手仕事調査Kuno×Kunoの手仕事良品

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#023 [ネズコの曲げ物]福島県檜枝岐 2007.12.30

この桶は「オボケ」という。
麻糸をつくる時に、糸の素材を叩いて緒にしたものを入れるための桶で蓋が付く。
蓋には細々とした道具を入れられる

谷あいの集落を訪ねる

 福島県の奥会津、檜枝岐(ひのえまた)には33年前、車の免許を取得して間もない頃、初めて訪れた。それ以前にも民藝関係の書物で檜枝岐という地名を目にしていたし、学生時代に宮本常一先生の研究会に参加していた頃にも、いろいろとおもしろい習俗がある地域だとは聞いていた。訪ねて、まず目に留まったのは、伊南川の両側の谷あい、峻険な山の中に集落が連なっている風景だった。尾瀬へとつながる街道がその谷に沿って走っていた。
 当時から檜枝岐では観光が始まっていて、尾瀬に向かう登山客が泊まっていくための民宿も多数あった。小さなお土産屋もあって、そこに飾られている物に私は驚いた。今、見ても良い物だったと思うが、独特の形をした簑や肩に掛けるカゴを見かけた。そのカゴも山ぶどうやアケビではなく、イワシバという草で編んだ目の粗い袋など、ほとんどの素材が草なのだ。他にも、ソバのコネ鉢、杓子、飯ベラ、曲げ物といった、さまざまな物がある所だった。まだ、大きな共同販売所も無かったので、そういった物を一つ一つ見ていって、どういう人がつくっているのかと、そこにいる人や近くの役場で聞きながら訪ねて行ったのだ。
 私が真っ先に興味を覚えたのは、曲げワッパだった。曲げ物の産地といえば、木曽や福岡市馬出(まえだし)、秋田県大館(おおだて)が思い浮かぶ。しかし、この地にも曲げワッパをつくる人が多いというので、その中でいちばん上手につくる人は誰だと聞いたら、何人かの名が挙がった。この地域に暮らす人の名字のほとんどが星さんか平野さんだった。そのため特定の人を指す場合、名前で呼んでいた。名前をメモしてから、その人たちがつくる物を扱う売店で手に取って実際に確かめると、自分が良いなと思ったものが、すべて星寛(ゆたか)さんのつくった曲げ物だった。そういうわけで、檜枝岐集落の入り口にある寛さんのもとを訪ねたのだった。


私の家で愛用している若水桶

星寛さんに会う

 家の裏にある工房に寛さんはいた。現在は80歳近い方だが、当時は40歳台後半とまだ若く、よく売れるという弁当箱を勢力的につくられていた。寛さんは漆を塗ることはできず、製品は全部、白木の物だった。その白木はネズコという、伐ると鼠がかった色をしたヒノキ科の木で、柾目の部分(丸太の中心から半径の線に沿って木取りをするため、年輪が直線にあらわれ、縞模様のようになるのが特徴)を薄く削いで、蒸気に当てたり、木枠の型にはめたりしながら曲げる。そしてその曲げた材を留めるのに用いるのはプラスチックでも、ビニール、針金でもなく、桜の皮(樺とも呼ぶ)だ。寛さんは、その皮の結びつけかた(あしらいかた)に造形的な美しさを持たせる感覚を備えたつくり手である。材料もきれいな物を揃えているし、材質は厚め。材質が厚い理由を質問すると、本来、曲げ物のつくり手はみんな厚くつくりたいと考えているが、厚くすると曲げ物の特性で折れてしまう。しかし、自分はかなり以前から材料を寝かして、十分に乾燥させてから作業をしているから、厚いまま曲げられるのだという。材質のヒノキも慎重に選んでいるということだった。また、彼はとても人柄が良く、会っていても楽しくて、言葉も荒くなく、静かで率直な話しかたをする人だった。

若水桶に驚く

 檜枝岐には、寛さんを含めて5〜6人の曲げ物のつくり手がいた。かつてこの地域の特徴的な物として、片口のような口が付いた大きな桶があった。それはもうつくれないとのことだったが、「若水桶」と呼ばれる桶はつくっていた。これは手が付き、柄杓の付属する桶。手の取り付け口に桜の皮を巻いている。この桶に正月の2日、川のきれいな湧き水を汲んでお茶をたてるのだとか。そういう習俗があり、この地方ではどの家でもやるそうなのだ。
 この桶をつくる仕事は、木曽から伝わってきたという言い伝えもある。ただ、曲げ物そのものは日本で発生したものではなく、中国や朝鮮半島から技術が伝わり、日本の職人がまず貴族たちのための暮らしの道具を手がけ、そこから広がって、様々な民衆の道具をつくってきたという経緯がある。その技術が地方にも伝播して、地方でもつくられるようになったのだろう。ただし、いつ頃に誰が持ち込んだ技術なのかはわからないが・・・。
 檜枝岐からは、尾瀬を越して栃木県にも群馬県にも、長野県、新潟県にも行ける。ということは、ここは外にずいぶんとルートが向いている地域ということを意味する。それからここは会津弁ではない独特の言葉がある。そういう言葉はいろんな地方の人たちが入り交じってつくられたものではないかと思うし、そういうことを考えると、この地域は昔、山の民の交流の地であり、やがて定着定住していった地域ではないかと推察できるのだ。


小判型の弁当箱。
ネズコの年輪のうち赤い部分「赤太(あかた=心材)」と
まわりの白い部分「白太( しらた=辺材)」 が
偶然組合わさったのだが、その色の違いがおもしろい

山の民の習俗が残る出小屋

 それに、檜枝岐には、つくり手一人が住まいから離れた場所に小屋がけして、こもって作業する「出小屋(でごや)」というものが存在することも興味深い。檜枝岐は山間部のため農地が皆無で、しかもかなり海抜の高い山の閉じられた地域ゆえ、この地域のほとんどの人は手仕事をして、そのつくった物と山間で採れる物とを物々交換して食べていくしかないという歴史があった。だから、出小屋というのは山の民の習俗がそのまま残ったものではないかと思う。
 寛さんに聞くと、彼も若い頃は出小屋を持って、人から教わって一人前になると小屋を持って、そこで仕事をして、製品がたまってくると家に持ち帰り、販売をしていた。寛さんは祖父より以前から曲げ物をつくっていたと聞いている。

メッツをつくれる唯一の人

 手仕事の物には、上手い下手がある。寛さんはきわめて上手な人だった。私が彼のつくるものでとくに魅力的に見えたのは若水桶だった。また小判型や三角型の現地では「メッツ」と呼ぶ弁当箱も欲しいと思った。メッツは「めんつう」の地方なまりではないか、メンパと同じ意味であり、日本各地では曲げ物の弁当箱をメンパと呼んでいる。聞く所によると、中国では曲げ物を面桶(めんつう)と呼称しているようだ。三角のかたちにするには円形にするより、さらに難しい。三隅を曲げないといけないから、それなりの技術を持っていないとできない。当時、メッツをつくれるのは、星さんの他、一人しかいないということだったが、そのうちその方も亡くなったので、今つくれるのは寛さんのみである。
 10〜15年前から、こういった手仕事の物はあまり販売が思わしくなくなってきた。大きさの割に手間がかかり過ぎる物ゆえ、値段が高めであまり売れず、割にも合わないということで、他の曲げ物のつくり手は仕事を辞め、結局、つくり手は寛さん一人になってしまった。

(語り手/久野恵一、聞き手・撮影/久野康宏)


三角型の弁当箱「メッツ」。おにぎりを入れるのに、ちょうどいいかたちだ

私がオーダーした3合用のお櫃。実際には4合以上のご飯が入る。
昔はご飯にネギなどを混ぜていたので、大きめにつくっているのだろう。ヒノキ科の中でもネズコは芳香がさりげなく、ご飯にヒノキ特有の匂いが移りにくいのも良い
※手仕事フォーラムのブログ、12月17日、18日、21日の記事も参照にしていただければ、檜枝岐の習俗についてより詳しく理解できると思います。
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