手仕事調査Kuno×Kunoの手仕事良品

Kuno×Kunoの手仕事良品

#026 [粕谷完二さんの糠白釉]栃木県益子町 2008.03.27

粕谷完二さん。出身は山形県。もともとサラリーマンとして東京で車販売のセールスの仕事をしていたが、体を壊し、年齢をとってから益子で陶工の道へと進んだ

繰り返し選外の物を出品

 私が日本民藝館展(以下、館展)の運営委員として関わって20年になる。この館展には、入選、準入選、選外という結果に対して、どこが良かったのか、どうして落選したのかなど、審査員が出品者に対して講評をする部門別(陶磁、織り、染め、木漆工その他)懇談会があって、私はこの懇談会の司会、進行係を担当してきた。
 たとえば焼き物の審査員には、釉薬や技術的なことなどを出品者(ほとんどが制作者自身)が尋ねて、今後の制作に対して改善を考えさせてくれるアドバイスを受けるのである。自分のつくった物の、いわば健康度をチェックする機会にもなっているわけだ。 私は司会者の役割として、出席している出品者各自に出品した物のうち、その結果について尋ねたいことを、それを審査員の先生方とのコミュニケーションの場をまとめていく役割をする。 12年ほど前、栃木県益子町の陶工、粕谷完二さんは懇談会に必ず出席する出品者の一人だった。しかし、彼の出品する者はすべて選外だった。選外というのは、「これはつくらない方がいい、世に出さない方がいい、もう一度考え直しなさい」という評価である。その選外にしかならない者を毎回出品してくるのが粕谷さんだった。彼は3年連続で館展に出品していたのだが、その3度目の時、「去年もこの人来ていたなあ」と気に留まった。その作品も前回と同じような物だったからだ。理由を尋ねると、「これが自分の制作していきたい物で、こういう仕事の方向しかとれないのだ」と答えた。 審査員の方々は「焼きの調子が悪い」、「かたちの取り方が悪い」、あるいは「釉薬が騒々しいから、もっとまとめたらどうか?」など、再度、館展に出品するのならば仕事そのものを考え直した方が良いと柔らかくアドバイスをする。すると粕谷さんは突っ込んで質問する「どうしたらこれが直るのでしょうか?」と。審査委員は困ってしまった。なぜなら彼のつくる物は「どうしたらいいか?」に値しないレベルの物だったからだ。粕谷さんは翌年も出品してきたのだが、それもまた同じような焼き物だった。
 ならば、審査員の方々に質問することも去年と同じなのだろうと尋ねると、「去年はどんなことを言われたか忘れた」と言う。そこで、私は「注意を受けたら、きちんと聞いて、窯に戻ってから、注意事項を十分に認識して制作していく態度をとらないと館展に出していく意義が無い」と諭した。
 館展では、誰もが平穏に暮らしの中に取り入れられる物を選んでいて、こういう物は取り上げたくないと言われたら、もう一度考えるべきだと。あなたが考え直さず、毎年同じようなことを繰り返すのならば、もう出さない方がいいとまで彼にきつく言ったのだった。さらに、彼の質問したいことを聞いて、あなたは他の公募展に出品した方が良いと伝えた。


益子にある粕谷さんの窯。周囲には心和む里山の自然が残っている

訓練度が足りない仕事

 私は粕谷さんに対してはきつい口調で突き放したものの、「もし聞く耳を持てば、多くの人が使ってみたいと思うような物をつくれるようにアドバイスはできます」とも言葉を添えた。それを聞き入れてくれるのならば、窯を訪ねますと。粕谷さんは「ぜひお願いします」と言う。益子については前々回(第24話、木村三郎さんの焼き物)も触れたが、それまでは縁が無く、また縁を持つ気持ちも無かったような所だった。しかし、粕谷さんにアドバイスをしに行くという目的ができたため、益子の窯を訪ねてみることにしたのだった。 彼の制作した物を見せてもらうと、愕然とするような物だった。第一に、ロクロの仕事が良くなかった。年配者のわりには仕事ができていない。仕事に対する心構えが欠けていた。顔つきや仕事に向き合う姿勢から、つくり手の資質がわかるもの。粕谷さんからは、遊び的な仕事にしか見受けられなかったのだ。正直、彼にアドバイスしていくのは、大変だと思った。
 粕谷さんは「館展の審査員に言われたことは、自分なりに受け止めてはいるが、どうやったら、みんなに認められ、喜んでくれるものができるのかがわからない」と言う。
 「それでは、あなたは私に騙されたと思って、しばらく私の言う通りにつくってみますか?」と投げかけた。彼は「つくりたい」と。「ならば、ただ注文書を渡して、この通りにやってくださいというわけにはいかない。ロクロ台に座ってもらって、技術的なことから訓練していかなくてはいけない」と伝えた。
 なぜかというと、彼のつくる湯飲み茶碗やご飯茶碗には、根本的につくり手として欠けている部分がたくさん見受けられたからだ。製品をかたちづくっていく造形力が弱い感じがした。
 それに、縁(ふち)のつくり方が非常に甘い。これは職人としての訓練が全然足りないことを意味する。 また、高台の取り方もバラバラだ。さらに何か奇をてらったようなことをやっている。釉薬にしても暗く寂しい感じがする。これらのことを変えていかないといけないなと考えた。
 とにかく釉薬や造形的なことはさておき、「基本となる物を目の前でつくってくれないだろうか」とお願いした。すると、粕谷さんは非常に嫌がった。人に見せるようなレベルでは無いと。それでは、彼の仕事のどこが悪いかがわからない。実際につくるところを見せてくれと再度頼んだ。しかし、その時はそのまま帰ったのだった。


粕谷さんに渡した指示書。
どのように仕上げるべきか、事細かに記入してある

ロクロの特訓

 粕谷さんにアドバイスしていくことは、益子と縁をつくる絶好の機会だとも思った。それに、伝統の立場も無い一個人が取り組んでいくひとつの方向のつくり手を育てていくことに意義を感じてもいたので、しばらくしてから訪問することになった。
 そうして彼がつくるところを初めて目にした。ロクロの作業はモタモタとしていて、呆れてしまった。そこで、彼は年齢が私より10歳以上も上なのに、かなり厳しく応対したのだ。
 ロクロ台に座って、たとえばご飯茶碗や湯飲み茶碗をつくるにしても引き上がりから立ち上がりまで、とても細かく指摘した。造形の膨らませ方は、私が前に座って、彼の姿勢を見ながら少しずつ直していった。しかし、高齢ということもあり、また訓練が足りないため、すぐに粕谷さんは疲れてしまう。そこを我慢して、とにかく湯飲みのかたちを良くすることと、縁のつくり方まではマスターしなくてはいけないと叱咤激励したのだった。 縁をきれいにつくるためには、中指だけでなく、親指をうまく使わないといけない。優れたつくり手は親指の使い方に長けているものなのだ。しかし、良いつくり手は親指をどう使うかということを意識していない。体で覚えているのだ。
 粕谷さんは親指を使えていなかった。「親指が余っていますよ。親指を当てて」と重ねて注意した。それを繰り返していくうちに、徐々にかたちがつくれるようになっていった。
 ロクロ引きの段階では土は生乾きで、次の作業として表面を削ってから焼かないといけないのだが、どう削ったら良いのかは図面を描いて渡した。そして、ロクロ引きについては繰り返し何度も練習するようにと課題を与えておいた。

独自の糠釉

 その次に再訪した時に、焼き上がった物を見ると、まだかたちが整っていなかった。そこで、今度は高台の取り方、削り方をアドバイス。ロクロ引きに際しても指跡を残さず、きれいにつくるようにとも伝えた。
 そうこうしているうちに、かたちはできてきた。だが、焼き物というものは、一般の人はかたちそのものよりも、釉薬がきれいかどうかを見てしまう。そこで、粕谷さんの使っている釉薬で選べるものはあるかどうかを調べたのだ。すると、少し前に彼がつくった物の中に、白くきれいな釉薬があった。それは藁(わら)の釉薬だった。しかし、藁にしては少し色が強いなと感じたので問うと、「これは糠(ぬか)釉だ」と言う。籾殻(もみがら)を焼いて釉薬にすると、白っぽい色になる。ただ、これだけだと硬い色になるのだが、彼は藁の灰を混ぜてみるなどしてきれいな白になるように、いろいろと工夫していたのだ。
 私は「これはとても良い。この白だけであなたは勝負できる」と褒めた。彼は「今までこんなのが良いとは思わなかった」と驚いた。「いや、これはとても良いものだから、他の焼き物にも全製品に掛けてもいいから、やってみたらどうですか?」と私は答えた。


粕谷さんのつくる器たち。厚みのあるかたちは頑丈で健やかさを感じさせる

左はロクロでの成形をアドバイスして出来上がったかたち。
この小鉢に糠釉を掛けて焼いた物が右

粕谷さんの窯を見学。器を見入る、手仕事フォーラム・メンバー

見本になる物を思案

 こうして私がアドバイスを授けてから半年近く経過した頃、彼が見本としてつくってきた焼き物の白がとてもきれいにできていた。これは良いと「次の館展にはこの白だけで出品してみませんか」と話した。そして、何をつくれば良いか、見本になる物を考えた。 益子の土に合う物で、なおかつ白釉の見本となる物。となると、丹波立杭焼(たちくいやき)がまず頭に浮かんだ。立杭焼には糠釉を掛けた焼き物がある。だが、丹波の土は鉄分が強くて硬いから非常に強い焼き物。そのため籾殻を混ぜても雪のような白さは出てこない。とはいえ、これは参考にはなるだろうと思った。
 立杭焼には生田和孝(いくたかずたか)という河井寛次郎先生のお弟子さんで、非常にセンス良く、また糠釉を十分にこなす仕事をするつくり手がいた。彼は「鎬(しのぎ)」あるいは「面取(めんとり)」という李朝時代にあった技法を転用して独自なものにした人だった。 生田さんがつくる物は造形的に非常に魅力がある物なので、その仕事を参考にして、益子的な柔らかさに置き換えた物にしたらどうかと考えたのだ。 それから、熊本県の小代焼(しょうだいやき)も参考にしてみようと思った。ここは籾殻を用いた糠釉を基本に用いて、その釉薬の流れ具合に良さを感じさせる窯なのだ。かたちそのものより釉薬の変化に特徴がある。
 また、山陰の湯町焼、秋田の楢岡焼も藁灰系の釉薬を用いている。鉄分の強い土に藁灰を掛けると、青白いナマコ色になる。その色がとても柔らかいのだ。この良いところも取り入れてみたいなと考えた。
 さらに、会津本郷焼では石粉をベースにした、糠釉のような柔らかい白濁色の焼き物をつくっている。
 これらの物を参考にして、厚手で、ぼってりとしているけれども、手の温もりを伝えて柔らかく感じさせる物を粕谷さんの仕事に転用したらどうだろうかと考えたのだ。
 ということで、彼の元へは、それらの窯でつくられたさまざまな物を持参して、ご飯茶碗、汁茶碗、鉢、皿などを制作するよう指示した。
 そして、例の白釉を掛けると、なかなか柔らかい雰囲気の物ができてきたのだ。それをその年の館展に出品すると、見事ほとんどが入選となった。おそらく彼はショックだったと思う。今までは選外ばかりで、もうつくらない方が良いとまで言われたのに、私のアドバイスで出したら、これは素晴らしい物だと言われたのだから。 当時の審査委員には亡くなられた島岡達三先生がいて、彼も「益子の焼き物の中ではずいぶんきれいな白だな」と褒めていた。 果たして、粕谷さんの特徴を糠白(ぬかじろ)として、これ一本でいきましょうと彼の仕事の方向が定まったのだった。


糠白釉を掛けたカップ。益子焼は一般に渋めで地味な色調が特徴だが、これらにはやや青みがかった、まるで雪のように美しい白色をまとう。
「粕谷白釉」は気品のある白が特徴だ

最下段の焼き物は、粕谷さんの新境地を示す物。
地元の芦沼土(黒釉)を掛け合わせた器だ

人間どうしの付き合い

 翌年には毎日新聞社主催で2年に一度催される「日本陶芸展」にも粕谷さんに出品するよう勧めた。この日本陶芸展は部門が3つに分かれ、民藝的な物を出品できる実用陶器部門があり、この部門は一般的に人がふだんに使っていく物でありながら同時に、制作者の個性が出た物が審査基準となる。そして日本陶芸展は入選者がとても少なく、大生産地である益子でさえも、入選者は3部門の中でもわずか数人しか入選者が出ないのだ。粕谷さんには、取り組んでいる白釉を掛けた大中小の組皿の作品を考えてあげ、出品させたところ、この実用陶器部門で見事入選したのである。狭き門の日本陶芸展で入選するということはおのずと益子焼を代表するような陶芸家に認定されてしまう。
 勢いづいたこともあって、彼のもとを訪ねるたびに、新たな物をつくるように依頼していった。その後も館展に出品すると、さらに入選数が増えたのだ。2年後に「日本陶芸展」に出すとまた入選を果たした。彼は結局、現在に至るまで5回連続で入選している。そんなつくり手は日本各地を見ても、ほとんどいない。「粕谷さんの白釉はきれいですね」と、みんなが認める物になっていったのである。
 多くの人に評価され、つくる方向もはっきりと見えてきた粕谷さん。彼は素直に私の話を聞いてくれたし、私も彼に応えようとした。これは人間どうしの付き合いができたから可能だったことだと思う。日本各地にたくさんのつくり手がいるが、どの道をたどれば良いか迷っている時に何かを信じて、何かにすがって、その仕事そのものを素直に受けてやっていくと道は開けるのだと私は信じている。そういう意味では、粕谷さんとの関わりは、ひとつの道筋をつくれたと思っているのだ。

(語り手/久野恵一、聞き手・写真/久野康宏)

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