手仕事調査Kuno×Kunoの手仕事良品

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#035 [堀越焼のスリ鉢]山口県防府市 2008.12.28

雑誌記事に刺激を受けて

 現在発売中の雑誌「ディスカバー・ジャパン2号」(エイ出版)の中で、目黒「クラスカ」の商品企画ディレクター大熊健郎さんが推薦したスリ鉢を目にして刺激を受け、堀越焼を取り上げたくなった。記事には、そのスリ鉢が堀越焼の物であると書いてあったが、大熊さんも含め、いったん素朴な民窯としての歴史を閉ざしてしまった堀越窯の歴史を知る人は、ほとんどいないだろう。そこでこの窯の過去を振り返って述べてみたいと思う。

 30数年前、「もやい工藝」を発足する少し前に、ともに立ち上げた仲間の一人が東京、小金井のとある参考資料館を訪ねた。そこは中央線沿線、荻窪駅前で「いずみ工藝」を営む故・山口泉さんが運営する施設で展示品の販売もしていた。仲間はそこでおもしろいスリ鉢に出合い、購入してきた。このスリ鉢は堀越焼だったのだが、私はこの窯の焼き物を見るのは初めてだった。
 素朴で野趣があふれ、用に徹したかたち。民俗学を学んできた私には、このスリ鉢は小鳥、メジロのすり餌をつくるのに使う物であると一目でわかった そんな民具が民藝店で売っていることに驚いた。その頃の私は民藝の視点にかなう、美しい物かどうか、わからなかったからだ。しかし、素朴さに惹かれたし、民藝店が扱う物としてはこのような珍しい焼き物を手に入れたいとも思った。
 このスリ鉢は窯元まで訪ねないと入手できない。他店のオーナーからぜひ購入してくれと言われた。それで車で仕入れに出かけることになったのだ。どのくらいの値段で買え、どれくらいの量を仕入れるべきか、見当もつかなかったけれど、とにかく訪ねてみようということになったのだ。これが最初に堀越焼を訪問するきっかけである。
 まず地図を広げ、堀越の地名を探すと、山口県防府市の海沿いにあることがわかった。出かける前に民俗学的なリサーチも進めた。大学の先輩であり、宮本常一さんの指示で日本各地の焼き物の産地を歩いている神崎宣武さんが詳細な現地調査をしていたために、事前に堀越焼についての予備知識を十分に得られたのだった。


小鳥の餌を擦る4寸と5寸5分のスリ鉢。擦った餌はそのまま中に入れておくために、このような深いかたちをしている

「ディスカバー・ジャパン2号」で紹介されているスリ鉢。これは現在、堀越窯でつくられている物。昔つくられていた小鳥用スリ鉢のかたちを継承しているが、私たちの食材を擦るには向かない。スリ鉢は平たく、反らせたかたちをしていないと使いづらいのだ

これが本来の平型スリ鉢。俗に「スリ鉢状」という呼ばれる形状だ

素朴な粗陶器をつくる窯

 堀越焼は昔ながらのひもづくりを製法とし、陶土をひも状に巻いて、それを叩いて締めて大きな甕(かめ)や壷をつくっていた。周辺の農村で使う実用的な粗陶器をつくる窯場だった。
 そこで昔ながらの伝統を続ける唯一の窯元が賀谷初一(かやはついち)さんという方であった。日焼けして健康そうな、がっちりとした賀谷さんは素朴で気骨を持った人だった。まるでつくられる物が反映しているかのようだった。賀谷さんは古めかしく大きな陶工房で、叩きという技法により物をつくっていた。かなり大きな焼き物は一人では挽けないために、手伝いの人を横に配して、ロクロ台の上で乾かしながらつくるという、昔ながらの素朴なスタイルが見られた。その時は、二人のロクロ職人が健在で、作業していたが、数年後には、この二人とも辞められた。 焼き物は驚くほど安価で、窯場にはスリ鉢が野積みにされていて、その中から好きな物を選ぶ。窯出しをすると、庭先に全部重ねて置いて、そこへ業者が来て運んで行く。焼き物のほとんどが粗陶器のため、ていねいに扱わず、業者は縄でくくって運搬していた。
 その頃のいちばん大きな焼き物は4斗(よんと)の水甕がある。これは底の方に水を抜く栓を設けてあった。肥料壷あるいは肥甕(こえがめ)とも呼ぶ物も。これは野原に置いて、中に肥料である人糞を入れて貯める焼き物。土中から引き出せるようにと内側に縁が付いている。
 その縁には釉薬をかけていないのだが、それは巨大な窯で3段に重ね合わせて焼くためだ。ふつう重ねる時にはロウ引きをして焼き物どうしがくっ付かないよう処理するが、この窯はそんなことをせず、縁の上に砂を豪快にふりかけ、乱暴に焼くのだ。 また、ひも状の陶土を巻き上げ、外側を板で叩くことで締めるのだが、その際に生まれる叩き目は活き活きとして、誰がつくったのかアピールしなくても存在感を放っていた。その模様は美しいとも感じた。
 釉薬は鉄分が強いマンガン釉。それを無造作に、大胆に、振りかけるだけだから真っ黒になる。さらに登り窯を石炭で燃焼するために、やや抑えて黒光りする仕上がりとなる。これは登り窯特有の調子なのだ。こうしてつくられる野壷は、賀谷さんそのもののようであった。焼くと窯変(陶磁器を焼く際、炎の性質や釉薬の含有物質などが原因で予期しない釉色や釉相を呈すること)によって黒が茶褐色や錆色に変色することもある。それは陶工が仕上がりを狙ったわけではない。とにかく実用の物をつくることに徹していたのだ。


4斗(約72リットル)の容量がある水甕。ひも状の陶土を巻き上げて成形し、外側を板で叩いて締めている。大きな甕や壷の表面には叩き目が模様となって残り、美しいと感じられる。傘立てにも最適で、価格も手頃だったために、ずいぶん私も販売させてもらった


フタ付きの味噌入り1斗壷と、フタは無いが、釉薬の流れ具合がきれいな味噌入り壷。
この壷は味噌を入れた際に平面がカビやすいために、細長の切っ立ったかたちとなる。
これらの水甕や壷は私が所蔵する堀越焼の中でも良品。
とくにワラ白釉薬の打ち掛け流しは際立って良いと思う

砂の上で焼かれる

 堀越焼の焼き物は敷いた砂の上で焼かれる。その砂の中に時々、貝が混じっていると思いがけずに「貝高台」となることもある。もともとは、貝は石灰質で焼くと白くなり、陶土に付着することもないからと、海辺にある産地では焼き物を重ね合わせる時に、焼き物どうしが焼き付かぬよう用いていたのだろう。その貝の模様(目跡)が焼き物に出るので、貝高台といったりしていた。そうして偶然に生まれる焼き物を茶人は美意識をもって特別な物としてとらえたのだろう(陶磁器に釉薬をかけて焼く場合、台や他の器物に融着しないように通常は小さい台や支柱にのせて焼くことが多いのだが、堀越焼は砂の上に載せて焼いたのだ)。


コンニャクのスリ鉢。昔は各家庭でコンニャクをつくっていた

肥料壷。土中から引き出しやすいよう、内側に幅広くとった縁を返してある。この中に落ちたら一大事

しょう油や焼酎、酒などの容器に用いる
雲助(うんすけ)

継がれる伝統

 大熊さんが選んだ、現代のスリ鉢は白く艶消しした(マットな)釉薬を掛けてある。このスリ鉢自体のかたちは非常に好ましい物だけど、私たちが用いるスリ鉢としては使いにくいかたちである。
 縁はぶつけても割れにくいように返してあり、その分、厚めになっている。その厚い縁が全体のかたちを良く見せているのだ。
 このかたちこそが堀越焼の伝統であり、それを現代の陶工がそのまま継承しているのだろう。陶工がスリ鉢とはこういう物だと認識している。二重に縁を返してあるのはなぜなのかとは、あまり考えていないのだと思う。ということは、幼い頃から身近にスリ鉢があって、そのかたちを目で見ていたということを意味する。伝統とはまさに地下の水脈のようなものなのだ。掘り当てるのではなくて、黙っていてもおのずと沸き上がってくるものなのである。
 スリ鉢は内側の「目」が大事だが、その目も非常に素朴に掻いてあり、あまりてらいが無い。大熊さんが物を選ぶ視点はそこにあるのかなと思う。しかし、マンガン釉薬で焼かれた物だったら、きっと彼は選ばなかったのではないだろうか。艶の無いマット釉薬を掛けてあるからこそ目に留まったのであろう。
 私は大熊さんの選んだスリ鉢を見て気づいた。いったん大きな窯が廃業したとしても、その近くで細々ながらやっていた窯が代替わりすることで新しい物をつくりだす。その時に、思いもかけず、伝統の力が表出することがあるのだと。
 これは大変、好ましいことである。大熊さんの視点は別にしても、やはりこのスリ鉢には物体としての力強さが宿っているのだ。外見は柔らかな白をまとって現代的な雰囲気だけど、縁の丸みや、きちんとした注ぎ口の付け方は伝統を継いだかたちなのである。
 今はこんな鉢で小鳥の餌を擦るなどありない時代だけれども、どうやって使うかは各自の自由。花を活けてみたり、料理を盛ってみたり。このような極めて粗野な焼き物に料理を載せてみると割に映えたりするのだ。


瀬戸内海の穏やかな海を見下ろす窯場にて。
陶工の賀谷初一さん(明治38年生まれ)と、すえの夫人

温かな思い出

 私は20代の頃から賀谷さんのもとへ15年ほど通った。九州を回るために車で出向く際には、必ずこの窯に寄った。行きに自分なりに良いと思う物を選び、取り置きしておいてもらって、九州から帰る時にまた寄って車に積んで帰った。
 九州から夜、車を飛ばして、関門トンネルをくぐり、夜半に海に面する作業場の前にて車中で寝ていると、翌朝、人懐こそうな顔をした、すえの夫人が窓を指でトントンと叩いて起こしてくれる。「朝飯(あさはん)ができているよ」と呼ばれて家に上がると、賀谷さんが温かく迎えてくれる。そんな嬉しい思い出が忘れられない。
 たいした取引でもないのに、個人的なことにも随分とお心遣いをしていただいたものだった。

最後の民窯

 堀越は穏やかな瀬戸内海を見下ろす集落。隣には末田(すえだ)という集落があり、互いに100メートルも離れていないほど隣接しているのに、気質の違いか、融合せず「堀越焼」とは別称で「末田焼」と呼ばれる焼き物を制作していた。その頃、末田には「安澤窯業」という植木鉢を専門に焼く窯がわずか1軒のみあり、その窯の若い後継者が昔からの一人の職人とともに、錆釉薬を用いて、賀谷さんのような粗陶器の制作に取り組んでいたのを覚えている。彼は公募展への出品やギャラリー個展を目指していたため、私は取り合わなかった。しかし、徳山市の周防民藝店が多少なりとも関わっていたようだ。
 高台にある賀谷さんの窯のすぐ下には小さな港があり、つくった物はそこから瀬戸内海・周防灘をはさんで真向かいの、九州は国東半島へと運ばれて行った。そのため、私が国東半島を回ると、あちこちの野原で堀越焼が目に入るのだ。国東半島では隣県の大分で焼かれる小鹿田焼ではなく、山口県の焼き物を使っていたということがおもしろい。 堀越がある周防市の近くには小野田市という工業地帯が控え、そこでは硫酸瓶をつくっていた。酸度の強い硫酸を入れるために瓶は分厚くつくる必要があった。また、土管や植木鉢もつくっていた。堀越もそうした近在の歴史をふまえて粗陶器を制作してきたのだが、上下水道が発達すると、まず水まわりの物が不要になり、いっきに需要が無くなった。つまり肥甕や水甕が要らなくなるのだ。それからコンニャクも家庭で擦らず、市販された物を買うようになると鉢が不要になる。
 こうして天明8年(1788年)に始まる堀越焼は衰退していくのだが、賀谷さんは86歳で亡くなるまで意地で守り抜いた、最後の民窯だった。 20年以上前のことだ。民藝運動の先達、鈴木繁男さんと車で九州を回った時に山陽本線徳山駅で待ち合わせをしてから、せっかくだからと、まだ一度も見てないという堀越焼にお連れした。鈴木さんは驚き、こう言った。「久野君、この工房がいわゆる昔ながらの民窯の形態なのだ。おそらく日本国中を探してもここ以外は無いだろう。この姿を目に焼き付けておきなさい。写真に撮っても良さは伝わらない。目に焼き付けて仕事のあり方を覚えておきなさい。いつか役に立つはずだから」
 それから数年後、名古屋の東海テレビが制作する「ふるさと紀行」という長寿番組で民藝を取り上げることになった。番組のプロデューサーは松本民藝家具創始者の池田三四郎さんに相談したのだが、26本の番組のうち、その半分を私が関わるよう池田さんから指示された。そして、私はディレクションした番組の中に堀越焼を入れたのだった。放映時間は10分ほどだが、とても良い内容なので、いずれ皆さんにもお見せしたいと思う。私は、この時、記録に残しておいて良かったなと今になって感じている。

堀越窯は終わらない最後の民窯

 賀谷さんが高齢となり、仕事を終えようとしていた時は民藝が見直され始めた時期で、私が出品した賀谷さんの焼き物が日本民藝館展で協会賞を受賞したこともあった。また、日本陶芸展でも賞候補になって入選も果たした。すると、日本を代表する最後の民窯として堀越焼が注目を集めるようになる。
 素朴以外の何物でもないが、黒い無地の焼き物は何か惹き付けるものをもっている。このような嫌み、嫌らしさ、自己主張などがいっさい介在しない焼き物が平成の時代まで、近代化された日本でつくられていたということを驚異に感じたに違いない。
 堀越焼が再評価されてきたこともあって、賀谷さんは跡継ぎをつくりたいと思われた。長男はわりと早く亡くなられていたので、ずっと賀谷さんのかたわらで素焼きの植木鉢づくりに専念していた二男の省三さんが継ぐことになった。しかし、省三さんは、賀谷さんが亡くなられた直後、子供と遊びに行っていた海で溺死してしまう。継ぐ人が一人もいなくなってしまったのだ。結局、堀越窯はとうとう潰れてしまった。
 その時に、私は雑誌「民藝」(481号)で賀谷さんを偲ぶ追悼文を寄稿したら、編集長になったばかりの濱田琉司さん(陶芸家・濱田庄司氏の長男で、元毎日新聞の編集委員)に「あなたの文章はなかなか良い」と褒められたのを覚えている(そのくだりは、「シルタ9号 手仕事の未来のために」で濱田琉司さんが記述している)。
 堀越焼の焼き物は今見ても存在感があるし、いったん無くなっても、伝統を継承する人がいるということは素晴らしいと思う。日本の文化は絶えたと思っても、案外どこかで生き返ってくることもあるという希望を今回の記事が抱かせてくれた。

(語り手/久野恵一、聞き手/久野康宏)


大砲の玉のような陶器はお墓の前で土中に突き刺して使う、墓の花立てに使う物。外村吉之助さんはこれを「野花立て」と命名した。周防大島の墓地では、あちこちにこの野花立てが見られ、未だに使われている)
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