手仕事調査Kuno×Kunoの手仕事良品

Kuno×Kunoの手仕事良品

#034 [蟻川紘直 毛織物語]岩手県盛岡市青山町 2008.11.27

同世代の交流

 私が工藝店経営の仕事に入って間もない頃。盛岡の工藝店「光原社」を訪ねる機会があった。経営陣の一人は6歳上の専務、及川隆二さんだった。光原社の店名は宮沢賢治が命名し、東北を代表する民藝店として名高い。及川さんとはその後、33年以上のおつきあいとなり、今でも彼のもとを訪ねれば、家に泊めてもらったり、夜通し語らう間柄になる。
 当時、及川さんは光原社を継ぐために、東京の呉服問屋で修行してから戻り、まだ5〜6年ほどしか経っていなかった。たまたま同世代の、盛岡郊外、青山町の工房でホームスパンの仕事を始めた故・蟻川紘直(ひろなお)さんと知り合い、親しくなった。そして「久野さん、一緒に会いませんか?」と彼と引き合わせてくれた。
 私は蟻川さんに会う時まで、ホームスパンという言葉を知らなかった。民藝で織りの仕事といえば、藍で染めた木綿の仕事, あるいは裂き織りくらいかなと、その程度の認識しか無かったのだ。そんなわけで、ホームスパン製品については、羊毛で織り、それを服地にしたものが一般に高級品として販売されていることで、私には縁が遠いものと考えていたのだ。


1996年「もやい工藝」10周年で挨拶をする蟻川紘直さん
(写真提供/久野恵一)

1980年、岩手県久慈市の八木澤由蔵さんが日本民藝館展の館賞を受賞したので(久野恵一が出品)、及川さん(右前)、蟻川さんとともに賞状を渡しに訪問した(写真提供/久野恵一)

蟻川工房の織り機(写真/大橋正芳)

飛んでいた母親に反発

 蟻川さんはとても実直で、物事を非常によく知っている方。自ら織り、とくに「染め」に強い意識をもっていた。博識な彼から得ることは多かった。蟻川さんの母は福岡出身の福田ハレさん、父は群馬県の草津温泉出身。どういうきっかけがあったのかはわからないが、20代の頃、ハレさんは民藝運動に関心をもち、柳宗悦を慕って、会いに行ったそうだ。そして織りの勉強をしたいと、八丈島を訪ね、黄八丈の山下さんのもとで学ぶ。その後、盛岡のホームスパンの織り手、及川全三(ぜんぞう)さんに傾倒していく。及川全三さんは当時の民藝界で知らない人がいないほど有名だった。
 ハレさんは、戦前の時代に、ご主人と子供を置いて、その仕事に飛び込んでいった。当時では、“飛んでいる”女性だったにちがいない。福田さんは及川全三さんのアシスタントとしてホームスパンの仕事に全身全霊を傾けたのである。
 置き去りにされた、息子の蟻川紘直さんは祖父母に育てられたが、両人とも亡くなられてからは、ハレさんに引き取られることになり、盛岡へ移住した。そんな境遇だから、若い頃は母親を恨み、オートバイで旅に出て放浪するなど奔放な日々を過ごしていたらしい。ハレさんも自由な人だから、子育てを放り投げて仕事に夢中になっていたそうだ。ただ、ハレさんは非常に良い仕事をされていた。
 蟻川紘直さんもそのうちに織りの仕事をせざるを得なくなるのだが、母の元では素直に学ぶことができないため、仕事ができなかった。そんな状況を心配したのが、宮沢賢治さんの先輩で、「注文の多い料理店」を出版した、「光原社」の及川四郎さんだった。民藝に高い志をもった方で、「お母さんは立派な仕事をしているのに、君は何をやっているのか」と紘直さんを諭したという。そして染織家の柳悦孝(よしたか)先生を紹介し、修行に行くように勧めたのだった。 柳悦孝工房には、ちょうどその頃、お弟子さんであった沖縄の首里織りの類いまれに優れた織物作家、大城志津子(しづこ)さんがいて、また岐阜・郡上紬(ぐじょうつむぎ)の宗廣陽介(むねひろようすけ)さん、さらには南房総・唐桟織(とうざんおり)の斉藤広司さんが同期生だった。このことは蟻川紘直さんにとっては大変な力になったであろうと想像する。それぞれが伝統を背負い、織物工芸家としては最高ランクの人たちだったからだ。


化学染料を用いながら、良い風合いをもつ糸
(写真/大橋正芳)

展示で眼を鍛える

 柳悦孝工房では、日本民藝館の展示もお弟子さんたちに手伝わせていたのだが、この展示というものは自分の眼力を磨く、最大の力になる。物の善し悪しを決め、物の美しさをどう評価できるかは展示にかかっているのだ。日本民藝館の展示陳列が優れているのは、柳宗悦の展示の仕方、そしてそれを継承する鈴木繁男、岡村吉右衛門、柚木沙弥郎(ゆのきさめろう)が必死に展示を学んで柳宗悦の眼に近づけていったから。物を見分ける、眼力を磨くという意味では彼らが日本民藝館の展示に携われたのは、大きな意義があったであろう。 私も30年前に2年間ほど、日本民藝館の展示に関われた時は自身がものすごく進化していくのがわかったし、展示を教える第二世代の先生たちが健在で、その方々の厳しい物の見方、並べ方をつぶさに見られたのは幸運だった。蟻川紘直さんもおそらく他の先生の厳格な物の見方を見ながら学んだと思うし、同時に柳悦孝さんの厳しい織物の修行も受けていた。

風合いか、耐久性か

 その後、蟻川紘直さんはハレさんのもとへ戻って、共にホームスパンの仕事を始める。しかし、ハレさんは及川全三さんの織り方を受け継いでいるのに対して、蟻川さんは柳悦孝さんの教えに沿って取り組むことになる。ここで問題なのは両者の織物の方向はまったく異なることだ。及川さんは風合いを大事にして、岩手県の草木の染料を活かし、天然染料で染めた物で織っていくのを道としていた。
 柳悦孝さんは都会的であると同時に確固たる信念をもっていた。「着るということは使うということである。耐久性がいちばん大事である。そして着るということは、着やすいキレを使わないといけない」と説いた人だった。そのため、天然染料を使えば退色するし、長持ちしない。風合いを求めれば、織りがしっかりしていないから、すぐによれてしまう。だが、ホームスパンの織りはすぐに擦れてしまう欠点があった。これではいけない、もっとしっかりとした織りをしなくてはというのが柳悦孝さんの織りの仕事に取り組む姿勢だった。蟻川さんは柳さんから薫陶を受けているために、結果として織りへの姿勢に親子間で対立が起きてしまうのだ。とはいえ、ハレさんは高齢になったこともあり、十歩百歩譲って、息子に工房を譲ったのであった。
 蟻川さんの妻、喜久子(きくこ)さんの兄は著名な画家であるし、芸術的センスを備えた一家だったと聞く。そのような感覚の人を妻として迎え、紘直さんは工房の中心となって仕事に励むのだが、つくっても最初はそう売れるわけではない。そのころ、盛岡の「光原社」の及川四郎さんの孫、及川隆二さんが跡を継ぐことになった。前述したように、紘直さんと隆二さんは歳が近いこともあり、すぐに友人関係となり、販売をある程度、光原社に託し、安心して織りに専念できる状況が出来上がってきたのである。
 そこへ私も加わり、及川さんから経済的なサポートを受けつつ、3人で東北地方の手仕事調査をずいぶんとおこなった。私は蟻川さんの仕事を少しずつ見て、時々、蟻川さんの家にもお邪魔して宿泊させてもらった。

家庭で紡ぐ

 「ホームスパン」は「ホーム」と「スパン」を合わせた言葉。もともと英国の綿羊業に起源がある。羊から刈り取る綿は、良い物は出荷し、残った素材としては屑のような物を捨てるのはもったいないと織り始めたのがホームスパン。つまり、工場に持って行かず、家庭で紡ぐこと。普通は糸にしてから染めるのに、ホームスパンの場合は先染めといって、紡いだ綿を染めてしまい、それを糸にする点がユニークだ。
 蟻川工房で感心したのは、織りの下積みや雑用をこなすお弟子さんを受け入れるのだが、彼らには2年間の修業期間が与えられていて、その間に一人前の織り手になれる育て方をしていることだ。
 そして、この工房は使うことに大きなウエイトを置いている点に特徴がある。風合いよりも使うことを目指しているのだ。そのために、しっかりとした織り方をする。 お弟子さんの育て方も、羊毛の紡ぎ方から始まり、次に退色の少ないように化学染料を用いつつも、天然染料に負けないくらいの風合いを持たせる先染めの勉強をおこなう。さらに糸をつくり、機織り機に掛ける術を学ぶ。このように一貫した仕事を習得できるので、修行では得られるものは多いと思う。


工房の様子。先染めした綿を糸にする(写真/大橋正芳)

華やかさと柔らかさを合わせ持つ色合いのショール

生き方に共鳴

 蟻川紘直さんが今のつくり手と違うのは、自分が身近に使う物はすべて美しい物ではないと嫌というスタンスをもっていたこと。全部、自分の眼で選んでいたのだ。今のつくり手は自分で使う物は自分でつくった物ばかりで、他人のつくった物は使わない傾向が強い。 蟻川さんは光原社を訪ねると、貪欲に物をくまなく見て、好きな物はどんどん買っていた。物をもらうなんてことは考えない。経済的に苦しくても、欲しければ買っていた。しかも、頑張って手仕事をしている仲間が展覧会を開けば、思い切って制作した物を買ってあげてもいた。そういう仲間意識も非常に強い人だった。
 こういう人が民藝を支えてきたということだと思う。私も蟻川紘直さんのこうした生き方に共鳴し、大きな影響を受けた。また、蟻川喜久子さんも夫とともに、若い人を当たり前のように育てていた。
 蟻川紘直さんは、同時に、織物に関しての姿勢はかなり厳しく、一貫としていた。ただし、ひとつだけ私の嗜好とは方向の違いもある。私はどうしても民藝人なので風合いというものが好きなのだ。天然染料の方に惹かれてしまう。
  私は蟻川紘直さんとおつきあいさせていただいたことで、織物のこともずいぶんと理解できたし、織物の善し悪しを見分けられるようになり、また、天然染料で風合いを大事にする織り方と、天然染料に近い化学染料を使い、風合いよりも、しっかりと着ることの両極端が見えてもきた。どちらが良いというのではなくて、耐久性をとるか、美しさをとるか、いまだに結論が出ていない。


手間もかかることから高価で、なかなか気安く買えるものではない。蟻川さんは私の状況がよくわかっていたので、よくキレをいただいた。仕立ては自分でやりなさいと、ずいぶん恩恵をこうむっていた。このジャケットはキレから仕立てた物である

ホームスパンは木綿や絹とまったく違って、毛を織ることで染料をやわらかくする効果がある。化学染料を使っても、なんとなくなじんできて温かみがある。ホームスパンは雪の中で防寒的な機能を果たすけれど、それだけではない温かさを醸し出す織物だ。これは蟻川さんのキレで母に仕立ててもらった車運転用のベスト。ちなみに陶製ボタンは小鹿田焼の柳瀬朝夫さんが制作した物

次世代へ継がれる仕事

 蟻川紘直さんはお酒の飲み過ぎもあってか、8年前ほどに早世されてしまった。しかし、織り手として共に仕事をされていた喜久子さんが工房を継がれた。そして、やはり自分の年齢的なことも考え、伊藤聖子さんという若くて良いお弟子さんが育ってきたので、さらに工房を譲って蟻川工房という名でありながら、他人が継ぐシステムをつくってくれた。これは蟻川紘直さんが敷いたラインだと思う。
 蟻川工房はこれからも跡を継ぐ人が地道に人が着るための服を織っていくだろうし、一方で風合いを求める人もいるだろう。その2つの要素が上手にかみ合いながらいけば良いなと考えている。

(語り手/久野恵一、聞き手/久野康宏、写真/久野恵一、久野康宏、大橋正芳)
※11月25日発売「暮らしの手帖37号」にて、「手仕事の現在」という特集があり、蟻川工房の仕事が紹介されています。こちらも参考にご覧ください。


蟻川工房の製品の中では
買い求めやすいネックウエア。
5250円


小さなサイズのマフラー
12000円


蟻川紘直さんは古典的な物も復活させないといけないと考えていた。
岩手県では木綿が採れる以前、麻を着ていた。
「汗はじき」と言って夏に着ると快適な織物があったのだが、
これは藍で染めた物を麻の中に織り込み、大胆な縞模様にした、
とても素朴で単純な物。
鎌倉「もやい工藝」が完成した時にお祝いでいただいた。
宝物のようにして大事にしている


さまざまな色があるマフラー
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