手仕事調査Kuno×Kunoの手仕事良品

Kuno×Kunoの手仕事良品

#030 [小鹿田焼 坂本茂木さんの大物]大分県日田市 2008.07.31

20年ほど前に坂本茂木さんが制作した青土瓶。
すっと立ち上がった注ぎ口のかたちが良い

民藝館展に出初めてのマイ湯呑み

 坂本茂木(しげき)さんが小鹿田焼の優れた陶工というより、才能を持った工芸家であることを最初に教えてくれたのは、民藝の先達である鈴木繁男さん(柳宗悦の門下生の第一人者であり、漆芸をはじめ、万能な工芸意匠家。希有な審美眼の持ち主)だった。 25数年前、私は鈴木さんとともに九州に行く機会があり、その時、小鹿田の窯出しに立ち会ってもらったことがあった。鈴木さんは窯出しされたおびただしい製品の中から気に入った物をひとつづつ取り出しては、感嘆の言葉を漏らした。その中で印象的だったのは、「この青土瓶の注ぎ口を当たり前につくれる、つくり手は何がこの器の命であるかを体で覚えている。無意識のうちにつくりが自然と感覚で身に付いているんだ。これはすごいことだ」 鈴木さんにそう言われてから、私は茂木さんの土瓶がいかに優れた物なのかを強く意識するようになったのだ。
 さらに年月を35年前までさかのぼってみる。私が民藝の道に入った時、どこの窯元でどのようなつくり手が良い仕事をしているのか気になっていた。その時、毎日新聞社主催の第2回「日本陶芸展」において、第三部の実用陶器部門(俗に言う民藝部門で、日常的な陶器をつくる人の部門)で大壷が最高賞を受賞した。そのかたちを眼にした時、私はとてもワクワクと心躍った。後に同展のカタログを見て、その大壺が茂木さんの作とわかった。
 そして翌年の秋のことだった。日本民藝館で恒例となっている「日本民藝館新作展」が催されていて、準入選した物(会場で購入も可能)の中に、私が初めて欲しいと感じた湯呑みがあった。その湯呑みこそ、茂木さんの作であり、長く使って割れるまでマイ湯呑みとして愛用した物だったのだ。上部がふっくらとして、かなり大ぶりで力強く、高台がとても狭いかたち。刷毛がたっぷりと引かれて、実に大らかな雰囲気。その当時の自分の眼で見て、逸品中の逸品と思った。


茂木さん作の湯呑み。
私が愛用していたのは、左端の大ぶりのかたちに、中央の刷毛引きを施した物だった

茂木さん。小鹿田の個人窯にて(写真/副島秀雄)

茂木さんの窯出しに行けるようになる

 その後、小鹿田への仕入れで、初めて訪れた時、すでに今と同じく窯元は10軒あったが、窯元ごとに決まった取引先があって、注文を受けてつくり、取引先が頼んだ品を窯出しの際、受け取りに行くというシステムで、窯出しされた品物はおおむね始末されていた。
 そんな状況の上に、世は民藝ブーム。窯出しからしばらくして窯元を訪ねても良い品を選ぶことはできなかった。私は当時、集落(通称・皿山)のいちばん上に窯を構える坂本義孝(よしたか)さんにお世話になっていた。そして義孝さんの窯出しに出向くと、皿山の一番下の方に位置する茂木さんの窯にも仕事を見には立ち寄っていた。
 三度目に訪ねた頃、茂木さんから「あなたはよく訪ねて来るね? (取引先として)お世話になっている熊本の福田豊水さん(福岡県大牟田でビアガーデンを営みつつ、陶工として熊本・小代焼の瑞穂窯を開いた。大牟田では民藝店も経営していた)からは、あなたのことはよく聞いているよ」と話しかけてきた。 優れた仕事ぶりは、日本陶芸展のカタログで見ているし、茂木さんの湯呑みを日常使いしていることを伝えると、「では、なぜ私の焼物を仕入れないのか?」と尋ねてきた。
 私は茂木さんの焼物は取引先でないと仕入れられないと思いこんでいたと打ち明けると、「そんな決まり事は無いから、遠慮しないで仕入れに来たらどうか」と言ってくれた。
 こうして小鹿田で一番好きなつくり手の窯出しに行けるようになり、とても嬉しかった。その後、早速お言葉に甘えて茂木さんのもとへ、窯出し前日に訪ねた際、隣家の窯元、柳瀬朝夫さんも紹介してもらい、一緒に酒を酌み交わすことになった。その場で、茂木さんは小鹿田の複雑な人間関係や民藝と自分たちの仕事との関わりについて話してくれた。
 40年前は皿山に9軒あった窯元のうち、6軒は共同窯で、残り3軒は個人で窯を構えていた。共同窯から遠い窯元が個人窯となったのだが、茂木さんの窯は共同窯に近いにも関わらず、共同窯の日程について行けず、また自分の好きなような焼き方で窯を持ちたかったことで個人窯になった。人との付き合いを大事にする茂木さんゆえ、他の人に迷惑をかけないようにとあえて個人窯にしたのだった。


茂木さん作の徳利

30年間で600日は小鹿田に滞在

 その頃の茂木さんの陶器は、焼きがとてもきれいだった。還元炎(酸素が十分に供給されていない状態の焼成)がかかる状態では、グレーがかったきれいな色になり、酸化炎(十分に酸素が供給される焼成)で焼いた部分もまた美しい。つまり焼きが甘くても強くてもきれいなのである。
 茂木さんはそれまでの日本民藝館の要望に応え、柳宗悦の民藝運動に自分なりに取り組み、信頼感を持って関わってきた人だった。変わってはいるが、独特の人柄も魅力だ。ところが彼が誤解を招いた時期もあった。
 前述した第2回日本陶芸展での受賞により、一般の人は茂木さんのことを「先生」と呼ぶようになる。いわゆる作家が不在な小鹿田にあって、そのような人が現れると、「目立ちたがり屋だ」とか、「作家になって焼物の価格を高くしてしまう」などと彼の悪口を言う人が出てきたのだ。
 そんないわれない言葉を浴びせられても茂木さんは反論しなかった。弟分で茂木さんを慕う柳瀬朝夫さんは変わらず彼に付いていった。この両人の魅力を覚え、彼らに焦点を当てて小鹿田と関わるようになっていく。以来、この二人とは30年来の付き合いになる。
 私はいったんのめりこむと、とことんつき合うタイプの人間だ。両人の窯出しに、それぞれ年5回、トータルで10回は通った。窯出しの度に茂木さんの家にお邪魔して、3〜4泊はしていたので、年間平均して20日は小鹿田に滞在し、30年間では600日以上は茂木さんにお世話になっていることになる。
 茂木さんと柳瀬朝夫さんの窯出しに立ち会うと、仕事に忙しくて選ぶ余裕の無い両人に代わって、良い物を吟味してストックし、日本民藝館展に出品してきた。小鹿田焼は新作民藝運動における重要なポジションにあったため、最高の作品を出品することが大事だし、それを私は使命とも感じていたのだ。

小鹿田の大物づくりを継承

  茂木さんの芸術的な才能に注目する人は多い。彼の前には、そのつくる物に惹かれてさまざまな人が現れては消えていった。だが、30年間一貫して小鹿田、そして茂木さんとつき合ってきたのは、おそらく私だけだと思う。小鹿田焼でも大物をつくれるのは茂木さんと柳瀬朝夫さんだけだと聞けば、なんとか大物づくりを維持していかなくてはと考えた。小鹿田の歴史、伝統とともにつくりあげられた造形を見過ごしてはいけないし、それがあるからこそ窯の存在意義がある。とくに8年前に亡くなられた、松本民藝家具創設者で、民藝運動家の池田三四郎さんからは物心ともに援助をいただき、大物づくりを奨励した。 小鹿田の大物づくりを継承していくには、両人に制作を頼むべきだと考え、1980年代から1993年の間、私は無理をしながらも大物を依頼してきた。両者に頼んでみるとおもしろい発見があった。
 同じ大きさの物をつくるのに、かたちが異なるのである。茂木さんは骨っぽい造形。それでいてモダンさを感じさせる仕事を見せる。一方、柳瀬朝夫さんは素朴な、小鹿田の昔ながらの野趣あるかたちだった。
 茂木さんは小物で、数を多くつくる数物でも、一つ一つに「骨格」がある。職人の世界をさらに越えて、芸術的天分の持ち主といってもよいかもしれない。そして、そんな人がたまたま小鹿田の窯元に生まれたといってもいい。茂木さんがつくる物の存在そのものが、小鹿田焼をここまで持ってきたと思う。しかし、そのことを本人は気づいていないし、まるで無頓着なのだ。
 茂木さんの才能をつくりの凄さから見抜いていた鈴木繁男さんは、78歳の時、自ら日本民藝館の仕事を辞することになった。私はまだ教えていただきたいと引き留めに会いに行くと、繁男さんはこう言った。
 「世の中がどう変わっても、あきらめずに物の見方を忘れず、引き継いでいって欲しい」と。その数年前、茂木さんの大壺が日本民藝館展の最高賞を受賞した。館長の柳宗理さんが外遊していたため、賞状を繁男さんが代わりに、茂木さんに手渡すことになったのだが、そのことが強く印象に残っていると繁男さん。
 「茂木さんは並のつくり手ではなく、小鹿田が今も健やかな仕事ができているのは、この人抜きには語れない。そんな人に賞状を自分から渡すことができて光栄だ。作品を評価して賞状を与えるどころか、彼の仕事に深く感謝をして、こちらから頭を下げないといけないのだ」と繁男さんは私に話した。


柳瀬朝夫さんの土瓶。茂木さんの土瓶とのかたちの違いに注目

茂木さん制作の大壺。
50代前半までは肩のラインが膨らんだ(張った)
確かな技術で大物をつくっていた

茂木さんは55歳以降になって力が落ちてきた。この2つの壷はその時期につくられた物。肩が張っておらず、落ちてしまっている

1973年に日本陶芸展で優秀作品賞(外務大臣賞)を受賞した飴釉青流の壷(高さ60×径34cm)と同じ大きさの品。茂木さんから福田豊水さんが譲ってもらい、それを私が購入した。受賞した壷は現在、日本民藝館に収蔵されている

左は2006年の日本民藝館展で最高賞である、館展賞を受賞した小鹿田の大壺。肩の膨らみが足りないのが、右の茂木さん作の大壺と比較してみればわかるだろう

良い大壺のかたちとは?

 茂木さんが19歳の時、小鹿田のならわしに従い窯元を継ぐことになった時、親戚の坂本晴蔵(はるぞう)さんのところに弟子入りをした。ちょうど英国人の陶芸家、バーナード・リーチさんが小鹿田に来山した時期であり、茂木さんはリーチさんのアシスタントとしてリーチさんの優れた仕事を間近で見ている。
 晴蔵さんはかつて久留米で土管づくりに携わっていた人で、ここで大物づくりを習得したという。この均一に厚く、円柱のかたちにする土管づくりの技術を小鹿田の大物づくりへと反映させていった人でもある。厚くした陶土を薄く伸ばして造形していくのだ。 茂木さんは晴蔵さんから学んだ大壺づくりを継承し、工夫して壷甕づくりに迫力のある仕事をした。今もこの製法で大物づくりに取り組んでいる。しかし、いったん厚くつくった物を引っ張り上げる製法は体力も求められる。本来ならば年相応のつくり方に変えていかないといけないのだが、昔ながらのやり方を固持している。
 そのために50歳を過ぎると、自然と力が無くなって良いかたちの大壺がつくれなくなってきた。 柳瀬朝夫さんは、あらかじめ厚くつくるところまでは同様だが、その土を柔らかくしておいて、削り出して造形(シェイプ)していくやりかたをとっていた。造形力が無いゆえの製法なのだが、やはり歳とともに大壷づくりができなくなっていく。
 良いかたちの大壺かどうかを見分けるポイントは肩の張り具合にある。底の径から腰を立てて拡げていき、半分程度でいったん治め、半乾きにして、そこからさらに膨らませながら肩を張らして縁づくりまでもっていく。 
 肩のラインが膨らめば膨らむほど中にはたくさんの物を入れられる。肩の膨らみは、多くの物を収納するという容器としての「用の美」を示すものなのだ。肩を膨らませるためには、力をこめてぐっと引っ張り上げないといけない。ところが、下手なつくり手は十分に引き伸ばせないために肩が下がってしまう。
 茂木さんの大壺とて、50歳を過ぎてからは肩の張りが無い物になってきてしまった。2006年に日本民藝館展賞を受賞した、小鹿田のあるつくり手による大壺もかたちは下手だ。釉薬がきれいに溶けているという理由だけで賞に選ばれたのだろうが、つくり手の技術の違いを見分けられる人も今はいなくなってしまったのである。本来の小鹿田の仕事の良さがわかっていないのだ。 だが、繁男さんが言ったように、時の流れで人がそのように評価するならば、それがその時代の良き物であると言っても仕方が無いと私も黙認しているのだ。


坂本浩二君作の大壺。
肩になめらかな張りがあり、かたちがきれい

後継者に期待

 大壺づくりについては、楽しみな後継者も登場した。まだ若い、今年40歳になる坂本浩二君である。浩二君の父、坂本一雄(かずお)さんは茂木さんに並んで称されるといわれた職人的な訓練度の高い黒木力(ちから)のつくりをよく見ていて、焼物づくりに影響を受けている。
 黒木力さんは大壺づくりもあらかじめ土を厚くするのではなく、最初からきれいに成型していく方法をとった。浩二君は力さん的なつくりの方法を父親、一雄さんの仕事を見ながら、技術を身につけていった。迫力という意味では、かつての茂木さんのような仕事はできないかもしれないが、この製法ならば、たとえ60歳になってもきれいな大壺をつくり続けることができるはずだ。 大物づくりを継ぐ、浩二君のこれからに期待したい。

※坂本茂木さんの仕事は、次回に続く。坂本浩二さんと私の関わりについては、暮らしの手帖34号「ものことノート」に掲載されています。

(語り手/久野恵一、聞き手、写真/久野康宏、副島秀雄)

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