手仕事調査Kuno×Kunoの手仕事良品

Kuno×Kunoの手仕事良品

#022 [ニギョウのカゴ]岩手県一戸市姉帯 2007.11.29

日本民藝館展に関わり30年

 私が日本民藝館展(以下、館展)に携わってちょうど30年になる。昭和47年(1972年)にこの仕事に入って、しばらくしてから日本民藝館を頻繁に訪ねて展示を見に行くようになった。その翌年くらいに、製作者の方々が毎年、秋におこなわれる館展を目指して頑張っている姿勢を見て、こういったものがあるという存在を知った。早速その年の11月初めに日本民藝館展を見に行ったのだ。ふだんは静かな日本民藝館に多くの人が集まっていた。しかもそこで入選と準入選の物が売られていた。公募展で出品作が販売されるということに驚いたものだったが、なんとなく私なりに納得はできた。準入選品の中から気に入った湯呑みを購入した。これが後に、大分県・小鹿田焼の坂本茂木さんのつくったものであることがわかり、縁を感じるものだった。それからは、館展を意識するようになる。この展示会出品を目指し、製作に励むことで、つくり手たちが育ってきたのだなと実感したのだ。
 出品される物には、いわゆる編組品といわれる、竹や蔓、樹皮、草ワラといった素材でつくられる、さまざまなカゴ類があった。それらは、つくり手と消費者の間に立つ人たち、たとえば民藝店、工藝ギャラリー、もしくは地方の民藝運動家の方々によって、自分たちの地域から出品されていた。それを見て、こういうことなら、私にも出品するチャンスがあるのかなと思ったのだった。それで当時、館展に関わっていた先輩方から出品の方法を聞いた。また、学生時代に培った、民俗学的な手法、民具収集の経験から館展には何を出せば良いのか、私なりに理解していた。それからは館展に出品する物を探しに日本各地に出かけようになる。他の人が出していない物を選んでは出品するようになる。 初めての私が人のつくった物を集めて出品したのが、昭和52年(1977年)のこと。日本各地からカゴ類を大量に出したので、審査員たちは「こんなにもいろいろな物があるのか」と驚いた。
 それから30年間、毎年、日本民藝館を大事に思い、大げさに言えば、館展のために日本各地を歩いて、物を集め、出品してきた。その当時から、ともに出品していた仲間たちは一人消え、二人消え、とうとうここ20年は、編組品の部門に関しては、私一人がほとんど担っている。また、焼き物のつくり手、とくに小鹿田焼、沖縄の焼き物はつくり手に代わり、私が選び、また出品用の物をわざわざつくらせて、出品してきたのだった。
 こうして館展の最高賞を何人ものつくり手の人たちに取らせてあげることもできたし、毎年一人か二人は入賞させてあげられた。このことは意義があったし、館展に出される物全体の30%近くはいまだに私が出している。つまり、いつの間にか館展を支えてきて30年が経過したのである。
 ところが近年の館展のありかたと自分自身の方向が少しづつ変化してきた。そういうこともあって館展との関わりについて、そろそろ考え直そうかとしていた。その矢先、今年度、私の出品した物が平成19年度の館展で最高賞、日本民藝館賞を受賞した。それは岩手県県北、一戸(いちのへ)の山中にある姉帯(あねたい)で、ニギョウという材料でつくっている箕(み)だった。

北から南、同じ形をしている箕

 箕は農具であるが、現在の日本の農業形態からして箕を使う人は皆無に近い。それでも老人の中にはこの箕が使いやすいと、いまだに用いる人も稀に存在する。そのため、私たちはむしろこの箕をつくる技術を活かし、現代の暮らしに沿う、新しいカゴづくりへと展開していかなければならない。そのことを世間に対して広くアピールできるという意味で、最高賞の受賞はありがたいものだった。 以前に、この連載企画の第14回で富山県氷見の箕づくりを紹介したが、箕についての詳細はそれを参照してほしい。氷見と岩手県一戸とは距離にして1000km近く離れていて、前者はフジの外皮をベースに、桜の皮を補強に用いている。また、岩手から200kmほど北上し、青森県岩木山の山麓に行くと、箕の素材はイタヤカエデとなる。それから秋田県に下がると、角館や大平(たいへい)、さらに下がって山形県の大石田町でもイタヤカエデを用いた箕がある。その横、宮城県の大和町(たいわちょう)では篠竹と桜の皮で編み込んだ箕がある。この箕は薩摩半島日置(ひおき)の物と酷似している。それぞれ用いる材料の質が少し違うだけであって、つくりかたはよく似ているのだ。
 青森県から鹿児島県まで箕の形が、釣り鐘型、あるいは馬蹄型をしているのである。形が共通するのは、穀物を振る時の作業にもっとも適しているからだと思う。しかし、日本は同じ素材を用いながら、地域ごとに名称が違い、形も若干違うことの多い国。ところが、この箕のように素材が異なるのに、北と南で同じ形の物をつくっているというのは異例で、山の文化をことさら強く感じるのだ。

ニギョウの箕のつくり手を探る

 岩手県一戸でつくられる箕の素材は、種類的にはイタヤカエデに近い、サルナシ科のニギョウ(コクワとも呼ばれる)の木から採られる。この木は山間部の標高の高い所に自生している。岩手県で箕がニギョウでつくられるようになったのは、材料が他に適したものがなかったということなのだろう。だいたい農具を含めた民具というものは、身の回りで自生する素材を利用して編んでいくものなのだ。それでいちばん編みやすかったのがニギョウの木の皮だったということだと思う。
 おもしろいことに、岩手県にはニギョウの皮を用いた、他のカゴがいくつかある。しかし、全国的にみても、ニギョウを素材とする箕は岩手にしか無い。昭和30年代前半までは、部落中でこの箕を冬場につくって、春先の農具が必要な時期になると、県内を一人で10枚、20枚と背中にかついで汽車に乗って都会の盛岡や一関周辺まで、つくった本人が売りに回ったそうだ。盛岡の工藝店「光原社」経営者であり、私の友人の及川隆二さんから聞いた話によると、30年前までは冬場になると、雪の中をつくり手が箕を持って来て、それを購入し、店で販売したものだとか。ところが最近はつくり手が訪ねて来なくなったという。そこで、探ってみようと及川さんを車に乗せて、姉帯へ出かけ、つくり手の高橋さんのもとを探し、訪ねることにした。ここまで来るには、盛岡から車で3〜4時間はかかる一戸の山奥にある集落だった。そんなひっそりとした山奥で、ここでしかつくられていない物があることは、私たちにとって、とても興味深いことだった。 高橋さんのもとに行くと、この頃は農具として箕は売れないし、つくるのは辞めているとのことだった。ただ、一戸町の駅近くに自分がつき合っている卸問屋があって、そこに頼まれると1年に5〜6枚くらいは納めてはいる程度だと。ここ数年はたくさんつくることはないという話だったのである。
 材料のニギョウを採りに行く時期もあるし、そのタイミングに間に合わなければ、その年は箕ができないと高橋さんは言う。私は「そうですか。ではまたお願いします」と別れた。だが、高橋さんのつくる箕は私の判断では、それほど上手ではないと思った。 それで高橋さんの家から出て近所の方々に、他に箕をつくれる人がいないか尋ねたのである。すると「この辺はみんなつくれる人ばかりだよ」と言うではないか。ただし、今つくっている人は3〜4人しかいないと。そこで、いちばん上手な人は誰かと聞くと、たぶん峠下(とうげした)秀夫さんではないかということだった。
 早速、峠下さんの家を訪ねると在宅していた。山間部に暮らす人たちはまず昼間は、大雨や大雪でない限り家に居ないのが通常だ。ほとんどの人が山に入って材料を採ったり、棚田で米をつくっていたり、畑作をやっている。農業や林業に携わっているからで、この日たまたま峠下さんは家にいて出会えたのだ。会って話をすると、自分のつくった箕を見せてくれるという。彼のつくる箕はきっちりとした編み方で、形もしっかりとしていて、本当に上手だなと思った。この人に箕づくりを頼めばいいということで、それからは15年ほどずっとつき合うようになった。今から5年ほど前まで毎年訪ねては、注文していた数枚を受け取った。
 箕というものは、実際に工藝店で販売しても売れる物ではない。しかし、こういう力強い仕事、東北のエネルギーが集約されたような物、とくにこのような自然素材の強さが現代の軟弱な時代に力を与えてくれるような仕事の物は売れる、売れないかに関わらず、常に傍らに置いて見せておきたいものである。また、郷土料理店にディスプレイとして用いられるなど、本来の使われ方はしない場所に買われていくということに、私たちなりに多少の抵抗があった。ならば箕を現代の暮らしで使うためにはどうしたらよいかと考えながら、峠下さんのもとへ通っていた。すると、そのうちに峠下さんが普段使うカゴはどんな物かと尋ねると、「ツボケ」というカゴがあるという。そのカゴはイタヤを素材にした物だった。イタヤは白色をしているので外見は少し力が無かったが、縁にはマタタビの蔓を巻いていて、なかなか好感の持てる物だった。これをニギョウの皮で編めないかと問うと、とても硬くて無理と言い、つくってはもらえなかった。そのうちに、私も光原社さんも箕ばかりを扱うと在庫が増えていってしまうため、注文できなくなった。ということで、現地へ行けなくなって、自分たちのふがいなさを反省しつつも、数年経過してしまった。


岡本さん(撮影/大橋正芳)

新たなつくり手に出会う

 4年前、久しぶりに岩手の姉帯へ寄ってみた。アクセスするための道は整備されていたが、集落は過疎化して、高橋さんは亡くなり、箕をつくっている人も峠下さんしかいないという。そこで彼を訪ねると、脳梗塞で倒れて今は入院していて、もう箕づくりはできないということになった。これだけ立派な仕事がこの世の中から消えてしまうのかと落胆した。自分の力不足、経済的な弱さを痛感して情けなくなった。 そこへ偶然、看病に行っている奥さんが戻って来た。彼女に無念だと嘆いていたら、内緒だけど教えてあげると奥さん。300mくらいこの山を登った所に岡本米蔵さんという人がいて、この人なら箕をつくれるはずだと言う。まだ農業用に頼まれることがあるので、時々つくっていることがあると教えてくれたのだった。
 この地域ではやっぱり箕は便利なのだ。穀物類をふるうのに、昔ながらの人だと、脱穀機を使うよりは、むしろ箕の方が良いという人もいる。それに田畑は山間部の狭い地域だから大きな農機具は入らない。それゆえにこの集落の中では相変わらず箕を用いる人が多いのだそうだ。
 私はすぐに岡本さんを訪ねた。しかし、その時にはすでに箕をつくっていなくて、過去につくったものを見せてもらった。それは一目で上手な仕事だとわかった。それに私たちの言うことに耳を傾けてくれる前向きな人でもあった。峠下さんは上手だったけれど、自分でこんな新しい物をつくりたいという気持ちは全然無く、昔からの物をつくっていれば、それでいいという人だった。
 岡本さんは昭和5年生まれの70歳代と峠下さんより若いためか、社会の動向に気が向いていた。それで、箕以外に何かつくれる物は無いかと尋ねて、見せてもらったのが、ニギョウで編んだ平たいカゴだった。私は驚いた。すかさず、ニギョウでカゴをつくってくれないかと打診すると、やってもいいと言う。では、来年また来るからと発注した。


ニギョウの枝を干す(撮影/久野恵一)

岡本米蔵さんの家。青いトタンの小屋が仕事場(撮影/大橋正芳)

皮を取った後のニギョウの枝と箕(撮影/大橋正芳)

岡本さんの旧作の箕(撮影/大橋正芳)

岡本さんがつくりかけのカゴ(撮影/大橋正芳)

ツボケとオボケ

 こうして2005年にまず製作依頼したのは「ツボケ」というカゴはおそらく壷や龜のようなかたちをしているから、そう呼ばれるのだろう。それから、この地域では「オボケ」(オモケとも呼称)というカゴもある。これは木綿の糸が無く、麻で自分の衣服をつくった時代、糸となる麻の緒を入れる道具として使われていたカゴである。地域によっては曲物や、木工品で製作したりする。特に岩手県では木でつくる物が多いが、私は「ツボケ」「オボケ」ともニギョウの皮で編んでもらったのだった。「オボケ」については初めてニギョウでつくったため、形がこなれていなくて、いびつだった。ただ、こんな良い物ができることに驚いたのだった。
 編み方は笊(ざる)とまったく同じで、笊編みを利用してつくった物。昔の「オボケ」はニギョウではなく、編みやすいイタヤカエデが素材だったという。ニギョウは硬くて粘りが無く、立ち上げていくと形が崩れてしまう。それに山ブドウ皮と同じで、ヒゴ取りした皮が丸みに戻っていく性質が強いため、かなり引っ張って平たくしてから編まないと、編み目が空いてしまうのだ。編むのは大変だったと想像するが、それでもつくってくれたことに私は喜びながら受け取った。
 ちなみになぜ、私がニギョウに惹かれるのかというと、赤味を帯び、嫌みの無い品の良さ、きれいさがあるから。荒物といわれるカゴの中にも気品があれば、一般には喜ばれる。それゆえに山ブドウの蔓、クルミの皮や、アケビで編んだカゴが重宝されるのだ。イタヤカエデのカゴが重宝されないのは、色が白味なために、使っていているうちにホコリが目立ったり、汚ならしくなってしまうためであろう。


岡本さんに製作依頼したツボケ。
「耳」が付いているのは、ヒモを通して腰に提げるため。
以下、岡本さんの作

昔ながらのかたちをなぞったオボケ

現代にかなうよう転化して技術を残す

 最初に取り組んだ「ツボケ」と「オボケ」は見本のような物で、次は館展に出品すべく、再度発注。2006年に岡本さんのもとへ受け取りに行った。その時に受け取った「オボケ」ははじめに取り組んだ物より、はるかに上手に出来上がっていた。それが可能なのは、やはり岡本さんに才覚があるということなのだろう。それはまた、仕事に対して前向きな姿勢が形にも出てきているともいえる。
 ニギョウという素材を箕から引き出して新たな製作にもっていくことで、これからもおもしろい物ができてくるのではないかと思う。
 たとえば、これらのカゴには持ち手を付けたいと考えた。ところが、ニギョウは硬い素材なので、付けた手がすぐに折れてしまう。そのため、これらに手を付けて買い物カゴに転用するためには、山ブドウの木の皮を付けてもらうしかないかなと考えている。ただし、岡本さんには異なる素材の手を付ける技術が無いため、他のつくり手を探そうかと思案しているところだ。
 ともかく、ひとつの素材を用いて、現代の暮らしにかなう、他の用途に転用できる物をつくれたことに私は悦びを得た。たとえば、「オボケ」にしても、現代では麻の糸を入れる用途は無いが、さまざまな物入れにしてもいいし、高さ寸法を変えることで、その他の容器にもなる。
 また私は箕のミニチュアも製作依頼した。普通、ミニチュアにすると、安っぽい土産物風になりがちだが、これは材質がおもしろい。縦にマタタビを入れ、桜の皮を菱形に入れるときれいな模様になる。食器として使ってもいいし、壁に掛けておいてもいい。嫌みの無い物として使える。こういう物に転化していけば技術は残る。いつでも実用的な箕をつくる技術を残しておけば、他への活用の道があると思うのだ。 そういう意味では、今回の館展の受賞は新たな方向が勝ち取れたと、非常に嬉しく感じている。

(語り手/久野恵一、聞き手/久野康宏、撮影/久野恵一、大橋正芳、久野康宏)


2006年新作の腰カゴ。岩手では「腰提げ」とも呼ぶ。

新作の「オボケ」。最初の「オボケ」よりもはるかに上手につくれている

箕のミニチュア

岩手県では、かつてニギョウの皮でカゴを編んでいた人も少しは存在していた。これは岩泉町二升石(にしょういし)という地域で佐々木幸男さんがつくっていた「クチビク」。川魚を獲る時に用いていた道具。ふっくらとした良い形。型で編む物ではないから上手さが如実にわかる

岡本さんによる新作の箕。鎌倉「もやい工藝」に展示中

同じく新作の箕。岡本さんの工房に(撮影/大橋正芳)
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