手仕事調査Kuno×Kunoの手仕事良品

Kuno×Kunoの手仕事良品

#037 [平戸島の竹細工]長崎県平戸島 2009.02.28

キリシタンの島へ

 九州では地域別に特徴ある竹細工が見られる。平戸島の竹細工も九州の他の地域とはまったく編み方が異なることに気づいたのは、この仕事に入って間もない頃だった。
 平戸島の竹細工は、戦後間もなく柳宗悦が執筆した「手仕事の日本」には登場していないが、民藝運動に関わる人たちが、昭和30年以降、次々と手仕事の書物を出版し、平戸島のカゴを1〜2点紹介していった。
 そのうちのひとつが「商(あきない)バラ」と呼ばれるカゴ。縁を丸いヒゴで巻き、底を四つ目編みという目の空いた編み方をしている。もう一つは「卵テボ」と言う手提げカゴだ。
 私もこの2つのカゴをどうしても欲しかったので、平戸島に渡ったのだが、最初の訪問では制作者を見つけ出せなかった。当時、すでに島へ渡るための橋が出来ていたのだが、昔は平戸口という田平(たびら)の波止場から船で約10分、海峡を渡航しなければならなかった。 船が着いた島の桟橋の前は商店街。その中に一軒の荒物屋があり、竹細工品が売られていた。この店で島に暮らす制作者について尋ねてみたが、教えてはくれなかった。
 商店街の背後には教会やポルトガルとの交易時代の屋敷跡が控え、小さな城下町的な雰囲気が漂っていた。
 車で九十九島(くじゅうくしま)を臨む九十九湾(つくもわん)に沿って走行すると、交易の港、あるいは漁港として栄えた川内(かわうち)港に着いた。 平戸島の西隣には生月島(いきつきじま)が浮かび、そこはキリシタンの人が多く暮らしていて、教会もあった。この島くらいしか足を伸ばす場所は無く、ほとんどが小さな漁村や農家が点在する、半農半漁の過疎地であった。


平戸大橋を望む(撮影/久野恵一)


これが卵テゴ


新旧の商バラ。縁のバラ巻きは見た目にも力強さがある。底は水切れに優れる四つ目編みではなく、あえて網代編みで制作してもらった

新旧の商バラを真上から見たところ。網代編みが美しい

制作者の謎

 最初の訪問から戻り、とくに九州地区を歩き(約20年前に亡くなった)故・野間吉夫(のまよしお)氏の著書を読んだ。野間氏は民俗学者であると同時に、元新聞記者で、民藝とのつながりが深く、九州をくまなく歩いた人だった。私と同じく民俗学的な視点、つまり民衆の使う暮らしの道具という視点で物を見ていた人だった。彼は当時の民藝協会が発行していた民藝手帖という月刊誌にも投稿。その原稿には平戸島の話が出てきたが、制作者の名前は載せていない。平戸島に行けば、この物に出合えると書いてあるだけだった。私はいっそうと平戸島の竹細工品について探りたくなった。
 当時、九州各地を歩き尽くしたと自慢している九州の民藝店店主がいた。その人は私が日本民藝館展に出品し始める前の10年間、ずいぶんと活躍していた。平戸のカゴも毎年のように出品していた。ということは島に行っているはずだ。その店主に刺激されるように、私は25年前、今度はくまなく探そうと、平戸島を再訪したのだった。
 もう一度、商店街の一角にある荒物屋を訪ねたが、やはり制作者は教えてくれない。そこで、いろいろな本で平戸の竹細工を見たが、著者はどこで買っているのだろうか?と質問すると、「全部、うちから買っているのだ」と店主は答えた。証拠にと、著者に品物を送った納品書まで見せてくれた。なるほど、今まで本に出ていた平戸のカゴはこの荒物屋で購入して、載せていただけであり、それゆえに制作者の名前もわからず、記述していなかったのだと理解できたのである。

グローバルな島

 2度目の訪問では、町を離れて見て回ってみようと、まず九十九湾沿いを走ってみた。この湾には千里ヶ浜という美しい砂浜があった(http://maps.google.co.jp/maps?utm_source=jahpwp)。砂浜には小さな木の板に「鄭 成功誕生の地」と書かれていた。鄭 成功は中国が明(みん)から清(しん)に変わる当時、海賊として明の側に立って、清の軍と戦い、壊滅状態に陥れたと人物として有名だ。明の為政者から国姓爺(こくせんや)という称号を与えられた人がこの島で生まれたと書いてある。彼は中国人の父と平戸藩の女性との間に生まれたハーフの男だったのだ。後に中国で英雄扱いされる人物が平戸島生まれで、半分日本人の血が流れているというのはおもしろいエピソードである(近松門左衛門作の「浄瑠璃」には「国姓爺合戦」という題になり、歌舞伎でも演じられている)。
 司馬遼太郎の本を読むと、中国の江南地域から東シナ海へと船で出ると、時期によっては風と潮の流れに乗って、漕がなくても2日で平戸あたりに着くと書かれている。平戸島は外に開かれたというか、外とのつながりが強い所なのだなと思った。この島は松浦党で知られた海賊、和冦(わこう)の根拠地でもある。彼らの中には中国人や朝鮮人もいたかもしれない。つまり、あらゆる海洋性民族が入り混じり、独立した文化圏をもち、自分たちの庭の海を渡るように行き来していたグローバルな地域だったことがわかるのだ。
 このように、日本という島国は鎖国時代にあっても、海を起点にして海洋性民族により、さまざまな文化が入ってきたのである。平戸島の歴史的な背景を知るうちに、日本独自の物という限られた視点ではなく、中国、朝鮮との文化交流でできてきた物もあると、より広い視点でさまざまな物を見ていかないといけないのだと私は学んだ。


右から三軒目が川渕栄治さんの工房(撮影/久野恵一)

唐突の出合い

 千里ヶ浜から峠をひとつ越えると川内湾(せんだいわん)に出る。元々は風待ち港で現在は漁村となっている地域だ。漁村でつくられている川内かまぼこをつまみながら湾の写真を撮ろうと、西側へ移動すると、川のそばで竹の束が軒先に掛かっている小屋が目に飛び込んできた。ガラガラと戸を開けると、家主は背を向け、掘りごたつのように土間に穴を掘って座布団を敷いて座り、竹細工を制作していた。土間の仕事場には、つくった竹細工が干されていた。なんと、そこに自分の追い求めていた商バラが掛かっているではないか、私は驚き、興奮して尋ねた「これは、あなたがつくった物ですか?」と。「ええ、私がつくっているんですよ」と長崎地方の言葉で制作者は答えた。ここ数十年来、このカゴをつくっているのは自分一人になってしまったとか。昔は生月島に竹細工職人がたくさん存在していたけれど、今はこんな物をつくる人はいないでしょうと話す。ここに訪ねてくる人はいますかと聞けば、「誰もおらんですばい」と言う。では、つくった物はどうするのかと聞くと、全部、平戸島の荒物屋に納めるのだそうだ。現在はその荒物屋が軽トラで運ぶが、以前はわざわざ一日がかりでリアカーに載せ、10数キロの道を歩いて運んでいたという。
 こんな所で制作しているのなら、見つけ出すのは困難なはずだと思った。こういう所にたいてい足を運ぶ郷土資料館の人ですら、来ていないという。 ふと表札を見ると、その上に身体障害者のマークが付いていた。制作者の名は川渕栄治さんである。約25年前の当時で55歳。竹細工制作者としてはわりと若かった(昭和4年生まれ、現在は80歳)。
 改めて川渕さんを見ると、足が不自由な方だった。そのため、あぐらをかいて仕事はできず、腰掛けないといけない。かとって背もたれ付きの椅子も座面が高くて作業できない。ということで穴を掘って仕事をしていた。自分は戦争にも当然、行けなかったし、非常に苦労をしたと言う。それで竹細工ならば仕事になると、平戸口、田平町隣の江迎(えむかい)町で、20歳代の時に師匠から4〜5年間習ったそうだ。江迎町は軍港の佐世保に納める大量の竹細工を制作する人が大勢いた地域だった。 そして懸命に技術を習得した後、川渕さんは故郷である平戸島の川内(かわうち)で、妻の実家の力添えもあり、湾に注ぐ川のほとりに小屋を建てて、戦後から30年〜40年ほど、竹細工の仕事をしてきたのだった。


川内港の風景(撮影/久野恵一)

海を渡った独自の製法?

 川渕さんが制作するのは江迎でつくっていた竹細工を真似した物ですか?と聞くと、「いや違う」と。生月島でつくられていた竹細工の注文が自分の所に来るのだと言う。以前は生月島でつくった物を平戸の荒物屋が扱っていたのだが、昭和30年前後からこの島で竹細工を制作する人は誰もいなくなってしまった。ところが竹細工を必要とする人はたくさんいたものだから、自分がここで仕事をしていることを知った荒物屋が注文を出すように。それからずっと生月島でつくられていた竹細工を見よう見まねで制作し、品物を納めているのだと話してくれた。
 私は本を読んで抱いていた、いくつかの疑問を投げかけた。まず、手提げの付いた買い物カゴをなぜ「卵テボ」と呼ぶのか尋ねると、これは買い物カゴではなく、卵売りのおばさんが卵を入れて町で売り歩くための容器だと川渕さん。そのために四つ目の穴が空いていて水切れが良いようになっていた。
 次に「商バラ」は何に使うカゴかと聞くと、二つを天秤棒でかついで歩くためのカゴだと言う。これに野菜や魚を載せて商人が売り歩いたのだと。「バラ」という呼称は昔からあったそうだが、おそらくカゴやザルの意味だと思う。
 もうひとつ不思議だったのが、4本のヒゴを束ねる縁の巻き方だ。普通、ヒゴは薄く身を剥いで、皮を編むもの。ところが川渕さんのカゴは、皮目を取った身を丸いヒゴにして3〜4本に束ねて巻いてあるのだ(大きなカゴは5本の丸ヒゴを巻くこともあるそうだ)。単純に巻いてあるだけなのだが、かなり力が無いと巻けないのだ。ヒゴその物が重たいからだ。どうしてこんな編み方をするのか聞くと、それは自分もわからないと。見本がそうなっていたから同じようにつくるようになったのだと。
 私は川渕さんが見本にしたカゴを撮影したり、彼自身が制作したカゴを購入したのだが、この編み方はその後、各地を回っても目にすることが無かった。この編み方がなぜ平戸島にしか無いのだろうか? 17年ほど前、あるテレビ番組を見ていたら、中国江南地方の農家の暮らしぶりが映し出された。農家にはバラ巻きと同じような巻き方をしたカゴがあった。この映像を見た時、風と海流に乗って、東シナ海を渡った文化が生月島に漂着して、竹細工が生業として活性化したのではという想像が働いた。生月島は日本国内でありながらも、海の路を通じての異文化交流があったのではないだろうか。実際、この島には明治時代まで隠れキリシタンとして生きてきた、敬虔なキリシタン信者が多数いる。そのような地域ゆえ、何らかの新興文化が手仕事として伝えられてきたのではと考えられるのである。私たちの目には独特の編み方と映っても、島の制作者は歴史的な物をそのまま継承し、つくっていたということなのかもしれない。
 しかし、その後、生月島の制作者はいなくなってしまった。たまたま川渕さんが島の製法を真似てつくったからこそ、生月島のカゴ文化は残ったのだ。

造作が心をとらえる

 ここ20年間、毎年、日本民藝館展に川渕さんのカゴを出品してきたのだが、同じ物が2度も奨励賞に選ばれている。さらに3〜4度も賞候補に挙げられてきた。ちなみに賞候補の時の審査委員長は柳宗理だった。
 もともとこのカゴは水切れを求めるため、底の編み目に4つの穴が空いている。しかしこの「四つ目編み」の底と、バラ巻きを組み合わせてもおもしろくない。私は柳宗理の目を試すわけではないけれど、彼がどんなふうに感じるかなと、底を網代編みにしてもらった。この編み方では「商バラ」として使えないカゴになってしまうけれど、都会生活での用途では脱衣カゴになるし、衣服入れにもなる。 網代編みは竹の皮と身を交互にはさみながら編む技法なので、カゴ本体の真上からその編み目を見た時、情緒的に訴えるものがある。同時に「バラ巻き」の力強さ加えて、その竹ヒゴがはずれないように、4カ所を力竹(ちからだけ)で巻いてまとめてある。これがデザイン的なおもしろさ、美しさを醸し出しているのだ。柳宗理はここにパッと眼が留まったのであろう。また、柳宗悦がご存命だったら、この造作様式に眼が動き、絶賛されたと思うし、選ばれたのではないかと思う。
 このように、「用」から出たかたちであっても、必ずしも「用即美」ということではないのだ。その物の中に造作があると、見る人間の視点、心を動かすのだ。もっと言えば、造作の中に最上級の物が出来上がってくるのである。
 商バラのバラ巻きと網代編みのマッチングによって際立って美しい物になった。「使う」ということを超越して「用」から出る美しさをつくりあげたのだ。

間もなく消滅する技術

 平戸島の竹細工はさらに不思議なことがある。その存在を九州の他の地域、しかも竹細工の制作者の間ですら知られていないのだ。実は、ここ4〜5年、佐賀県、長崎県、福岡県の西部地域といった地域で竹細工をする人が急速にいなくなっている。長崎市内はついに一人もいなくなってしまった。市外では島原と諫早、嬉野、川棚温泉に各一人、武雄に二人、武雄郊外の唐津に近い所にも一人と、数えるほどだ。制作者たちは互いに交流をしていて、私が誰から何を買ったのか全員が知っている。情報交換を盛んにおこなっているからだ。そんな彼らに平戸島のカゴの話題を切り出しても、皆、沈黙する。見たこともないし、平戸に竹細工をする人がいるなんて知らないと言うのだ。
 川渕さんは平戸の荒物屋のためだけに制作していたが、10数年前、店を切り盛りしていた老夫婦が亡くなり、跡継ぎもいないので、閉店してしまった。それで川渕さんは主な販路が断たれ、近隣の農家やかまぼこ屋などからの注文を受けるくらいに。むろん民藝店との関わりは私以外皆無だ。
 仕事は減ってしまったが、彼には年金のような障害者保険があるために、なんとか食べていけるという。竹細工に固執しなくても大丈夫なため、生業として取り組みながらも、さほど多くの量をつくらなくても済むのだとか。
 そのため、ここ数年に訪ねても、つくっていたり、つくっていなかったりする。また、販売している様子も見られない。たまたまつくった物があれば全部私が引き取るくらいなのだ。川渕さんの後継者は誰もいないし、編み方すらわからない。川渕さんは体調を崩している状況から察すると、この仕事はあと1〜2年で消えてしまうだろう。 平戸島独自の竹細工が無くなっていくのはとても残念だが、どう頑張っても継いでいく手だては無い。生月島の歴史と文化から受け継がれた物がついに終着点に来たのだ。その終着点はたまたま川渕さんという人の頑張りによって継続できたのである。それゆえに九州の竹細工制作者の間で存在すら知られていなかったのだろう。ましてこのカゴは地方性を表すと同時に、国の民俗性を表す仕事だったかもしれない。
 また、民藝関係者が訪ねても平戸島の玄関口にある荒物屋のみでしか、カゴを入手できず、直接つくり手の元まで行けなかった。そのために生月島のカゴの製法が守られたということも言えるであろう。
 いまだに異国情緒が残る、美しい海岸で細々ながら、ずっと真面目に仕事をしてきた人の一生がもうすぐ終わろうとしている。しかし、川渕さんと出会えたことで、物を見る視点を私自身に備えることができた。これは大きな収穫だった。この視点があったから、その他のカゴ類にも眼がいくようになったし、物を見る上で、文化的な裏付けも勉強しなくてはいけないと啓発された。 
 私は今後、出合う物に目を向ける時、私の後継者たちがこの経験を活かしていかねばと思う。

(語り手/久野恵一、聞き手・写真/久野恵一、久野康宏)


「タラシ」という小さなカゴは竹の皮を磨いてきれいにしてあるが、元々は磨く必要の無い粗雑な物。これは魚を2〜3匹載せてはかりで計って売るためのカゴだ。各地の漁業関係者は何百枚、何千枚と必要にした物だった。水切れが良いように底は四つ目編みだ。他にも川渕さんのつくる物には特徴的なカゴがあった。たとえば「磯テボ」という、砂浜に置いて穫った魚を入れるカゴ。丸みを帯びた独特の美しいかたちを備えていた。それから「キリダメ」といって、お祝い事があった時に魚などを入れて運ぶカゴも。これも縁はバラ編みだった。残念なことに、これらのカゴは常につくられてきたことで、いつでも入手できると思っていた。そのため個人的収集をしていなかった。それがこの2点の写真を紹介できない理由である

「タラシ」の底が網代編みのパターン
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