手仕事調査Kuno×Kunoの手仕事良品

Kuno×Kunoの手仕事良品

#024 [木村三郎さんの焼き物]栃木県益子町 2008.01.28
日本各地にはまったく注目もされない、知られざる多くのつくり手がいて、その中に素晴らしい造形力と技術力をもった希有なつくり手がいる。彼らはことさら自分を売りこもうとせずに、ただ注文を受けて黙々と誠実な仕事をしている。注文に対して忠実につくっているために、その注文が人の目を惹くものでなければ、埋もれたまま、やがて仕事を終えてしまう人たち。そのうちの一人が今回紹介する木村三郎さんである。

若い頃に濱田庄司さん(中央)を訪ねた私(左端)

益子を初訪問

 30数年前、私がこの民藝の仕事に入った頃、益子焼は東京を含めた関東近郊や大都会ではよく見かけたし、当時数多くある民芸品店の店頭で置かれていたため、今さら扱う意味はないと考え、最初から避けていた。益子には濱田庄司という偉大な陶芸家、民藝運動の創始者の一人であることは熟知していたし、訪ねてみたいなと思いつつも、あえて足を運ぶ気にはならなかった。また、当時は益子に行くにも交通の便が悪く、道路の状態も良くなかったので、一日がかりで出かけるか、現地で泊まった方が良いくらいの場所であり、遠方には前向きでも、どうも近場の中途な地域には気が進まなかった。 そんな私が初めて益子を訪れたのは昭和47(1972)年のことだ。広い窯場だったので、どこを訪ねてよいのかわからないまま帰ってきてしまった。その後、昭和51(1976)年に九州のある窯元が益子に行きたいというので、車を出し一緒に訪ねた覚えがある。その時に初めて濱田庄司さんのお宅にうかがった。「益子参考館」(濱田庄司が自ら参考とした品々を、広く一般の人々にも「参考」にしてほしいとの意図によって、開設された美術館)が完成する直前で、濱田さんが参考館に展示する物を準備されていた。濱田さんは私たちを歓迎し、いろいろな物を見せていただいた。その時に「スリップウエア」という英国の陶器を初めて目にして、その物の良さも教わった(このことは話が長くなるので割愛するが、改めてお話したい)。だが、そんな濱田さんとの思い出があったのを最後に、益子とはずっと縁が無かったのである。


左は横川駅で販売している駅弁の釜飯容器。機械生産による物。
右は私が依頼して手づくりで製作してもらった物。
いずれも、つかもと製陶所が手がけている

調査のため再訪

 平成になり、民藝協会の仕事で私は先日亡くなられた四本貴資専務理事から命ぜられ、「手仕事日本」の調査を始めた。この時、益子には窯場も多数あるので、もうひとつ踏みこんで、益子焼に見るべきものが無いだろうかという話になった。益子焼で出てくる物といえば、民藝の枠内では濱田庄司さん風の雑器類、あるいは島岡達三さん(濱田庄司さんを師とし、益子に築窯した陶芸家)的な物が中心だった。 一般に知られた益子焼といえば、横川駅の駅弁(峠の釜飯)に用いられた入れ物や、関東一円の農家を含めた民家でよく使われていた蓋付きの味噌甕(かめ)があった。これは飴釉(あめぐすり)に白の釉薬をぽっと掛けたような粗末な物で、頻繁につくられていた。他にも有名な物としては「山水土瓶」が挙げられる。今は陶器の百花争乱、さまざまな陶器づくりが氾濫して、益子の代表的な焼き物の現状を見に行くことはむなしさを感じながらでもあった。 しかし、今さらそういった焼き物を手仕事でつくることはなくて、ほとんどが型に入れてつくっていて、さして目新しい物は無かった。その調査で印象に残ったのは、釜飯入れとなる容器を「つかもと製陶所」(益子中心部から2kmほど山間部に入る。4万坪の広大な敷地に130年余りの伝統を誇る益子焼工場)に頼んでつくってもらったということくらいだ。その際、社長に「今さら、なんでこんな物を手仕事でつくるの?」と言われたことを覚えている。私は事情を話した。単調な灰を基にした並白釉に黒をかぶせた染め分けの「皮鯨(かわくじら)」という釉薬、「芦沼釉」とも呼ぶ黒釉、この黒釉と木灰の合わせでつくられる「柿釉」が益子の代表的な釉薬と聞いていたので、それらを用いて何かできないかと考え、いこみで成型する駅弁用の寸法よりさらに大きくした釜飯入れの焼き物を製作依頼したのだった。

メッセでの衝撃的な出合い

 ちょうどその頃、益子の城跡に益子焼を収蔵庫する歴史資料館的な町営施設「陶芸メッセ」ができた。メッセを訪ねると、玄関から入って階段を上がると中に渡り廊下があって、そこには、籾殻(もみがら)を焼いた灰から作り、焼くと白色になる「藁白釉」(ぬかじろゆう)、糠白釉に銅を加えて作り、焼くと、深みのある美しい青色になる「青地釉」(せいじゆう)、飴釉、鉄分を多く含み、焼くと黒色になる「本黒釉」(ほんぐろゆう)、芦沼石(あしぬまいし)の粉末だけを原料として、焼くと落ち着いた渋い茶色になる「柿釉」(かきゆう)、大谷津砂(おおやつさ)や石灰が主成分で、焼くと透明になる「並白釉」(なみじろゆう)。以上、益子伝来の6種類の釉薬が掛けられた益子焼の甕が並んでいた。
 それらの甕は窯の状態が昔の登り窯ではなく、ガス窯で焼いた物であると見てとれた。同時に、機械製品ではないとも感じた。均一に出来上がっているから、同行した人は「型でつくった物だ」と言っていたが、私の目には型でつくらえた物には見えなかった。今時、こんな物をつくれる人がいるのかと驚き、「触れないように」と書かれていたけれど、思わず蓋を取って持ってみたら非常に軽く、しっかりしたつくりで、機械でつくったかのような寸分の狂いも無い手仕事の製品だった。これだけの仕事ができる人が益子にいることがわかったので、益子の著名な陶芸家に確認してみた。だが、「そんな良いつくり手は益子では聞いたことがない」と言う。
 その後、ひょんなことで益子の陶芸家、粕谷完二(かすやかんじ)さんと知り合うことができて、粕谷さんに益子でロクロ技術が上手な人を尋ねてみると、では、あちこち聞いてみようと調べてくれた。


私と木村三郎さんを引き合わせてくれることになった、陶芸メッセに展示されていた甕を再現してもらった

木村さんの窯の隣にある昔の窯場。
大谷石の基礎が風情をかもしだしている

木村三郎さんに会いに行く

 益子には数多くの窯元たちが出資して共同で経営する「共販センター」という施設がある。そこの理事をしている木村三郎さんというつくり手がとてもロクロ技術に長けていて、共販センターに依頼された、手仕事でしかつくれない無理な注文は彼がほとんど引き受けているということだった。
 それで粕谷さんと一緒に木村さんを訪ねてみることにしたのだ。その際に益子の各地を車で回ってみたのだが、益子は懐の深い所で、丘陵地帯が連なり、その奥まった一の谷という地域に木村さんの窯があった。その隣には今は使っていない大谷石で基礎を組まれた、昔の窯場があり、とても雰囲気のある、いかにも益子の里に来たなと旅情を誘う場所だった。

現代の山水土瓶

 木村さんの窯に入り、どんな物をつくっているのか見てみたら、変わったかたちの花瓶や急須などが目に入った。それらは日用品も普段私たちが見慣れている、自分たちが使いたい物や使おうと心がける物ではなくて、奇抜な物だった。「これは木村さんがつくったのですか?」と質問すると、「全部、自分が手でつくった」と答える。私は驚いた。そういう物はいこみの型などでつくる物だと思っていたので全部、手でつくるというのだから・・・。
 共販センターには益子地域の数多くの窯元、つくり手が出品販売している。年間100万人単位のお客さんが訪ねてくるのだが、お客さんの中には花器や土瓶、あるいは壁に飾る物など、日用品から観賞用の物まで無理な注文をする人がずいぶんいるそうなのだ。そういった物は機械(型)ではなく、ロクロでしかつくれない物だと、その多くが木村さんのところへ注文が持ち込まれてくるのだという。それほど木村さんは何でもつくれる技術屋さんだということはその場でわかった。
 ただ、私が欲しい物は見あたらなかったが、製品群の中に益子伝統の山水土瓶を見出した。これは戦前から益子を代表する物として有名な物だ。皆川マスさんという人が何万もの土瓶の絵付けをしたので、「おマスさんの土瓶」とも形容されていた。柳宗悦さんや濱田庄司さんは繰り返し同じ絵付けをする無名の職人、マスさんを卓越したつくり手として評価していた。 そのとっくに昔に亡くなったマスさんの山水土瓶に近い物が木村さんの窯に置かれていたのだ。聞くと、マスさんのお孫さんが健在で、おばあさんのマスさんのつくった物を見よう見まねで山水土瓶の絵付けをしているのだそうだ。そして、絵付けされる土瓶をつくっていたのが木村さんだったのだ。私は偶然、その残り物の土瓶を見つけることができたのである。
 確かに、今の土瓶は皆川マスさんが描いていた頃の土瓶とは土味が少し違う。化粧土が異なるし、釉薬が全体に違う。またガス窯で焼くから、ちょっと艶光りしていて絵に力が無い。まったく同じようにつくってはいるけれど、やや今の物の方が惹かれないものがある。しかしながらよく見ると、土瓶のかたちが昔の土瓶よりもはるかに良いのだ。それで、この土瓶のかたちをつくった木村さんの技術が優れたものであると気がついたのだった。 すぐに手に取って見せてもらったら、軽すぎるくらい軽いのだ。本当にこれは手で削りだしてつくった物かと不思議に思った。木村さんは「全部、手でひいたものだ」と言うので、「だったら急須はつくれますか」と聞くと、「いつもつくっています」と木村さん。では、どんな物をつくっているのかと見せてもらったら、コバルトの釉薬を掛けてみたりとか、変わった注ぎ口だったりと、何か私たちが違和感を覚える物だった。自分がお願いしたいのは、ごく当たり前に使える、当たり前の急須なのだと話すと、「ああ、そんな物はお手の物だよ。そのうちつくってあげるよ」と木村さん。
 私自身の思いとしては、益子で新しいつくり手に出会えたことと、優れた技術者と密接に関われたことが嬉しかった。そのため、この人と何か新しい益子の物を展開できるのではないかと淡い希望を持った。こんなふうに木村さんとの付き合いが始まったのだった。


昭和はじめの物と思われる皆川マスさんが絵付けした山水土瓶。
久野恵一さんから譲られ、フォーラムメンバーの北川さんが所有している
(撮影/北川周)

木村さんがロクロでつくった土瓶に、皆川マスさんのお孫さんが絵付けをしている山水土瓶。白化粧の地に山や水辺が青地釉などでさらりと描かれている。濱田庄司はこの土瓶を民藝の精神にかなう“健康の美”と称えた

柿釉の皿を再現

 木村さんと話していると、仕事に対しては厳しさがあるけれど、人間的な優しさを感じた。俗に言う、人柄の良い職人に出会ったなという印象を受けた。何か暖かみを感じる人で、男としての魅力もとてもある人なのだ。この人ならばきっと良い仕事をしてくれるなと信頼して、私は注文を出した。
 まずは、いきなり急須よりも何が良いかなということで、最初に皿を頼むことにした。昔の益子では「柿赤」とも呼ばれる、柿の赤のようなきれいな発色をした鉄の釉薬、柿釉を用いた焼き物が流行っていたのだが、この頃は廃れてしまっていた。この柿釉を再現したかったので、柿釉を掛けた皿をつくってもらったのだ。ただ、柿釉だけでは少し物足りないので、縁をロウで抜いて、縁抜きの柿釉で焼いてもらったりした。それを寸法違いで、6寸、7寸、8寸、9寸5分の皿を注文したのだ。
 それらが出来上がったと連絡があったので、受け取りに向かった。益子では薪が非常に高価ゆえに登り窯で日用雑器をつくることは最近ではしていない。一窯焚いたら、大変な金額になってしまうからだ。燃焼効率の良い物しか炊けない。作家ならば、それができるけれど、日用品をつくる窯ではもはや不可能なのだ。それゆえに窯出しだから立ち会って品物を受け取りに行くというのではなく、出来上がったら、取り置きしておいてもらい、見に行くことしかできないのだ。


柔和な表情のなかに、どこか人間的な懐の深さを感じさせる木村三郎さん

柿釉を掛け、縁をロウで抜いた皿(かつて濱田庄司が日用雑器に多用していた技法でもある)

今は日用品を焼くのに使われることの無い登り窯

これからガス窯で焼かれようとしているところ

つくりの上手さに舌を巻く

 出来上がった皿を確かめると、つくりの上手さに驚いた。私たちが皿の出来を見る時は、まず手取りをチェックする。非常に軽くできていた。次に縁の持ち手、縁がどういうふうに仕上げているかを見る。指定しなくても、きちんと縁の返し部分がしっかりと厚くなっていた。さらに全体に均一にひけているか、高台がきれいに削れているかも確認。

 皿のかたちは高台裏から腰へ、縁までの面をなぞって削れば、いくらでも肉厚を落とせるが、それは手間がかかって仕方がないから、なるべく削らないで均一な物ができる方がいい。木村さんの皿はそういうつくりだった。高台の裏の取り方にしても非常にバランスが良い。これは並のつくりではないなと認識した。それほど良い皿なのに、値段も安かった。

 木村さんは「こんな物、うちのように手仕事でつくる窯より、型づくりをする窯に注文した方がよっぽど安いよ」と言う。ということは、彼は型と同じくらい均一につくれるから、そういうことを言えるのだ。私は余計に驚いてしまったのだ。


やはり益子のスタンダードな釉薬「芦沼釉」を掛けた深皿と平皿も注文。
「芦沼釉」は益子の芦沼という所で採れる石を細かく砕いてつくる黒い釉薬。
出雲の出西窯をはじめ、各地の窯元でこの芦沼釉を使用している(出西窯の黒い焼き物は人気が高い)

こんな小さな急須もロクロでたやすくつくれてしまう

魔法の手

 続いて、芦沼釉を掛けた黒い急須を注文したのだが、ちょうど製作途中に遭遇してそばで眺めてたら、つくりの速さに目を見張った。まるで魔法の手と言いたいくらいに仕事ぶりが速かった。
 蓋のつまみのつくりかたも素晴らしかった。中指とひとさし指をはさみこんで絞り上げると蓋ができるという非常に優れた技術なのだ。これはこの人をこのままにしておくのはもったいない。製陶に携わる各地方のつくり手、とくにこれからの若い世代の人に伝えたいなと思い、それがこれからの私の役割かなと感じた。
 人知れず、注文された物をその通り素直につくれるこんなに優れた技術者がいるということを伝え、しかもつくり方を後世に継いでいくということは私たちの大事な役割だなと思ったのだ。
 急須、土瓶、ポットなどを陶磁器の世界では「袋物」と呼び、この袋物が上手につくれるかどうかで職人の技量がわかってしまうが、木村さんはそれが非常に上手な人だった。それで、その後、私は木村さんに急須や土瓶をつくってもらうようにした。袋物は注ぎ口、耳、蓋、蓋のつまみ、ハンドルを付けると手間がかかるため、ちょっと値段が高いのが常なのだが、木村さんに言わく「手や耳を付けるなど当たり前のことだから、なぜ値段が何倍にもなるのか、さっぱり自分にはわからない。それよりももっと練習して速くつくれるようになった方が良いのではないか」。かといって、自分を技術力の高い人だとは決して言わないし、黙々と受けた注文はこなす。そんな一本気の職人の生き方というものを私は非常に尊敬しているのだ。


小さな豆急須でも、上の醤油差しでも、水きれに優れる

乾燥中の急須

「芦沼釉」を掛けた急須。柚肌といって表面がポツポツとした雰囲気が黒と合うので、そう指定すると、焼成温度も含めて調整して、木村さんはつくってくれる

芦沼釉のティーポット(左)と、下が柿釉で、上がロウ抜きの染め分けティーポット

お手本を見せる

 木村さんくらい高齢なつくり手になると、どこの生産地もそうなのだが、組合の役員をやらざるをえなくなる。役員になると1年に1回や2回、他の生産現場を回る視察旅行をおこなうのが常だ。木村さんも日本各地の窯場をずいぶん歩き回ったと言う。そこで、優れたつくり手に出会ったことがあるかと尋ねると、「あまり記憶が無い」と木村さん。ある窯を見学した時、窯元が一生懸命つくっているのだけれど、少し技術が未熟なので呆れて見ていたら、その窯元が木村さんの顔を見て、自分のことを卑下していると思い怒ったそうだ。「そんな顔で見るんだったら、おまえがつくってみろ」と。益子の他の窯元の人たちが「木村さん、お手本を見せてあげなよ」とけしかける。「お手本だと〜!」と現地の窯元。しかし、木村さんはその場でいとも簡単に難しいコーヒーポットをつくってしまった。そこの窯元が懸命に取り組んでもなかなかできない物を、益子の土ではなくて、よその土を使って、その場でつくってしまったのだ。すると現地の窯元がいきなり「1ヶ月間、ここで働いていってくれませんか」と頼んできたのだそうだ。それくらい優れた技術力を持った人ということなのだ。


急須の蓋を魔法の手で形づくる木村さん(撮影/小林こりん)

きちんと見ることの大切さ

 こういう優れたつくり手が日本にはまだまだいたと思うし、またどこかにいると思う。ただその人を発掘できないというだけのことであって、発掘に至るのは偶然もあるけれど、見過ごすのではなくて何が出来上がっているのか、きちんと見ていく、ひとつひとつ点検していくよう、私たちの目を肥やしていかなくてはいけないと思うのだ。各自が持っている目の訓練度がつくり手の人たちの力を見出すものと私は確信している。
 人の噂や情報を聞くだけではなくて、本当に良い物とは何なのかをきちんと伝えてくれる人の意見を聞きながら、その人に信頼感をもって接し、薦める物を素直に一生懸命に見て、研ぎ澄まされた目を養っていけば、おのずと良い物が自分の目で見えてくるものだと思う。それがなければ、なかなか目を養うということは難しいと思う。

(語り手/久野恵一、聞き手/久野康宏)


スポイトの中に顔料を入れ、それで模様を描く「イッチン描き」を披露する木村さん

10年ほど前、伊勢にある商家づくりの古い瀬戸物屋をひやかし半分で覗いたら、昔ながらの徳利を見つけた。美濃多治見の駄知(だち)という地域で大正末期から昭和初期につくられたと思われる徳利。形が細長なのは、窯の中に多く詰められるようにするためだ。同時に燗酒に便利だからでもあるのだろう。この鉄釉を染め分けした徳利を今の形にアレンジして木村さんにつくってもらおうと検討している。これは3合のお酒が入るが、それほどの量を今、飲むことは少ないし、注ぎ口も片口に移すことを前提にしているから小さい。全体をコンパクトに、そして注ぎやすいかたちを思案しているところなのだ
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