、黒くなるという。その時、私は初めて焼き物のことを教えてもらったのだった。哲三さんは大きな湯呑みをつくっていたので、寿司店の注文かと尋ねると「いやいや、これは縮むと,普通の湯呑みのサイズになるのだ」と。そんなにも焼き物は縮むもの(小石原焼では、収縮率は20%くらい。)と知って、私はまた驚いた。
 それから何度か、この窯に通ううちに非常に哲三さんと親しくなった。彼は職場の2階にある職人部屋で寝泊まりしていた。そこでは私の友人も寝起きし、川の字のように寝る。私もこの部屋に泊まらせてもらいながら、なぜ哲三さんは窯元の息子さんでありながら、こんな部屋で寝るのかと聞くと、小石原焼では長男が跡を継ぐし、長男が結婚すると本家に入るのだと。次男、三男はここから出ていかないといけない。だから嫁をもらうまでは、こうやって職人部屋で、職人たちと同じように生活をするのだと言う。昔ながらの民陶系の窯場の厳しさみたいなものを知った気がした。
 それから約1年後、夕方に窯元へ着くと、哲三さんがちょうど車で帰ってきた。ずいぶんきれいな恰好をしていたので、おやっと思ったが、彼は結婚をして、新婚旅行から帰ってきたところだったのだ。住む所は小石原には無いので、ここから20分ほど山を下った、把木町(はきまち)でアパートを借り、そこから窯まで通うことになるという話だった。その日も職人部屋に停めさせてもらったのだが、翌日の朝早くから二人は窯に出て来て、奥さんの恵美香(えみか)さんは展示場の売り場で働いていた。その頃、民陶ブームがかなり激しかったため、毎日お客さんが次から次へと車で上がってきて窯の中にあるものを買っていった。


太田熊雄さんのつくった一升の山道徳利

確かな技術から描かれる山道の模様

 この窯に通っていくうちに、窯主である太田熊雄さん(故人)の仕事ぶりがまた素晴らしいことを知る。哲三さんと、兄の孝宏さんも卓越した仕事人であることも一目瞭然であった。とくに哲三さんは律儀できめ細やかで、数物製品をきちんと同じようにつくっていく姿勢を見るにつけ、職人の生き方とはこういうものなのかと感じた。
 ある時、たまたま熊雄さんが、大きな一升徳利をつくっていた。それはナスビ型をした徳利で、「変わった徳利ですね」と聞くと、これは昔からの伝統的なかたちで、小石原焼ではよくつくったものだと。小石原焼以前は、北九州の上野(あがの)焼がナスビ型をつくっていたという。これは「山道徳利」と呼ばれ、山道のように細長いデコボコ波が連なった模様が描かれていた。小石原は山の上に位置し、下の町からはつづら折りの道を上がって来る。その道をモチーフにしてできた模様なのだと熊雄さんは教えてくれた。また、これもいつ頃から上野焼を真似たのかはわからないが、「波模様」の徳利もあるという。ならばそれもつくって欲しいと私は頼んだ。
 山道徳利を製作する時は、ゴム製のスポイトに白化粧土を含ませ、スポイトを指で包みこんで、指の感覚で絞り出し、ロクロを回転させながら、山道の模様を描いていた。山道のつなぎ目の部分を描くのが難しいのだけれど、数物をこなしてきた確かさからか、最後もきちんと納まるようになっている。だから、連動した模様ができあがるのだ。数物は作業のスピードが大事で、繰り返し、繰り返しつくっているうちに、勝手に手が動いてできるのだと言う。これが俗にいう、無名の陶工の、無意識の状態の中からできる物なのかと。意識を超えた世界があると聞いてはいたが、目の前の仕事がまさにそれなのだと感心した。


同じく熊雄さんの波模様徳利

熊雄さんが30年ほど前につくった、堂々としたかたちのピッチャー。化粧掛けして、指で掻き落としたもの。飴釉を掛けているので、発色が黄色くなるのだが、少し黒っぽくなっているのは、不完全燃焼した還元炎で焼いているから

第一級の技術と感覚

 私には気になっていたことがあった。それはかなり古い山道徳利、一升ではなく3合半から五合ぐらいの小さな徳利に時々見られるのだが、本来は白い化粧土に飴の釉薬を掛けると、黄色くなるのに、これらは飴釉を掛けていながら、白っぽいのだ。その理由を熊雄さんに聞いてみた。 当時、小石原焼では、昔から小鹿田焼窯元と共同で採掘権のある「赤谷長石(ちょうせき)」を釉薬にしている。長石だけでは1300℃の火に溶けないので、融点を低くするために土灰を入れる。その溶けない特性を活かして、長石を竹筒に含ませて山道のように昔は描いていたのだと熊雄さんは答えた(長石で描いた模様が溶けずに残る)。昔は「筒描き」といって、竹の管の中に釉薬の成分となる物質を入れて描く手法(「イッチン」とも呼ぶ)があった。しかし、今は竹筒ではなく、ゴム製のスポイトを用いるのだが、長石をこれに入れて描こうとすると、スポイトが詰まってしまう。そこで長石の代わりに白化粧土を入れることで、結果として長石よりも柔らかな模様になるのだと教わった。
 しかし、スポイトできちんと山模様を描ける人は、当時の小石原焼の中で熊雄さんしか見当たらなかった。他の職人のものは化粧土が途切れたり、山道のつなぎ目が良くなかったのだ。
 ちなみに小石原では、一升の山道徳利は、約6尺の長さの皿板に(つくったものを載せて日干しにするための板)に18本載せるのだが、それを1日4枚つくる(計72本)と一人前の職人だといわれたという。熊雄さんは朝5時くらいから仕事を始めて、3回の食事をとりつつ、晩の8時くらいまでの間に70本がやっとで72本いくこともあるのだとか。山道徳利で良い物は、軽くてぶつけても割れにくい物と熊雄さん。また、一升徳利といっても、約10%余計に入るようつくる。なぜなら酒屋にこの徳利を持って酒を入れてもらう際に、水増しする人がいるからだという。
 スポイトで描くのが得意ならば、「いろいろとできるでしょう?」と聞くと、名前も描いたことがあるという。ちょうど私が家を建てようとしていた時(20数年前)だったので、熊雄さんに頼んで、久野という名前を描いてくれないかと頼んでみた。熊雄さんは快諾して、新築祝いとしてつくってあげると。それが私の自宅の塀壁に埋めこまれている。白土をスポイトに含ませて描く字なので、技術的には非常に難しいのだが、熊雄さんが感覚で描いた字は深い味がある。そういう意味では熊雄さんは第一級の感覚の持ち主であったのだ。
 しかし、熊雄さんに言わせると,自分は職人としては普通ではないかと。一升徳利は70本程度しかできなかったし、大きな龜を一日10本挽けと言われても、7〜8本しかできなかった。技術的にはそんなに上手じゃないのかもしれないと。ただし、他の陶工と違って、戦争の間もずっとつくっていたし、訓練もできたから、いろいろな物を見ることができたし、さまざまな先生方と会うことができたので、コツも知っているし、見る力もあるのだと言っていた。
 この山道徳利を今、つくれる唯一の人が息子の哲三さん。お父さんの仕事と見間違うばかりの物をつくる。だが、一升徳利はできない。一升徳利は底土を板で叩いて、その上から土を紐で巻いていく。その後に木の細木の枝を道具にして、内側から膨らませ、絞りながら伸ばしていく技術でつくられる。この技術を今、持っている人は、おそらく小石原ではいないだろう。いちばん割れやすい首の所を強化するために羽子板のようなかたちをした、自前でつくった板を右手に持ち、左手の指を口の中に入れて押さえ、ロクロを回しながら叩く。その音がポンポンポンととても小気味良いもので、瞬時に首ができる。あとは首の縁をぐっと絞って布で絞めると一升徳利が完成するのだ。この技術を備えたのは熊雄さんが最後であった。 熊雄さんはバーナードリーチさんに教わったこともあるし、彼の影響も強く受けた。とくに濱田庄司さんのことを尊敬していて、濱田型やリーチ型のピッチャーをつくるのはお手の物だったし、小石原焼といえば、小鹿田と同じ「飛び鉋」や「刷毛目」、「櫛目」模様が多いのだが、熊雄さんは指掻きしたり、装飾技法もバランスの良い、とてもいいものをつくることにたけていた。


すべて熊雄さん作。右端はシンプルな二彩流しの一輪挿し。釉薬がポツポツと泡を吹いているのがおもしろい。火の温度が高くて、釉薬の融合がうまくいかず、吹き出してしまったのだ。それがひとつの風情を醸し出して、嫌みの無い、素朴な、それでいて力強いものを感じる。大好きな一輪挿しとして、私の母が愛用している中央は大筒湯呑み。熊雄さんの作品的なものをつくってもらった。真黒(しんぐろ)の釉薬(酸化鉄をかなり含んだ土を釉薬にしたもの)に透明釉になるものを加えると、分量によっては黒になる。その黒を掛けた上に、ワラ白を縁に巻いて焼いたら、酸化炎で良く焼けたので、黒が流れた部分が赤くなった。これは登り窯でも、とても温度が高い状態。小石原焼の陶土は鉄分の他、砂気も含んでいるから厚めにつくらないといけないのだが、その分、強く焼くと、生地の中の鉄分から金属質の物が表面にできたり、釉薬の中の成分と合流して、こういう独特の雰囲気が出る。そうした特性を読み、活かした、熊雄さんならではの焼き物だ。左端はタバコ入れと思われる蓋物を長野県の骨董店で二束三文で売っていた。手に取ってみると熊雄さんのつくったものだとわかった。飴釉を掛けて酸化炎で焼くが、中には還元炎がかかる場合、釉薬が流れて、錆が浮き出てくる。そんな風情や紐づくりであることと、さらには「イボ(つまみ)」(蓋の指でつまむ所)の付け方に特徴があることか熊雄さんの作と気づいたのだ。普通、イボは削り出しでつくる。しかし、これはイボをつくっておいてから載せている。そのためにイボが火に引っ張られて少し傾いている。その上、練り付けでつくっているから少しゆがんでもいる。紐を巻いてつくるから、巻いた所がよく焼けると引っ張られていくのだ。こんな物を紐づくり(練り付け)でつくる人は熊雄さんくらいしかいない

3寸5分の刷毛目皿。紐づくりでつくった珍しい皿。熊雄さんは電動ロクロでつくることも、土の塊で量産する挽きづくりもできない。そのため、こんなに小さな三寸五分の小皿も含めて、焼き物をすべて紐づくりでつくっていた。小さな物を紐づくりでつくるなど普通はできないし、やらないのだが、それはやはり名人のなせる技なのだ。火が強かったため、化粧土の白が消えてしまって、中から灰が飛び出てきたことで、ちょっと変わった雰囲気の小皿になった。こんな仕事をする人は、当時でも日本中を探してもいない

熊雄さんがイッチンで描いてくれた表札。私の自宅兼店舗である「もやい工藝」の塀壁に取り付けてある

継がれた誠実な仕事と、挑戦する気持ち

 その後、10年して太田熊雄窯は、太田孝宏さんが跡継ぎになり、熊雄さんは隠居して一職人となった。私は太田哲三さんとの付き合いが長かったものだから、彼の窯とやりとりを続けている。彼は若い時、大きな物はつくっていなくて、小さな数物をつくる職人の訓練をさせられたから、小物づくりが専門だった。大きな物をつくるのは大変な苦労をしていた。それに、彼は数物をずっとつくってきたから、かなりレベルの高い技術を身につけてきた。だから、電動ロクロの数物をつくる技術は天下一品だ。
 大きな物は不得意とはいえ、窯を持った以上は多種多様な物をつくらないといけない。それで苦労しながら大きな物をつくっていくようになる。また、自分なりに特色を出していくことも求められる。小鹿田焼と同じように、飛び鉋や刷毛目模様を駆使しながらも、父、熊雄さんの得意な技法で表現していきたいと、小石原では初めてイッチン模様を細かい物に入れるようになる。 彼は誠実な人のため、きちんとした仕事を得意にしている。おそらくロクロ技術については日本で有数のつくり手だと思う。それは熊雄さんのもとでの修行時代に過酷だけれど、かなりつくらされたことで高められた技術が彼の体の中に潜んでいるのだ。
 哲三さんが工夫して考案したものとしては、独自の櫛掻きも挙げられる。通常、櫛掻きというと、木の櫛をノコギリの目のようにして、化粧掛けした土の上に掻き落として模様をつける技法を指す。しかし、そうするとかなり深く彫れて柔らかさが出ない。そこで車好きな哲三さんが考えたのは、タイヤを活用すること。木ほど硬くないタイヤのゴムを切り取って、それをノコギリのように目立てて化粧土の上で掻く。そうするとやや柔らかい感じで櫛掻きができるのだ。
 哲三さんは現在56歳だが、油が乗り切っていて、息子さんの圭(けい)君もつくり手として頑張っていて、佳い方向にいきそうだ。圭君もお父さん譲りで、仕事が熱心で、同じ物を繰り返してつくれる。具体的に創造的な物をつくってみようとか、自分を前面に出してみようかという気持ちは微塵も無いのだ。そういう誠実さをこの親子からは感じる。それは熊雄さんの影響もあったのだろう。熊雄さんは誠実さとたぐい稀な精神性が体の中に潜んでいた芸術性と重なり合って、いろいろな物に挑戦した。哲三さんはその血を受けながら、上手にこなして現代に見合う器づくりをするのが楽しいようだ。それに、名誉欲に興味が無い。珍しいつくり手だと思う。こういう誠実なつくり手がこれからも出てくると、いいのだが・・・。

(語り手/久野恵一、聞き手/久野康宏、撮影/久野恵一、久野康宏)


国道に面した小石原焼・太田哲三窯

太田哲三窯の入口。25年前に家ができた当時、まわりを植栽したら、と私がアドバイスした。今やその植物に隠れるような家になった

哲三さんの登り窯。酸化炎で焼くため、窯の傾斜が低いのが特徴

仕事場。左が哲三さんで、右が息子の圭君


30年来の付き合いの哲三さん。通称、哲ちゃん


前は哲三さんが4輪駆動車のタイヤのゴムをノコギリのように目立てて櫛掻きした皿。後ろの2つの小鉢には波模様を施している。左側は胎土の内側のみ化粧掛けをして(白化粧土を入れる)。さらに白化粧土をイッチンで縁に波模様を描き、普通の透明な釉薬「フラシ」(地方語)を掛けると、このように透明感が出た焼き上がりとなる。右側は飴釉を掛けた物。そうすると白化粧土が載った部分が黄色くなる

哲三さんのつくった2合半徳利

太田圭君

哲三さんの山道徳利。これも2合半

圭君が皿を削る。きちんとしたつくりかたが見える

圭君のつくる皿
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