手仕事調査Kuno×Kunoの手仕事良品

Kuno×Kunoの手仕事良品

#029 [因州中井窯 坂本章君の仕事 後編]鳥取県鳥取市河原町 2008.06.27

民藝館展に出品

 その後、2ヶ月に一度の鳥取行きになり、その度ごとに中井窯に立ち寄っては、坂本實男さん、章君にアドバイスしつつ新作品づくりを重ねて1年経ったころ、納得のいく物が出来上がってきたので、日本民藝館展に出品してみることにした。 その際、鳥取民芸美術館・鳥取たくみ工芸店の負担で、章君は出品者の懇談会にも上京して参加した。その後も民藝館展講評会には出席させている。会場には柳宗理館長もいた。中井窯の物が出品されてきたことに反応して私に「これ牛ノ戸焼だよね!」と興奮する柳会長。「そうですよ」と答えると、「牛ノ戸焼は無くなったんじゃないのか?」と柳氏。「いや、残っています。しかし、これは牛ノ戸焼ではなく、中井窯の焼物ですよ」と答えた。
 「僕はね、終戦後しばらく経ってからだと思うが、中井窯に行って制作したことがあるんだよ。あの時は良かったよ」と柳氏は思い出を話す。章君を紹介すると、代が変わったのかと驚いていた。「いやお父さんは元気ですよ」と伝えると、柳氏は「ああ、實男さんは元気なんだ。君は實男さんの息子さんか。もう息子さんの代なんだね」と章君をお気に入りの様子であった。


私の指導で坂本親子が制作したオードブル皿

 民藝館展に初出品した翌年、さらに新しいことに取り組もうと、誰もが使って楽しめるような洋食器を手がけたらおもしろいと考えた。そこで、オードブル皿を発案。たまたま日本民藝館に展示されていた琉球の古作漆芸品、タンクウ盆(東海盆=それは、フラットな大皿で、縁の幅、つばが広く、内径が狭くなっているし、漆塗りが縁は黒、内径は溜(ため)の掛け分けである。それを施釉に模した。ごく自然的で、実用品的な物だが、比較的階層の高い人たちが用いたお盆で、中国的な匂いが強い)のかたちを見本に、中井窯スタイルの平たい皿をつくったのである。 
 それを日本民芸館展に出品すると奨励賞の候補に挙がった。推薦したのは、もちろん館長の好みに合うのが大きな理由。それに当時は柳氏が選んだ審査員にデザイナー系の人も多かったこともある。デザイナーの人たちが喜びそうな物なのだ。なぜなら、焼物に置き換えると、つば縁と内径の釉薬の相違が際立ち、メリハリが強い。また、つば広のため、皿の概念を取っ払うような、いわばデザイン化した器にも見えるからだ。
 逆に言うと民藝の好きな人はあまり好まない焼物である。両者の賛否があったため、そこで章君の仕事がどれも若々しく素晴らしかったので、その中から尺一寸縁付き皿が奨励賞作品として選ばれることとなった。この事実は、その後の各方面への私の制作アドバイスに役立つことになっていくのである。私はその嗜好の違いをよくわかっていたので、両方を折衷する方法を考えた。つまり、あまりにもデザイン化し過ぎないようにする。それでいて民藝の良さ、牛ノ戸焼の伝統をもうまく活かす方法を考えたのだ。
 この入賞によって勢いと元気が出て、章君も自信がついたようだ。鳥取の人はその頃まで中井窯を軽視していたし、当時の鳥取には民藝館展で賞を取れるようなつくり手は皆無だったので、驚いてしまったのだ。
 私が中井窯に関わり、初めて登り窯での窯出しをしたのは翌年の暮れのことだった。それが初窯だったので、当然私は出向いた。 その時に同じ緑の釉薬でも登り窯で焚くとこんな色になるのかと登り窯の威力、素晴らしさをしみじみと感じた。それで、章君には「登り窯はどんなことがあっても絶やしてはいけないんだよ」という話をした。彼も素直にそうですねと頷いていた。
 それから数年が経ち、章君もいっそう仕事に慣れてきて、割烹たくみにも中井窯の製品が食器として揃うようになった。一時期は食器すべてが中井窯になったこともあったほどだ。
 それで私は牛ノ戸焼脇窯として呼ばれてきた中井窯という名をはずし、確固たる「因州中井窯」と命名し、今にいたっているのだ。


しゃぶしゃぶのゴマだれを容れる片口

朝鮮のハチミツ入れ(面取り瓶)を参考にした初窯の作

中井窯の染め分け皿。これは柳デザインではない
(撮影/久野恵一)

柳宗理デザインの染め分け皿

 鳥取民芸美術館の展示に関しても数年経過し、ようやく私が意図した展示陳列方法も確立してきた。しかし、全国的に、地方民芸館の入館者は減少していた。そこで、センセーショナルな展示企画をすることで、世間の目を向けさせ、少しでも入館者増と鳥取民芸美術館を意識させることを練った。
 そこで日本民藝館館長でもある柳宗理氏のデザイン集大成を鳥取民藝美術館で展示することを考えた。柳館長とは、協会活動を含めて私は常に補佐してきたことで親密感をいただいていたこともあり、柳氏に打診すると、「もちろんやってみたい」と快諾。そこで、「せっかく鳥取に行かれるのなら、中井窯でデザインした物をつくられたらどうですか?」と提案。すると、ご本人も昔懐かしい思い出もあって、中井窯へ行きたかったのだろう。了承していただけた。
 柳氏を美術館での展示会を名目として中井窯にお連れし、制作に関して自由に取り組んでいただいた。まず手がけたのは、昔、創作して今、柳デザインの出版物にも必ず掲載される牛ノ戸焼伝統の、染め分け皿だ。8寸5分ほどの平皿に青と黒の昔ながらの染め分けにして縁(ふち)の釉薬を抜いた(釉薬を掛けない)皿。
 これは薩摩苗代川焼の手法で、「はまぐり合わせ」とも呼ばれる。量産化を図るために、縁に釉薬を抜いた物を重ね合わせて、積み重ねて焼くやりかたである。その技法はデザイン的にもおもしろいため、デザイナーである柳宗理氏は染め分けをデザインとしてとらえ、苗代川焼と牛ノ戸焼の染め分けの技法をミックスした皿を50年ぶりに製品化。柳氏の知名度もあって、その後大きな反響を呼んだ。

デザイナーと民藝の視点の違い

 しかし、民藝の立場から言うと、はまぐり合わせでつくる皿は、3、4枚は重ね合わせることで単価を安くする工夫から生まれた民陶の知恵。するとどうしても土と土とが重なり合うので多少の跡が縁に残ってしまう。その跡が残るのがデザイナーは嫌いなのだろう。完璧にきれいにしないといけない。そのために柳氏は皿を積み重ねず、1枚づつ焼くように指示した。


掛け花入れ。

 しかも、きっちりと色を分け隔てて染め分けするようにとも言う。民藝では青と黒が微妙に重ね合うところが自然のなりわいのおもしろさだととらえる。そこに民藝としての眼の視点があるからだ。
 自然界の作用によってさまざまなものが生じる。その生じたところに美しい世界が自然に生じ、広がるとするのが民藝美の本質であり、それが民藝運動の創設者、柳宗悦氏の眼でもあるのだ。
 柳宗理氏の眼というのは、最初から「こうなるのである」ということをきちんと決めて、その通りにいかなければ納得しない。これはデザイナーとしての立場なのだ。
 今、柳宗理氏のデザインに影響を受けて、民藝というものに関わった人たちの根本的な視点の欠落した部分は、あまりにもデザイン化された物、決められた約束事のみしか眼がいっていない点である。 しかし、民藝の本質というのは、約束事でつくったものであっても、それが自然界の作用によって壊され、壊されたものが逆に日本の風土的なものとの絡み合わせの中で、温かみや手の感触を伝える。透明感や灰がかって濁る、あるいはかすんだような出来上がりになる。それがいわば日本的な美の良さなのだと私は思う。
 だから「侘び寂び」を感じた本来の茶人には、日本の美を見出す眼を持った人がいた。現在の茶の湯の世界の誤りは、茶を道としての形式化と方向にしてしまったこと。これは近代日本人の習性となってしまったようなのだが・・・。 工業デザインに憧れて、デザインの世界に入ってきた今の人たちは約束事に決められた枠内でしか物を見られない。民藝の良さはそうではない。両方がミックスした以上のものである。そこのところを押さえないといけないのだ。
 私はどこの窯元に行っても、決まり事と自然のなりわい、その両方の視点で物を見ている。染め分けの皿を最初は否定したのは、あまりにもデザイン化されておもしろくないからだ。だから、融合するように持っていくようにと盛んに指示した。その考えが章君にも浸透したのに、柳氏の指示ではきちんとした物をつくらないといけない。むしろ柳氏の求める物の方が良いとする時代になってきて、そちらの方に注文が集まるならば、章君もその方が正しいととらえるのであろう。
 また、自然に流れにまかせて良い物ができるということよりも、自分が創作した物に対して意志表示(デザイン)する方が、何か自分が仕事をしているように確信するのかもしれない。これは私たち民藝の仲間とは相違した確信なのだが、その方が良いと思うつくり手が増えてきているのだ。まさに章君もその方向に惹かれているようなのだ。


牛ノ戸焼でおなじみの緑釉薬と黒釉薬の染め分け皿。
中井窯の登り窯で焼成すると、緋色が付いている。
黒と緑。色が重なった部分が美しい

これは灰壺。朝鮮・李朝の真鍮に原型となるかたちがある。
これも登り窯で焚いた

こと細かに章君へ何を助言すべきか、ノートに記していった

悪循環

 以前、坂本實男さんがつくった尺6寸くらいの大皿が中井窯の家に掛かっていた。3つに染め分けられた皿だ。柳宗理氏はそれを見て「すごい」と興奮していた。よく見るとその大皿は3つの釉薬が融合しているのだが、私はこの皿が好きではなかった。それを章君が自分で自らつくって出品したいと言ったので、日本民藝館展に出さない方が良いと助言した。しかし、章君さんは出品。それが最高賞の日本民藝館展賞を受賞してしまった。章君は喜び、その頃、地方を活性化しようと頑張っていた鳥取県知事も章君の仕事に注目し、一時期、知事室で使う物、飾る物は中井窯製品で覆われたほどだった。こうしてどんどんと県内外に中井窯が知れ渡るようになった。
 そしていつの間にか直接中井窯に注文がくるようになる。それまでのようにたくみ工芸がすべてを引き取らなくても済むようになってしまったのだ。
 ただ、ここで恐いのはいろいろな人が様々な意見を言うこと。それは今の時代の意見なのだが、長いスパンを見ていない。自分たちの好きなことを言うこと、ひいては思いつき的なことを言う。それを真に受けて注文があれば、つくり手はつくってしまうのだ。さらに、つくった物が褒められれば嬉しい、という悪循環が今、繰り返されつつある。
 10数年前の、あのすがすがしい、ひたむきな若い章君の方向が今危うくなってきているのだ。だが、私はこのまま放っておいてもいずれは解決する問題だと思っている。社会の状況が時代によって変われば、また回帰し、取り組み方も転換することにならざるを得ないと思う。
 また、根本的に章君はまだ訓練度が少ない。ある程度力はついてきたが、手仕事による量産できる技術は持っていない。また、自分で創造的な物をつくる力が乏しい。そこが彼の職人工人的な良さであり、根本的な弱さだと思う。
 人間にはそれぞれ向いたものがあって、作家だから良いとか、職人だから悪いというのではなくて、優れた職人になる人と、作家で道をつくっていく人と両方あると思う。
 しかし、作家で道をつくれる人はそうはいるものではない。何千人に一人だろう。章君には新たな道をつくる力は弱いし、それだけの質的に優れた物を見ていない。さまざまな自然界に横たわっている物、造形物に対して自らが美を研ぎ澄ます感性をつくり上げないと無理なのだ。

型起こしの仕事も勧める

 章君はていねいに仕事をするし、今もなお物づくりとして重要で基本的な縁づくりや高台のつくり方は言われた通りのことをやっている。非常に素直であり、言われたことは覚えている。そういう意味では貴重な人間で、今時こんな人は居ないと思う。
 ただし、30歳近くで私の指導を受けるまで、数物づくりの訓練が少ないため、1個1個をつくっていくスピードが遅いのだ。焼物屋が自分の経済を良くしようと思えば数を多くつくるか、単価を上げるしかない。ところがこれ以上数ができなくなれば、思い切り単価を上げていくしかない。単価の上がる分、どうしても自分を前面に出して、ギャラリーなどで個展を開いたりして世間に広めていかざるを得なくなる。そうでないとそれなりの豊かな社会生活は獲得できないことはよくわかる。
 数物を多くつくることはいまだに劣っているし、人を雇う余裕も無い章君のことを気の毒だと思い、私は彼の奥さんに型づくりに取り組むよう勧めた。


森山さんが中井窯の土でつくったカップ

 5年前、島根県温泉津町に森山雅夫さんという河井寛次郎さんの最晩年のお弟子さんで、類い希なるつくり手がいる。仕事は速くて、しかもきわめてていねい。大量の数量をつくれるのに、きれいな仕事をする人だ。しかし、それだけでは生活できないから奥さんが型起こしの仕事をしている。河井寛次郎直伝なのだ。型物づくりは非常に手間取るけれど、手間代から価格を高くできるのだ。奥さんの型での仕事も入れて仕事と生活のバランスを取っている。森山夫妻のスタイルを利用するしかないと思った。 章君の奥さんに型の仕事を覚えさせたかった。といっても、いきなり誰かに習うこともできない。年齢的にも、まだ3人のお子さんも小さく、今さら工芸試験所に通うこともできない。
 そこで、優れた工人を中井窯に呼んで制作実演をおこなう「工人の会」を催すべく、私は知恵を働かせた。
 当時、私は民藝協会の中心的な役割を果たしていたので、民藝運動を推進するという名目のもと鳥取で催しを開く。その場で民藝運動に関わる人と工人がより密接につながり、これからの民藝を語るような機会を設けたのだ。小鹿田から柳瀬朝夫、坂本茂木、坂本一雄(坂本浩二君の父)。倉敷ガラスの小谷真三さん、森山窯の森山雅夫さん、湯町窯の福間秀士さん、沖縄北窯の松田共司君などの優れたつくり手を招いた。そして中井窯のロクロ台で、鳥取の陶土を用いて、おのおのが制作の実演をしてもらったのである。 森山さんには、他の人ができない型づくりを依頼。型を持ってきてみんなの前で実演し、それを章君の奥さんにも見せた。見てできるものではないけれど、まずは良い仕事を見てから、型づくりに取り組んだ。その様子を注視する森山さんは親切な人だから、ああしろ、こうしろと具体的にアドバイスしていた。そのタイミングを見計らい私は森山さんに切りだした。この窯では型づくりの仕事もしていきたいのだと。 すると、「それなら、うちに習いに来たらどうだろうか?」と森山さん。それで奥さんを後日、森山さんの窯へ型づくりを会得するように向かわせた。型づくりができるようになれば、中井窯の売り上げ向上にプラスとなるからと。


工人の会(制作実演会)の様子

章君の奥さんが型づくりに取り組む様子を見守る森山さん(左端)と湯町窯の福間秀士さん(右)

章君の奥さんが型でつくった最初の角皿
(河井寛次郎の額皿をそのまま真似てしまった作)

「工人の会」にて各陶工が中井窯で制作した焼物

日本陶芸展、実用陶器部門で大賞を取った時の見本となった木の鉢。

日本陶芸展大賞を受賞して・・・

 章君に「君の仕事は遅い」と言っても、他人の仕事を見たことが無いから実感は持てないだろう。だが制作実演会で名工たちの魔法のような手から生まれる仕事を眺めていれば、いかに自分の仕事が弱くて遅いかがわかるはずだ。そこで自分のレベルは低く、まだまだだと謙虚に認識したのだと思う。ところが、その後に柳宗理氏がデザインを指定する仕事に携わることで、名が知られるようになると直接窯を訪問する客が増え、訪れれば誰もが本人から買いたくなるものである。これは当たり前であるが、収入も以前よりは増えていく。経済的にも以前より良くなった彼は最近はむしろ鳥取たくみ工芸店への卸しをするより直売に力を入れるようになってしまった。
 その体制になると名前をさらに広めていきたいがために、柳宗理氏と関わり、また鳥取県も地域活性化に取り組む上で、全国的に知られるようになった窯元として宣伝したり、各メディアからの取材も多くなり、中井窯はいつの間にかメジャーな窯となっていったのである。青と黒の染め分けが復活し、中井窯の製品の主流となり、再び特徴づけられてしまった。 私がデザインしてつくったというよりも、柳宗理氏とのコラボレーションで物ができたという方が知名度を高められるし、世に知れ渡るチャンスだと思う。その方向へと章君は歩き出してしまった。
 また、章君は日本陶芸展でも大賞を受賞した。これも現在の日本陶芸展がデザイン化されたものを良しとする審査員になってしまったということを示している。加えて、風土や気質に合い、微細な良さ、おもしろさ、美しさを備える民藝の物ではなく、きわめて端的でわかる合理的な物でなければいけないといった、西欧風の物を尊ぶ方向へと世の流れが向かっている。その流れにうまく中井窯が合致していったのである。
 しかし、この状況はそんなに長続きするものではない。今、確かに民藝の本質が見失われつつある。しかしこれも時代の変移で、10年も経てば、また違った視点で物を見られる人たちが出てくるはずだ。これからは元に戻っていく時代ではないかと思うし、そうなるように今、私たちは頑張っているのだ。 民藝が取り上げられているからといって、決して私は安易に喜んでいるのではなくて、むしろ民藝が誤って解釈されていることに危惧感を持っている。民藝というものはもっと深いものであり、もっと美の根源的なものを解き明かすものなのだ。
 章君が日本陶芸展で大賞を取った物の中に私が指導した深皿もあった。日本の皿は底の方に弧を描いていくから、どうしても底に汁がたまりやすい。底を平面にして縁を反らせた、深皿の良い見本が何か無いかなと探しても日本の皿の中になかなか見つからない。西洋にも縁を反らせた物が無い。しかし、木器の中にそのかたちを見出した。私の持っている木器の汁椀のかたちがおもしろいので、それを章君の所に見本として持っていって、かたちを参考にしての制作をさせてみた。
 だが、彼はもう100%私のことを聞き入れるよりも、少し自分を出して色気を付けたかったようだ。そのために、縁に線を巻いてそこに緑釉を流してみたりした。私には不自然に思うし、意味の無い模様であったが、それが彼にとっての「自身のデザイン」だったようで、日本陶芸展の大賞を受賞したのだ。その受賞がきっかけで、中井窯は山陰を代表するような窯になった。


木の鉢を見本に、私の指導のもと章君が制作した深皿。
日本陶芸展で大賞を受賞した。章君は縁に線を巻いて自身のデザインを加えたが、私は不自然と感じる(撮影/久野恵一)

手前が私のデザイン、後の緑釉が柳デザインの急須(撮影/久野恵一)

中井窯とのこれから

 私は10年間に及ぶ鳥取(鳥取たくみ工芸店、鳥取民藝美術館、たくみ割烹店、中井窯)との関わりによって、民藝運動の再興と復興の指導のありかたも会得した。さらに食に関することについても、とりわけ美術館の展示企画についても健全な方向性を指示することにもなった。吉田璋也氏によって始められた新作民藝運動の原点の地をいわば新興の私が関わり、再建させたことには大きな意義があったことだと確信している。
 私が得たことは次に何かおこなうときに大きな勉強となるだろう。鳥取たくみ工芸店はもやい工藝方式を導入することで工芸店としての筋道をつくれた。現在は社会の変容と経済状況の悪化もあって、日本各地の民藝店が疲弊しているが、何とか経営していくことができるだろう。
 また、この地での民藝運動を活性化させて、同時に手仕事フォーラムに関わる多様な人材を発掘した。鳥取にも私たちのメンバーは多いのだ。
 このように中井窯との関わりは自分の一生とっても大きなことだと思う。だから、いまだに中井窯のことは気になる。気にはなるけれども、いずれは方向を模索せざるを得ない時がくるだろう。その時に再び手を差し出せば良いのかなと思っているのだ。

(語り手/久野恵一、聞き手/久野康宏、写真/久野恵一、久野康宏)


アフリカのドゴン族の土鉢からヒントを得てつくった「ドゴン鉢」と名付けた鉢。私のデザインで、章君が制作したもの(撮影/久野恵一)

私がデザインした中井窯製品(撮影/久野恵一)

たくみ工芸店での中井窯展にて。棚のいちばん上の縁を抜いた染め分け皿が柳デザイン。他の多くは久野デザイン(撮影/久野恵一)
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