手仕事調査Kuno×Kunoの手仕事良品

Kuno×Kunoの手仕事良品

#033 [嶋田窯の半磁器]島根県石見 2008.10.26

嶋田窯の外観(撮影/副島秀雄)

鉄分の強い陶土と、防水性を高める釉薬

 1972年頃、私は「もやい工藝」を設立したばかりで、同僚のメンバーが運転する車で、仕入れや視察のために九州各地を車で回った後、山陰にも足を伸ばした。その際に、最初に立ち寄った窯元が島根県西部の石見(いわみ)地方の嶋田窯。初めての訪問だった。その頃、すでに江津焼(ごうつやき)が有名で、嶋田窯とその隣の升野(ますの)窯が江津焼を代表する民窯の窯として広く知れ渡っていた。 江津を含めたこの地方は明治以降、大窯業地帯で、とくに瓦を登り窯で生産する窯が多かった。土質は鉄分が少なく、非常に硬質。磁器に近い半磁器のようで、英国のストーンウエアの雰囲気に似ている。
 その強く、水漏れがしにくい土質を利用して、塩を入れる瓶(かめ)や藍瓶や、大きな水瓶(がめ)など野外に放置する大きな粗陶器(あらとうき)を製作。また、業務用の大きなすり鉢といった物も明治期からつくり始めていた。叩いても割れない。これが1300℃で焼ける石見のやきものの特徴。土が強いのだ。磁器と同じで多孔質ではないために防塩と防湿の効果が高い。空気を遮断することができる土なのだ。 石見の隣で県内の出雲地方には来待(きまち)町という場所があり、この町の奥では来待石という石が採れた。その石粉を水に浸すと釉薬「来待釉」になるのだが、この釉薬を施して焼くと、鉄分を含んでいるから、やきものの表面が赤くなる。益子の柿赤釉と同じような作用があるのだ。それに釉薬が高温度で溶けるため、内側に施すと防水の役割も果たすのである。
 この2つの作用から生まれたのが明治以降に普及した赤瓦だ。瓦に来待釉を掛けて焼くと、表面が撥水コーティングされたかのような効果があり、雪国の湿った雪が瓦内部に入らず、表面を滑って落ちていく。また、釉薬瓦なので凍みないために耐久性に優れていた。
 日本海側に鉄道の山陰本線がつながると、出雲の来待石工場で採れた石粉が石見の浜田や江津など周辺の窯元へ貨車で送られ、盛んに瓦を焼かれるようになる。結果、この地域の家々がほとんど赤瓦になり、さらに全国へと一気に赤瓦が広まっていったのである。
 また、来待釉の完璧な防水性を活かして大きな水龜がつくられた。出来上がった物は貨車で運ぶために、人手で運んでいた時代と異なり、重たいやきものでも売れる。そんなわけで、鉄道の開通した明治の中頃以降、大きな龜が引く手あまたとなり、江津や浜田など石見の周辺は一大窯業地として発展していくのだ。

玉づくりで大きな物を成形

 石見の陶工は「玉づくり」という技法で大きな物を成形する技術が身に付いている。これはあらかじめ製品を成形するのに必要な量の土をロクロに置いて挽いていってしまう方法。ふつう大きな物をつくる時は練り付けといって、陶土をひも状にぐるぐると巻きながら上に引き上げていく。これを「ひもづくり」と呼ぶ。
 土は厚みもたっぷりあって、丈夫で割れにくいために、家庭用品としても各地でずいぶん重宝された。
 ところが昭和30年代に、プラスチックなど工業化学製品が現れると、軽くて割れない物の方が良いと、家庭用品としてのニーズは激減。また、瓦も重たい物ではなく、次第に三州瓦のように軽い瓦へと少しずつ変わっていった。 というわけで、私が嶋田窯を訪ねた頃は、石見周辺に瓦を焼く窯場もほとんど無くなりつつあったし、大きな龜をつくる窯元もかなり数が少なくなってきていた。


嶋田窯の登り窯(撮影/副島秀雄)

嶋田孝之さんと話す私(撮影/副島秀雄)

窯の特徴的な製品である大きな瓶(撮影/副島秀雄)

速く大量に、安価につくれる環境 

 しかし、いち早く民藝の陶器づくりに参加してきた嶋田窯の代表、嶋田春男さん(大正12年生まれ)は時流に柔軟に対応した。民藝の視点から、新たな製品をたくさんつくっていったのだ。もともとの環境も幸いだった。陶工自体は周辺に多く控えているため大量に製作可能。おまけに優れた技術力を持っていることから、単価も低く設定することができたのである。そもそも嶋田窯は、出雲の出西窯や湯町窯のような自立した窯と異なり、昔ながらの窯業地の生産形態のため、大量にスピーディにつくり、しかもとても低価格で販売する必要があった。それを可能にしたのは、高い技術と陶土。釉薬が周辺地から入手しやすい環境だった。
 嶋田さんが新たに考えた製品は漬け物を入れる瓶だった。漬け物は塩分を含むので長く保管しておくと、瓶から塩分がにじみ出てきてやきものが壊れてしまう。しかし、石見のやきものは、こうした塩分に強い性質なので、塩分を浸透させない。漬け物を保存するのにふさわしい壷をつくれたのだ。この壷は実用一点張りのやきものだったので、民藝店よりは瀬戸物屋の引き合いが多かったようだ。
 来待釉に並釉薬(なみぐすり)という透明な釉薬をポッと掛けると、来待釉が含む鉄分と赤色と融合して表面の色が黒くなる。この黒色が人気を呼ぶのだが、民藝の眼で見ると、その調子が中途半端で、がっしりとした造形に反して、大胆さが欠けているように感じた。

かたちと色が良くない傘立て

 塩瓶の生産が軌道に乗り、江津焼で民藝の窯といえば、おのずと嶋田窯の名が挙がるようになった。その噂を聞きつけた民藝店はこぞって注文を出した。
 私はというと、まず価格の安さについては、小鹿田焼のリーズナブルさを知るだけに、それほど驚かなかった。それよりもやきものの調子に味気なさを感じてしまった。黒い釉薬、または青い釉薬を掛けても、そらぞらしい風情なのだ。鉄分を含んでいない陶土に、普通の釉薬を掛けても発色性が悪いのは当然であり、九州の場合は鉄分が強い陶土に化粧掛けをするから釉薬の色調が明るさを増す。ところが、静かなねずみ色がかかった暗い土の上に掛けても発色が悪い。そのことを痛切に感じ、はっきり言ってあまり欲しくない。私が民藝店の店主として、嶋田窯とつき合うことはないな、というのがその時の印象だった。
 ところが、当時、傘立てが流行していて、嶋田窯では数千円で買えるとあって、東京の民藝店はどこも奪い合いをしていた。そして、彼らの注文に応じて、嶋田窯は土管状の味気ないなかたち、まさに西洋スタイルの傘立てを大量に製作し、安価に納めていたのだった。

宮内窯との出合い

 嶋田春男さんは剛直で大らかな、昔ながらの職人さんだった。つくる物はあまりに前向き過ぎて、私には不向きだったが、彼の人柄には惹かれた。そこで、またそのうちに来ますからと言って、大物づくりの仕事ぶりだけ見せてもらって他の窯元へと移動した。
 嶋田窯の隣町の温泉津(ゆのつ)には、森山窯があり、陶工である森山雅夫さんとの関わりが強くなり、頻繁に通うようになる。以降、嶋田窯を訪ねることは無くなった。しかし、近所ゆえに、ある日、森山さんの窯にいたら、たまたま嶋田さんが登場。「あれ、あの時の若い人!」と気づかれてしまう。「うちには来ませんね」と言われたので、翌日、久しぶりに嶋田窯へ向かったのだった。
 嶋田さんは、何か欲しい物があるかと尋ねる。だが、製品を見ても何一つ無いのだ。改めて、この窯とはあまり関わらなくてもいいという思いを強くしたのだ。 その頃に、嶋田さんの弟で、福岡県の小石原焼で職人として修行していたこともある人が、婿養子になって戻って来た。それが宮内謙一さんだった。彼は嶋田窯から車で30分くらい下の江津市都野津(つのつ)で窯を構えているから、ちょっとかわいがってやってくれと嶋田さんに言われた。民藝店店主の間では宮内窯がすでに知られていて、嶋田窯よりさらに安く買えて、とても売れている窯だという。
 しかし、実際に訪ねてみると、やはり私の眼に留まる物は無く、この窯とも一切関わらなくていいなと思ったのだ。

日本民藝館でバッタリ会う

 その後、私は日本民藝館展に関わり、日本民藝館に出入りし、民藝運動に携わっていくことになる。そして、今ある物をどうしたら次世代に継いでいけるかを考えなさいと、尊敬する民藝の先達、鈴木繁男さんをはじめ、まわりからも再三、言われたのだった。
 私自身も民藝店を経営しながら、つくり手に良い物をつくるようにアドバイスするのが自分の生き方だと感じてもいた。
 そんな折、国から何かの賞を受賞し、東京を訪ねて来た嶋田さんと私は民藝館でばったり出くわすことに。その場には鈴木繁男さんもいたので、紹介すると、ぜひ話を聞いてあげなさいと鈴木さん。それで3人で一緒に話をすることになった。
 鈴木さんは嶋田さんの面前で「久野君なんかは嶋田窯には行きたくないだろう」と平然と言う。「しかし君、石見の土はすごい土なんだぞ。それを利用する方法を誰も考えていないな」と言葉を続ける。私は「今、現地では民藝品をつくっています」と答えると「そうじゃなくて、もっと考えるべきものがあるだろう!」と鈴木さん。石見の土を使って何か利用できる物は無いだろうかと言われた。
 そこで私なりに考えて、まず森山さんに依頼したのが、ヨーロッパのピューターのかたちを取り入れた平皿だった(詳細は、kuno×kunoの手仕事良品 第15回「島根の洋皿」をご覧下さい)。
 当時、私は出西窯に通い詰めていたため、出雲の民藝館にもしょっちゅう足を向けていた。そこには石見の古作の物、使われていた物がたくさん展示してある。それらの中にたまたま透明ながらも灰色がやや強い並釉薬が掛かったやきものがあった。それをパッと眼にした時、割と良い物だと感応した。そして、これは何かに利用できるのではないかと思った。
 それから、来待釉を掛けた焦げ茶色のすり鉢があった。そのすり鉢もなかなか良い。このすり鉢は吉田屋から寄付された物と書かれていたので、吉田屋という窯がどこにあるのか調べると、宮内窯からさらに山奥へ入った所だという。後日、しばらくして、その窯を訪ねたら、廃業しようとしていたところだった。窯には目片口という、片口をすり鉢にした物があって、これは良いなと思った。

石見の陶土で新作をプロデュース

 早速、このすり鉢をつくらせようと宮内窯に向かった。その帰りにまた嶋田窯に寄ると、嶋田さんは宮内さんと兄弟だから、すでに筒抜けで「あんた、さっき、宮内の所へ行ってきただろう? 宮内に何を注文してきたんだ?」と聞く。うちでもつくらせてと言うが、いや宮内さんに頼んでいるから、そこまでうちの店は大きくなくて、とても買えないからと何か他の物を考えましょうと答えた。
 すると、「何か考えろ」と嶋田さん。その時は窯元も景気が落ちてきたところだったので焦っていたのだろう。
 どうしようかと思案していたら、ふと漬け物瓶に眼が留まった。それ自体は化学的な藁釉薬(わらぐすり)を掛けた、私の気持ちが乗らない物。だが、これに黒い釉薬を掛けたら良くなるのではと伝えると、「黒い釉薬ならここにある。簡単だ」と嶋田さん。来待釉に透明な並釉薬を掛けると黒になる。それを酸化炎で焼けばいいと言う。
 で、その場で思いついたのが、蓋付きの瓶だった。小鹿田焼にも味噌瓶は存在するが、表面積を抑えてカビの発生を防ぐべく、縦長の切立ったかたちだった。スレンダーなために容量も稼げない。ところが、石見の陶土ならば、膨らんだかたちにして、表面積が大きくなってもカビが生じない。まずは石見の土質を活かして味噌瓶を手がけてみてはと提案したのだった。


蓋付きのキャンディー入れ。呉須のコバルト色がポイント

 嶋田さんがお手のもの、すぐにつくれるとだと即答。ならば、どのようなかたちにするかという段階に至った時、嶋田窯で製作してきた、既存のやきものを見ていくと、どうも良いかたちの物が見当たらない。そこで、とにかく注文だけはしておくが、またアドバイスに来るからといったん帰ったのだった。

蓋付きのキャンディ入れを考案

 私はその足で出雲の民藝館を再訪した。そこで昔の物を眺めていたら、蓋物のキャンディ入れがアイデアとして浮かんだ。白い陶土に透明な釉薬をパッと掛けて、櫛描きをする。それから、呉須(ごす)で染め付けをして掛けをしたのだ。石見では蓋のことを「イボ」と呼ぶが、収納の時に便利なように、イボをへこませたいと図を書いて嶋田さんに伝えた。機能面の利点だけでなく、そうするとで、かたちもやわらかくなるのではないかと考えたのだ。
 キャンディ入れとしての役割だけでなく、漬け物鉢になる蓋物。これが手始めの品となった。値段は1000円くらいでできた。
 一度、私が関わり始めると、次々とアイデアが具現化されていく。出雲民藝館にある昔の壷のかたちをなぞった物を製作したり、釉薬を掛けただけではおもしろくない。そこで、昔、石見で釉薬掛けした伝統技法の櫛描きをした上から、塗り刷毛でパタパタと黒に青を流してみたりと、最初の出合いから15〜16年後にようやく嶋田窯と本格的な付き合いが始まったのだった。

実用的な台所用品に民藝の美を加える

 嶋田さんは大物づくりの名人。その技術を活かした大物もプロデュースした。ただし、昔ながらのかたちではおもしろくないからと、かたちもアレンジして日本民藝館展に出品して奨励賞を受賞したこともある。それで嶋田さんからは、すごく感謝された。こんな賞とは今まで縁が無かったと。 「同じ島根でやきものをつくっていても、出西窯や湯町窯の方が賞をとるけれど、うちなんかは取れるわけないと思っていた。あんたのおかげだ」と感激されたのだ。そして、いっそうと嶋田さんのような大物づくりの技術を持った人が石見から消えてしまうのは惜しいからなんとかしたいと思った。 当時、嶋田窯では登り窯を使わなくなっていた。なぜかというと、燃焼効率から松の割れ木を大量に必要としたから。松の割れ木は、その当時でも一束で800円くらい。それが1000束だったら80万円に。経済的に見合わないのだ。そのためにガス窯で焼かざるを得なかったのだ。 だが、その頃、ふるさと創成の機運が高まっていたことにより、地方を活性化させようとする事業が起こる。 その一環で、石見で助成を受けながら、登り窯に年に一度は火を入れられることになった。その時には窯の中に大きな物を詰めて焼いてもらうようにしたのだ。嶋田さんの息子さんは、孝之君といって、僕と年齢が同じだ(昭和22年生まれ)。跡継ぎの彼には睡蓮鉢をつくってもらった。昔ながらのかたちの物に黒い釉薬を掛けたり、青い釉薬を打ち掛けたりした物をつくり、日本民藝館展に出した。 嶋田窯は素朴な物づくりが魅力なので、その良さを残すような物を依頼するように今は努力をしている。台所用品をつくるのが得意な窯ゆえ、今後も若い人の間で気軽に日常的に使えるような物を彼らと共に提案していけたらと思う。 値段が安く、割れにくい。嶋田窯のやきものは実用的な物ゆえに瀬戸物屋に並んでしまいがちだ。だが、そこにひと味、民藝の美しさを加えていきたいと考えているのだ。

(語り手/久野恵一、聞き手/久野康宏、写真/久野康宏、副島秀雄)


並釉を掛けた4寸のすり鉢がある。安価なこともあって今、人気が高い。
「大地を守る会」扱い*並釉を施したうつわを還元焼成すると青磁色に呈色する。 その効果を活かした。並釉とは透明になる釉で沖縄ではつや出し、小鹿田ではフラシと呼ばれています。

これは味噌瓶として売り出そうとしている物。
蓋のつまみを収納に便利なように平坦にした

黒と青磁のどんぶり945円。赤化粧をした上に並釉薬を掛けると、このように発色する
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