手仕事調査Kuno×Kunoの手仕事良品

Kuno×Kunoの手仕事良品

#027 [南薩の竹カゴ]鹿児島県日置市 2008.04.24

九州の竹細工に惹かれる

 日本各地にはかつて竹細工の産地があった。本州の産地といえば、根曲がり竹細工をする青森県岩木山麓、スズ竹の岩手県一戸周辺、篠竹細工をする宮城県岩出山、篠竹が主な新潟県佐渡島真野町周辺、ヤマ竹(根曲がり竹)の十日町周辺、長野県戸隠地方や北志賀地方、福島県会津裏磐梯、女竹細工をする千葉県房総半島などが挙げられる。
 これらは生産地といっても町の中に密集して竹細工のつくり手がいるのではなく、地域一帯で職人が点在して、竹の卸問屋がつくられた物を集めて市(いち)や各方面に出荷してきた。
 九州地方には真竹(まだけ)を使った本格的な竹細工の生産地がいくつもあって、とりわけ有名なのが大分県の別府である。しかし、実はかつて竹細工づくりがもっとも盛んで、つくり手が密集していた地域は鹿児島県薩摩半島東シナ海側加世田市周辺だった。近くにある金峰山の山麓沿いにはとくに集中していて、周辺の農家が用いる農具などの実用品づくり専門である。たとえば米あげザルをつくる人、蚕を入れるカゴ、ご飯入れをつくる人など、かなり分業化されていた。

金峰山の山麓風景(撮影/久野恵一)

 だが、よく言われるように、昭和30年には化学工業製品が氾濫してくるようになると、手仕事は衰退していった。一般民衆が当たり前のように使ってきている生活道具はプラスティックにとって変わられた。とくに竹細工は手間がかかる仕事だし、つくり手自身も製品の価格が安いのでやりたがらない。ということで、私がこの仕事に入った昭和40年後半ぐらい(35年前)には、あと10年、20年したら、この日本各地から竹細工の製品をつくる人はいなくなるという話を私の先生方、先輩方からも聞いていた。
 そういう悲観的な状況の中で、私が魅力を強く感じたのは九州の竹細工だった。とりわけこの薩摩半島は、南薩(なんさつ)とも呼ばれ、地名の響きからも惹かれるものがあった。それで、薩摩半島の竹細工を探ってみたいと、車の免許を取って最初の旅の目的地が薩摩半島となったのである。
 たまたま学生時代の友人が鹿児島のデザイン事務所に勤務していたので、彼の下宿を拠点に1週間から10日間の範囲で寝泊まりしては鹿児島市内から1時間の薩摩半島に入って、くまなく車で動き回った。
 薩摩半島は東シナ海に面している西側地域と錦江湾に面している東側地域とがある。後者は崖が迫っていて平野部が少ないために産業は漁業しか無かった。一方、前者はわずかながらも平野が広がっている上、外洋のために漁業も盛んである。
 同時に知覧(ちらん)という武家屋敷で有名な町があり、そこはお茶の産地でもある。お茶があるということは、椎茸も存在し、林業も盛んであった。ということで、山行き、海行き、川行き、田畑行きのための農具、漁具が必要とされる。竹細工は分業化されてはいたが、上手なつくり手で、何でもつくれるという人が各町には一人や二人は必ずいて、薩摩半島の主だった町に専業として店を構えてもいるのだった。
 そういう人たちは使われて壊れた物を修理もしていた。修理してくれる人は鹿児島では敬意をこめて「みつくりどん」と呼ばれる。

17年前には分業で竹細工をつくり、直売している人がいた
(撮影/久野恵一)

宮崎県えびの高原で開かれていた竹細工市(
撮影/久野恵一)

吹上浜の入来でつくられていた孟宗竹製の「タマゴテゴ」と呼ばれたご飯入れカゴ

伊作紙の里で永倉義夫さんに出会う

 薩摩半島の中心部、吹上町から西に3〜4km向かうと、吹上浜という砂丘地帯にぶつかる。海が近いために魚が豊富に町に入ってくる。ここはかつては薩摩半島の中でも中心的な地域で、伊作(いざく)城というお城もあった。江戸時代から和紙づくりの地としても知られ、城跡の周辺では和紙を漉いて「伊作紙(いざくし)」という和紙をつくっていた。染織家の芹沢?介さんは、伊作を訪ねて紙漉の場を型染めのモチーフにもするほど、伊作紙をとても好んでいたという。 私が訪ねた時にはすでに伊作紙が廃絶されていて、紙漉場の跡地に石垣が残っているばかりだった。
 しかし、その石垣がある通り沿いには竹細工の店を発見した。そこでは竹細工を製造して直売していて、そのつくり手が永倉義夫さんであった。伊作の町の中心から少し路地に入った場所に家を借り、仕事場としていた。永倉さんは竹細工ならば何でもつくると言う。幼い時から足がやや不自由だったので、技術を身に付けて生きていけと親から言われ、最初は宮崎県西都(さいと)で竹細工づくりの修行をしたそうだ。
 伊作で暮らす理由は、奥さんの実家が近いことと、周辺は竹細工を生業とする人たちが多かったので、竹細工で身を立てるのなら、この地域が好都合だろうと考えたからとか。
 足が不自由で、竹細工のみで生業としてきたが、他のつくり手たちは竹細工が衰退したこともあって、仕事をどんどん辞めていった。九州人、とくに薩摩の人たちの気質は食べられなくなったらすぐに辞めてしまう。はっきり言って仕事に粘りが無いのだ。実際、私が訪ねた時にはすでに、伊作で竹細工をつくるのは永倉さんだけだった。
 他には吹上町入来(いりき)という場所の集落に孟宗竹だけを使った珍しいカゴをつくっていた。小さな入れ物やご飯入れ、子供たちの貝採りカゴなどの製品。孟宗竹を素材に用いるのは竹細工としてはメジャーではない。九州では真竹を使うのがポピュラーなのに、孟宗竹を使うのは仕事がていねいではないし、素材自体が竹細工には不適当だった。そんな素材さえを使わないといけない人たちがそこにいたのである。その集落は「安姓」の漢字が名字に含まれる地域だった。独特の建物が笹竹系の竹藪に囲まれて、ひっそりとした集落は見るからに世間から隔絶された雰囲気を漂わせていた。この集落のうち当時、5〜6軒が小物を制作していた。薩摩弁では小物のことを小細工(こぜく)と言っていた。

小吹有蔵さんに花売りカゴを制作依頼

 入来集落から北へ10kmほど移動した所に伊集院という大きな町がある。その町で、私は小吹有蔵さんという人柄のとても良い、年輩のつくり手にもめぐり会った。小吹さんは永倉さんと同じように町中に仕事場を設けて、近在の人たちの注文に応じて竹細工をつくり、直売していた。また、修理も受けていた。小吹さんは仕事も抜群に上手だったから、鹿児島で欲しい竹細工はもうこの人に頼めば何でもできると考えていた。
 私もうかつだったのだが、小吹さんの所ばかりに注文をお願いしに行っていた。当時は「もやい工藝」を立ち上げたばかりで、しばらくは経済的にも大変な時代だったので、何人ものつくり手に注文をして仕入れるということができなかった。小吹さんは注文が1つだろうが、2つだろうが喜んでつくってくれるし、話も楽しいし、と彼とばかり20数年付き合ったのであった。永倉さんとも知り合ってはいたけれど、腕は小吹さんの方が断然優れていたものだから、彼一辺倒になっていたのだ。
 ところが約20年前、小吹さんの奥さんが亡くなられ、食事の世話をする人がいなくなったために体力が落ちてきて、仕事ができなくなってきた。元気がなくなり、病気になり、突然仕事を辞めるということになってしまったのだ。小吹さんに全て頼んでいたのに、これは大変なことになったなと思った。
 そこで、薩摩半島に行けば、顔だけは出していた永倉さんの方に注文を切り替えるしかなかった。それまで小吹さんに頼んでいた物に、鹿児島を訪ねていちばん衝撃を受けた花売りカゴという物があった。これは鹿児島市の天文館通(てんもんかんどおり)という有名な目抜き通りのアーケード入口で見かけた。おばさんが何人も腰掛け、柄の長いカゴに花をたくさん置いて売っていた。南薩地方は暖かい地域なので、花が早く咲くし、品種も豊富だった。
 おばさんたちに、カゴをつくっている所を聞くと、鹿児島市の郊外だと答えた。しかし、言われた錦江湾に面した地域に行ってみると、つくっている人は誰もいなかった。そこでは花は生産しているが、花売りカゴは制作していなかったのだ。
 ではどこでつくられているのか探し回ったものの、結局見つけることができなかったのである。そこで花売りカゴを1つ入手して、小吹さんに見せたら、「これはイネテゴというんだ」と言う。薩摩弁でカゴのことをテゴと呼び、イネはやはり方言の「いなう」=かつぐという意味であり、本来は田植えする前の稲の苗を持ち運ぶために用いていたカゴなのだと教えてくれた。かつぐのに便利だから柄が長いのだと小吹さん。2つを棒に渡して肩にかつぐのだと。それをたまたま花売りカゴに代用しただけのことだったのである。このイネテゴを小吹さんにつくってもらうことにした。
 永倉さんにもぜひイネテゴをと制作依頼したのだが、腕は小吹さんほどではないので、悪戦苦闘してなかなかつくってくれないし、つくりたがらないのだ。で、2年に1度ほど、暇があれば2、3個つくる程度のペースになってしまった。


小吹さんが制作した花売りカゴ(イネテゴ)。
柄が長いために、花をたくさん置くと見栄えがする。
「もやい工藝」では開店以来、20数年間ずっと店に飾ってある

永倉さんのつくったカゴの数々(撮影/久野恵一)

作業場の永倉さん(撮影/副島秀雄)

制作中の永倉さん(撮影/副島秀雄)

醤油づくりのカゴを塵籠に

 イネテゴの他にも南薩で私が興味を覚えた物があった。それはまさに民具なのだが、醤油を製造するための道具に竹製の簀(す)という物がある。大きな樽の中に醤油の材料となるものを満たし、だんだん発酵してきたら樽の真ん中に簀を立てる。すると、その内側にきれいに澄んだ醤油がたまるという竹のカゴだ。このカゴの切り立った、長細いかたちがなかなか良くて惹かれた。しかし、このカゴには底が無いため、何か工夫して他の用途のカゴに転用できないだろうかと考えた。思いついたのは、底に棒を渡して、その上から竹で編んだ平ザルをシート代わりにして底に敷いて、穴をふさぎ、塵籠にしたらどうかということ。それだけでは弱いので、棒を何重かにして補強した。
 醤油の簀は液体の中に漬けるために竹ひごがあまり薄いとすぐに腐ってしまう。そのため通常の竹製のカゴよりも3〜4倍の厚みがある。ということは、編んだ時にがっちりとしているのだ。かなり力強い、骨太の容器のような物。その骨太の強さがとても魅力的だったが、その竹ひごの厚みだと、底を編もうとしても編めない。底から立ち上げる時に竹の粘りを利用するのだが、厚みの分、曲がらず不可能なのだ。苦肉の策として、塵籠としてつくるのならば、そのかたちそのものを利用しようと竹ひごを半分くらいの厚みにすれば、なんとか曲がるというのでつくってもらった。
 長いかたちを利用した物なので「長塵籠」と名を付けて制作するようになったのである。この制作も技術を要する。簀よりは厚みを減らしたとはいえ、通常の竹カゴよりも倍以上の厚みがあるため、編むのには苦労するのだ。竹というのは弾力性を利用して編むものだから、薄ければ薄いほど編みやすい。それが厚くなってくると力も要るし、コツも要る。そのため制作を依頼すると、やはり嫌がられるのだ。このカゴも小吹さんは喜んでつくってくれていた。
 永倉さんのもとにも、小吹さんの長塵籠を見本として持参して制作を依頼。つくられる数はかなり限られてはいるが、今も納めてもらっているのである。
 永倉さんのつくる長塵籠を見ると、小吹さんのつくられた物とは明らかな差異が見て取れる。竹ひごの編み方、細部に力の入れ方、竹ひご(薩摩では「へぎ」と言う)の揃え方、竹の節の削り方と揃え方に小吹さんとの技術の違いを感じてしまうのだ。 小吹さんが亡くなられてすいぶん経つが、埼玉県に暮らす彼の娘さんが10数年前、突然店に来られて「久野さんには父と親しくしてもらって、つくったものを買い上げてたびたび品評会に出品してくれたり、父のためにとても尽力してくれて感謝しています」と言われて嬉しかった。そのような言葉を掛けられることが、この仕事をしている支えになっているようなものだからだ。


小吹さん作の長塵籠

これは永倉さんがつくった長塵籠

和やかなムードで打ち合わせをする私と永倉さん(撮影/副島秀雄)

南薩唯一のつくり手に

 近年、竹細工が少しずつ見直されてきている。10数年前から中国の竹製品が日本に入ってきた。それらがあまりにも安いので、日本の竹細工は価格競争で負けてしまった。そのためにわずかに残っていた竹細工のつくり手の多くが仕事を辞めてしまったのである。しかし、その後、ユーザーは中国の竹細工は壊れやすいし、値段が安いから修理することもせず、使い捨てになってしまう。そういうこともあって、最近はきちんとした製品が欲しいという人が出てきた。とくに農作業などで実用的にカゴを使う人は丈夫で長持ちする良品を求める。薩摩半島では春になると、連日どこかの町で農具市が催された。農家の人は市で永倉さんのカゴを買うようになるのだ。 永倉さんとは長い付き合いだし、私の意をよく汲んでくれるものだから無理な注文をしてもなんとか応じてはくれる。だが、手のこんだ仕事は最初からできないと言われるので、花売りカゴもここ3年ほど制作できていない。長塵籠は1年に何回かはつくってくれる。
 私の注文以外にも、永倉さんは地域の昔ながらのさまざまな農具をいまだに手がけている。年齢も80歳ゆえに手がだいぶ遅くなってきてはいるが、つい最近も「大地の会」通販用に、梅干しを干すための平たいザルを制作してくれた。
 竹の身と皮を網代で編んでいくと、身の方は汁がこぼれたりすると、どうしても汚くなって洗いにくくなる。そのために「大地の会」は全部、皮だけで制作してくれないかと頼んできた。 そこで米をあげる時のかたちのやり方で編んでもらったのだ。縁は昔ながらのつづらツルで巻いてもらう。
 一般に九州では縁づくりは巻くやり方が多いのだが、薩摩だけは「柾割り(まさわり)当縁(あてぶち)」という仕上げ法をとっている。円形に形を整え外枠をつけたら 柾割竹を縁竹の内側に表と裏にカゴをはさむように仮止めする。あとはツルで縁を巻いていくのだ。これは南方系の縁のとり方の影響だろう。この製法が南薩の特徴なのである。
 その特徴を活かしながら、昔の農具を受注しながら生業として永倉さんは今では南薩で唯一、竹細工をつくっているのだ。かつて南薩では数多くの竹細工のつくり手がいたのに、現在では分業ではなく、竹細工を何でもつくれる人は永倉さんのみとなった。
 永倉さんには生きている限り、これからも農具を改良・改善したカゴを注文しながらつくっていってもらおうと思っている。時には無理な注文も聞いてくれるし、もう少し時間が空いたら、花売りカゴも制作してもらえると思う。

(語り手/久野恵一、聞き手/久野康宏、写真/副島秀雄、久野恵一、久野康宏)


自然に採取した梅を自分たちでつくろうという提案をしている「大地の会」の依頼で永倉さんが制作した、梅干しの干しザル。この網代編み(鹿児島で「バラ編み」と言う)されたザルは、もともと米の籾殻を箕のかわりにふるうための道具だった。その道具としての役割は箕に取って代わられたが、広く平たい面を活かして椎茸、桑の葉などが干されるようになった

永倉さんが制作した花売りカゴ。
竹の特性を活かしているし、柄の長さが使い勝手に優れる。
これはまさに手仕事の逸品のひとつである
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