手仕事調査Kuno×Kunoの手仕事良品

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#036 [失われた手仕事 九州のカゴ編] 2009.01.31

人生の旅のはじまり

 学生時代、私は武蔵野美術大学で宮本常一先生のもとで、民衆が一般に使う暮らしの道具(民具)の収集に携わったことがあった。先生は「あと10年もすれば、日本の社会の中から手仕事でつくられた、こうした暮らしの道具は消えてしまうから、今のうちに調査しておかなければならないだろう」と言われた。
 それで、今つくられている物、そして過去の物両方を対象に、陶磁器、竹細工その他の諸職、という具合に先輩方が分担して、全国を歩き回って調査をおこなった。
 先輩方と各地を歩いたこともあった私は、民具に興味を抱いた。ところが、そんな思い出があったこともあり、この仕事に入ったものの、はじめの頃は「民具」と「民藝」の違いがわからず、民具イコール民藝と思い違いしていた。
 そのため、自分には民藝の物を扱う仕事はお手の物という自負もあった。また民具を集めることは、自分には好都合な仕事だと感じていた。
 翌年、免許を取って、車という自由に収集の旅に出られる手段を得た。現在の仕事へとつながる、自分の人生が始まったのだった。
 訪問先として、とくに九州には強い憧れをもっていた。九州には竹細工の産地がたくさんあり、とりわけ別府が有名だが、先輩によると、別府は中心だけど、九州各地のどこに行っても竹細工が当たり前のように生活の中に溶け込んでいるという話を聞いていた。実際、生活に密着した九州の竹細工が民俗資料庫の中に納まっていたので、どこに行けばそれらの物に出合えるのかは、だいたいわかっていた。そうして、つくった人に会いに九州の旅が始まったのだ。いわば、私の人生の旅は竹細工収集からはじまったといっても過言ではない。

力不足を後悔

 以来、約35年間歩いてきた過程で、出合ってわずか3?5年くらいで失われた仕事もあった。竹細工をつくる人が亡くなったり、仕事を辞めざるを得ないほど老齢化してしまう。あるいは、国民年金の影響もある。年金が支給されるようになり、まだ仕事ができても、辞めてもいいと考える人が多くなったのだ。ということは、国民年金の年収程度しか、仕事をしても収入が得られないことを意味している。20?25年くらい前は、そういう人たちが多かったのである。
 また、もっと大きな問題は後継者がいなかったこと。こういう仕事に就いても将来に希望が無いし、実際食べていけないからだ。ところが約20年前のバブル期に、竹下首相が「ふるさと創成」を掲げ、各自治体で手仕事をする人に着目した。ふるさとのお国自慢的にそういう仕事に脚光を浴びさせようとする動きが起こったのだ。
 しかし、この段階で、すでに後継者の人はいなかった。同時に私たち民藝運動を継続している者は、いかに売れるかというところに眼がいっていたことも大きな問題だった。とはいえ、工藝店がつくり手を支えていくには経済的リスクも非常に背負うことになる。売れるか売れないかわからない物をどれくらい仕入れられるか。さらに現在のような交通手段が無かった時代のため、簡単に物を仕入れることもできない。こういったことをトータルに考えていくと、手仕事に対する考えが弱かったし、民藝にどう関わっていくかという志が欠如していたのだろう。 それで、今回のテーマは「これだけ素晴らしい仕事があったのに・・・」と残念に思う良品を今のうちに紹介していきたいと思った。

竹細工が盛んな背景

 かつて九州は竹細工が盛んな地域だった。それは、温暖な気候と特有の地質が竹の生育に向いていたことが作用している。竹細工の素材となる真竹(まだけ)、孟宗竹(もうそうちく)、破竹(はちく)といった真竹科の竹がふんだんに入手可能なのだ。竹からヒゴをつくる際、水に浸して柔らかくせずとも、そのまま剥がして取ることができる。竹には皮の下に身(み)があるのだが、本州の場合、皮と身の両方を竹細工の素材として使う。竹を採取する業者から仕入れているために素材をぜいたくに使えないという理由が背景にあるからだ。
 ところが竹が豊富な九州の場合は本州と異なり、つくり手自身が竹を採取しているケースも多く、皮だけを使えるくらい竹が豊富に揃うのである。そのため余った身の部分は捨てられるのだ。これが本州と九州の竹細工の質の違いにつながっている。
 先輩方の情報をもとに、私がまず注目したのは福岡県だった。福岡は大きく分けて、筑前と筑後に分かれるが、とくに筑後平野は面積が広く、中心を筑後川が流れ、農業が盛んであった。また、有明海に面しているため漁業も盛んだ。
 筑後川では川魚漁がおこなわれ、魚を獲るための道具が求められた。それから筑後中央に八女(やめ)というお茶の産地がある。お茶の産地ゆえに、山に近く、椎茸を栽培している。そのためお茶と椎茸を採取するための道具が必要になるのだ。さらに山が深いために森林用のカゴも必要となった。
 こうした風土の影響で、あらゆる意味で生活に密着した竹細工が生まれた。プラスチック製品が氾濫する以前、昭和30年代前までは八女市を中心に竹細工を生業とする人が相当多くいたのである。

「用即美」のカゴ

 車での初めての九州の旅の際だった。久留絣(くるめがすり)の織元を訪ねた後、筑後市から八女市に入る所で、偶然に竹細工をつくる販売店が眼に入った。あわてて寄ってみたら、当時はまだ70歳代の石橋献吾(けんご)さんに出会った。いかにも人が良さそうで気骨がある職人だった。石橋さんは道路に面した場所で販売を兼ねた工房を構え、竹細工を編んでいた。並べられたさまざまなカゴの中にひときわ目につく立派なカゴがあったので驚いた。このカゴは「丸メゴ」といった。メゴは九州のこの方面の言葉でカゴの意味。丸いかたちのカゴだから丸メゴと呼んでいた。これは二つを天秤棒にくくり付けて、かついで歩き回るためのカゴ。中には籾殻(もみがら)やお茶を入れて運んだそうだ。
 とても立派なカゴで、底を見ると「イカダ底」だった(イカダのように編まれていた)。そのまわりのヒゴが細く、縦骨に竹の皮を用いていた。これは重たい物を入れて運ぶためである。また縁には紐を通すために「力竹」を巻いて、しっかりとつくってあった。「用」を満たし、なおかつ非常に美しいかたちをしている。これこそ「用即美」。このカゴは民藝の物として取り上げられて当然の物なのだ。 この初めての九州の旅から約5年後、私は日本民藝館展に関わるようになった。竹製品を出品しても、当時の評価は低かったけれど、10年ほど経つと、こうしたカゴ類に多くの眼が向いてくるようになった。この丸メゴは最初に日本民藝館展で入賞したカゴなのだ。


丸メゴ。竹の皮を使った縦骨はいかにも頑丈そうだ。
置いた時に安定するようにと底もしっかりとつくられている

丸メゴの底はイカダ底。ゴザ目で編み、ヒゴは細かい。
そのヒゴ(九州では「ヘゴ」と呼ぶ)は全部、面取りされていて、手が当たっても怪我しないように配慮。これだけの大きなカゴなのに表皮をすべて灰で磨くという手間をかけている

魚カガリ。腰に付ける他、下に置ける形状になっている

魚カガリ

 石橋さんには、さまざまなカゴを注文した。その中のひとつに有明海で穫った魚を入れる「魚カガリ」というカゴがある。福岡県の気質らしい男性的なカゴだ。石橋さんは4年前、103歳で亡くなったが、96歳まで竹カゴをつくっていた。彼がそんな歳まで仕事を続けられたのは、制作と同時に販売も自分でおこなっていたからである。八女市周辺には竹細工の職人がたくさんいたが、その人たちの物も扱ってあげて売っていた。そのために彼は長く仕事ができたのだ。しかし、石橋さんが亡くなり、とうとうこの仕事が無くなってしまった。これを継続してつくれる人はもういないのだそうだ。
 彼は仕事が上手なだけでなく、私たちの要望に応えられる商人気質的なものも備えていた。その点が他のつくり手とは少し違っていた。
 八女市にかつて数千人規模で存在していた竹細工職人も今や3人しかいないという。

 


これも石橋さん作の「コシテボ」。古い竹、スズダケを一部使っている。
何より眼を惹くのは、本体のカーブ。素晴らしい仕事だ。石橋さんの師匠は桜木慶助さん。103歳までつくっていた人だとか

ウーテボ

 熊本県八代(やつしろ)鏡町でも、魚を入れるカゴに出合った。九州本土と天草諸島に囲まれた内海、不知火海(しらぬいかい)に面した砂浜で使われた「ウーテボ」である。現地では魚を「ウー」、カゴを「テボ」と呼んだ。この独特のかたちは、砂の上に安定して置ける形状。魚カガリと同じ目的を持ちながら、魚カガリとウーテボの形状は異なる。このことが九州の文化の質の高さを感じさせる。これをつくった人は藤本子三郎さん。彼もまた自分でつくりつつ、周辺の人の物も売ってあげていた。竹細工の卸し業も営んでいたのだ。しかし、藤本さんも年金をもらえるようになったら「もう仕事を辞めたい」と言い出した。それでも、だましだまし注文して、つくってもらっていたのだが、とうとう10年ほど前に辞めてしまった。


ウーテボ。魚入れのカゴでも熊本ではこんな形状になる

三つ手カゴ

 大分県竹田の後藤数夫(かずお)さんが仕事を辞めたのは5年前。この人もつくるだけでなく、販売もしていた。生業だけに取り組んでいた人というのは簡単に辞めてしまう。ところが生業をしながら、なおかつ販売までやる人はわりと長く仕事を続けているのだ。竹田には鮎を入れる小振りなカゴ「シタミ」がつくられていると聞いて、探しに訪ねたのだが、その際に初めて会ったのが後藤さんだった。後藤さんは「三つ手カゴ」といって、柄があって、柄を支えるための手が付いたカゴを製作していた。これは豆腐を買いに行く時、豆腐を入れて持ち歩くための道具(あるいは魚を購入した際も使われる)。水切れが良く、造形的にも非常におもしろい。


三つ手カゴ。「こうつかめ!」と言わんばかりの九州的な造形

東南アジアのかたち

 鹿児島県姶良(あいら)地方には池平静哉(いけひらしずや)さんという竹細工職人がいた。この人も非常に上手なつくり手だった。昭和62年(1987年)に初めて池平さんを訪ねたのだが、当時はたしか82歳くらい(明治35年生まれ)だった。彼のつくるビク(魚籠)は東南アジアの物と同じ造形をしていた。こんなかたちのビクが日本にもあるのかと感嘆した。インドネシアやフィリピンあたりにこういうかたちの竹カゴがある。そのかたちと同じなので驚いたのだ。池平さんは仕事がていねいな人で、上手だった。 他にも池平さんは夜、穫りに行った魚を入れる「ヨボイカゴ」も製作していた。腰に付けるにしては大きなかたちは、カゴが見えにくい闇の中でも、手探りで入れやすいようにという配慮があってのこと。腰に当たる部分が少し平坦になっていて、造形が全体としてとても魅力がある。
 そしてさらに驚いたのが「ハンジョケ」である。朝、一日分炊いたご飯をこの容器に入れて吊るす。風通しが良いため、ご飯が腐りにくくなるカゴだ。ユニークなのは編み方。フタは網代編みに。フタの縁は柾割り当縁(まさわりあてぶち)。そして本体の縁は巻き縁。本体はゴザ目編み(縦の竹ひごは一定の間隔にして、横の竹ひごは目をつめて編む方法。編みこんでいくと、「ござ」のようになる)で、底はイカダ底。これだけ多様な編み方を駆使してこのカゴをつくっているのだ。柄は二本にしている。こんなカゴを82歳の人がつくったこと自体が凄い。しかし、池平さんも亡くなってしまった。


真竹を編んだビク。「バンブー」という柔らかな竹で編んだ東南アジアのカゴと同じかたちだが、真竹は堅い竹のため、よりゴツゴツした造形に

紐で腰に巻いて付けるヨボイカゴ。

ハン(飯)ジョケ

ジレンマ

 今回は失われてしまった残念な九州の手仕事を紹介したが、もっと悔やんでいるのは、1点ずつ、こうしたカゴを保存しておかなかったことだ。それは私自身が民藝店を営んでいく上で在庫ができなかったからで、これはどうにもならないことだ。かさばるし、収納していくのにも、カビが生えたり、虫に食われたり、縁が壊れたりとリスクを背負う。こういった物は展覧会で良さに気づいて買ってくださった方に大事にしてもらうしかないのだ。
 それに実用的な生活道具をつくっていくのは、一日一個の世界。仕事の内容や質に見合う日当を得て、それを販売するということになると高い物に。そこに非常な弱さがある。それだけ人の頭の中には、実用的な物に対する、ひとつの物の見方、視点がきちんとあって、つくる人もそんなに高い物では売れないからと、ある程度我慢しないといけないのだ。
 また、これらのカゴから私たち都会の人間が造形的な良さ、手仕事の良さ、伝統の凄さを見出して、みんなに見てもらおうと思うと、それなりのコストもかかる。そのコストを価格に乗せるとさらに高い物になる。で、ますます売れなくなる。この悪循環なのである。
 解決するにはどうしたらいいかとずっと頭を悩まし続けることに。かといって、この人たちのつくった物をそれなりの値段をつけて店に置いても芸術作品ではない。あくまで実用品である。そのジレンマが日本の手仕事をますます衰退させて消滅の方向へいってしまった。
 もしこれらを本当に大事な物として支えていくとしたら、地方自治体がサポートするしかない。あるいは妥当な日当のことを計算外で仕事できる人、たとえば福祉施設や刑務所でつくらないといけない。そういった立場でないと、こういった物を生業として維持していくのは非常に難しいのである。
 この問題は私たちにとってもライフワーク的な大きなテーマであると考えている。

(語り手/久野恵一、聞き手・写真/久野康宏)

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