手仕事調査で岩手を歩く
平成になったばかりの頃、日本民藝協会の仕事で全国の手仕事調査を開始した時のことであった。私は岩手県の竹細工を調査する必要があったので、県内をくまなく歩くことになった。とはいえ、岩手で過去にどのような竹細工がつくられてきたのかは把握していたので、歩く範囲はだいたい決まっていた。以前、この連載記事の第18回で紹介したが、久慈で苦竹を用いてつくられる横駄カゴ以外には見るべき物が無いと私たちは調査前に考えていた。岩手県内を回る際は盛岡「光原社」の及川隆二さんを同行させて、一緒に物を見て回った 岩手の竹細工というと、県北の一戸(いちのへ)という地域でスズ竹と呼ばれる篠竹系の柔らかい竹で編まれる小物製品が知られている。それらは主に女性の手内職でつくられ、明治期から東京方面へ多く出荷された。中でもこのスズ竹を用いた柳行李(ごうり)がつくられ、鳥越の竹細工として名を馳せたものだった。
このようなカゴはおおむね一人でつくるのではなく、竹細工を集める集荷人が卸問屋として、日本各地の問屋に製品を送ったのだ。たとえば一戸の川精商店という家具屋が現在でも地域の竹細工品を扱い、盛岡市内でこのごろ知られるようになった荒物屋や築地、合羽橋にたくさんの製品を卸してきた。
私は当時、力強い竹細工を求めていたので、岩手の製品はこの程度かなという気持ちでいた。それでも、もう少し調査を進めようと、久慈の帰りに九戸(くのへ)で苦竹を用いた竹細工、またスズ竹を使った物でも、ややがっちりとした米上げ笊(ざる)や振るいカゴを見つけた。しいて眼に留まるのはこれらの農具くらいかなと思っていた。若い竹細工のつくり手に出会う 一戸ではスズ竹細工のつくり手の何人かと会ったのだが、一般的な民藝店では、手頃な製品なので売りやすい物だが、私自身はあまり心が動かなかった。それで盛岡に戻ろうと、東北自動車道の一戸インターを目指して車を走らせていた。インター入口の国道際の崖に「上平(かみだいら)竹細工店」と書かれた小さな看板が眼に入った。普通に走行していたら見落としてしまうほどの大きさである。「おや、こんな所に竹細工店があるのか。どうせスズ竹の製品くらいだろう」と思いつつ、盛岡に帰るまで時間のゆとりがあったので、寄ってみることにした。 崖を下る坂道にある建物は長い竹が扱いやすいよう、間口が広く、奥行きが無い板の間といった、まさしく本格的な竹細工の作業場でもあった。天井にはほこりをかぶった竹製品がたくさん掛かっていて、自転車の配達カゴなども見えた。素材はスズ竹ではなく真竹を使った物ばかりだった。室内を覗くと、初老の人と若い人が作業をしていた。彼らが編んでいたのは、なんと真竹細工だった。 真竹は岩手県一関周辺が北限の自生地と言われている。そこから北では生育できない竹なのだ。それゆえ、岩手県北では真竹細工などありえなかった。そんな地域で真竹細工を眼にしたものだから驚いてしまったのである。
製品はといえば、粗物の容器をたくさん見受けられた。ガラガラと扉を開けて「こんにちは」と挨拶すると、独特の岩手弁で「何ですか?」と出てきたのが、若い人だった。思わず「あなたが竹細工をしているの?」と尋ねると、「はい、そうです」と答えた。歳を聞くと38歳と言うので仰天してしまった。なにしろ、私は全国各地の竹細工のつくり手に会ってきたが、30代の人を見たことなど一度もなかったのだ。
「あなたはこの仕事で食べているの?」と聞くと、「はい、食べています」と息子さん。向こうでは初老の父親が笑みを浮かべ、寡黙に作業をしている。その作業場をよく見ると、つくりが粗い大きなカゴや、奇をてらったデザインの物が転がっていた。私には欲しい物が無いと感じたが、若いつくり手となんとか関わることが自分の使命だとも思った。聞けば、食うのがやっとで、親父とコンビを組んでいるから仕事できているようなものだとか。竹細工の材料を用意する人と編む人が別々にいて同時に作業していけば、生産量が増え、なんとか生計を立てていける。これが単独の作業となると大変なのだ。この頃の竹細工職人のほとんどは一人で製作しているため、生活は厳しいというのが現実だ。しかし、上平さんは二人で、しかもそのうちの一人が30代ということで、この人は絶対に仕事を辞めないなと確信したのだった。
私が仕様を指定して、
福也さんが製作した「カコベ」の改良版。
四本脚を付けてある |
民俗調査的聞き取り
私は彼らの作業場に腰を据え、得意とする民俗調査的な聞き取りを始めた。まずは出身地と、どこで竹細工を学んだのか質問した。息子の上平福也さん(現在57歳)は父親の上平福松さん(86歳で亡くなった)から教わったという。
福松さんによれば鳥越地域では昔からスズ竹の小物をたくさんつくっていたと言う。その小物を貨車で出荷する時に現在の段ボールのような適当な箱が無かったため、竹を粗っぽく組んだカゴに入れていたのだとか。そして、このカゴを製作することで収入が得られていたのである。
このカゴは安価ゆえ、大量につくらないと生活できない。その注文主は川精商店をはじめ、地域の卸問屋だった。このカゴ以外では、地元周辺からの農業用の丸や四角いかたちの、肥料入れカゴ、あるいは腰に付けて収穫物を入れる深カゴ「カコベ(カッコベ)」をつくっていたと言う。
福松さんは青森の出身。竹細工は三陸宮古方面で学び、そこで仕事を得たという。当時は陸地よりも海の方が竹細工を求められた。漁業収穫用の容器を親方から学んで、ずいぶんとつくったのだと。しかし、昭和30年代にプラスチックが竹に替わって容れ物の素材として普及してからは、一般からの竹細工の需要は減り、そのため竹細工が盛んな一戸に移住して今の仕事を続けてきたのだと話してくれた。
竹細工の地域性
東日本の竹細工では竹の身(み)の部分をかなり用いて竹細工をつくるが、九州地方の場合、身よりも皮の部分を多く使うのである。それは皮の方が丈夫で、粘りがあり、虫が食わないためだ。身は割れやすく、腐りやすい。それに防水性も劣る。九州は竹が豊富だし、つくり手自身で竹を採りに行くことが多い。ところが、とりわけ東北は真竹の北限が県南の一関であるため、素材は貴重で、余すことなく使いたいのだ。また、上平さん親子も自分たちで竹を採りに行くのではなく、竹材の卸業者から配達してもらっているのだと言う。その業者は一関にあるという。竹は彼らの仕事場の周辺では採れないから、一関から手配してもらうしかないのだ。昔から気仙沼や一関には真竹を扱う竹材屋があり、そこから仕入れているのだそうだ。業者から真竹を買うため、皮だけを素材にするのでは割に合わないからと身も使うのである。それゆえ、東北の竹細工は皮が少なくて身の部分が多いのである。
身が多いと竹細工は壊れやすく実用性が乏しいが、その分、価格はやや安くできる。こうした竹製品は実用的で消耗品のため、身が多く、耐久性が劣っていてもよいのだ。とくに荷物を送るコンテナ替わりの物だと身の部分だけでよいと。目的地に着けば、解かれて焼かれてしまうようなカゴゆえ、そんな程度の物でよいとずっとつくってきたのである。
昔の竹細工を探る
しかし、近頃はつくる物が限られてきて、せいぜい「カッコベ」や肥料ザルくらいの物で、昔のようなバリエーションが無くて困っているという。それで、彼らが現在つくっている物を見せてもらった。まずつくりが非常に粗い。上手下手ではなく、粗くても良いという物で、実用1点ばりのカゴだったのだ。
このクラスの製品では、私の選ぶ物は少ないと、残念な気持ちになった。いったんは帰ろうかと考えたが、昔つくった物が残っていると聞き、踏みとどまった。私が竹細工について探る時、まず第一にその地方で昔からどのような製品がつくられてきたかを知るようにしている。それらの中から私が物を観ていく上での視点の許容範囲の中で取れる物が無いか。あれば、それを取って、何か今の物に転用できるように考えるのである。
果たして作業場には「子(エ)ジゴ」という赤ん坊を入れておくカゴがあった。米処ではワラ工品としてつくられ、信越、庄内などでは「イズメ」とも呼ばれる物。カボチャ、あるいは火鉢のような円形のかたちをしたカゴだ。これがなかなか良いかたちをしているので、このかたちで何かできないかと聞くと「いや、こんな大きな物は大変だ」と上平親子。大きさはもう少し小さくていいからと言うと、小さければ可能ということになって、製作を依頼したのだった。その際、何とか身の部分を少なくしてくれないかと頼むと「そういうわけにはいかない。身の部分を無駄にするのか?」と言う。そこで引き取り価格を高くしても良いと打診すると、了解してもらえた。というわけで、手始めに子ジゴカゴをつくってもらったのである。
私はいつも竹細工づくりの参考になる写真を持ち歩いているため、九州の竹のつくり方を上平親子に見せて、本体はござ目編み(縦の竹ひごは一定の間隔にして、横の竹ひごは目をつめて編む方法 。編みこんでいくと、「ござ」のようになる)で、縁は九州で「千鳥縁」(返し縁や重ね縁ともとも呼ぶ、二つを×印のようにして巻いていく)でやってくれと頼んだら、その仕様で縁をつくるならば1年ものの若い竹を使わないといけないから高くつくし、しかも細い竹が良いと。それはかまわないからとつくってもらった。
昔のカゴをリ・デザイン
数ヶ月経って仕上がりを見に行くと、青々とした見事なカゴが出来ていた。少し不満はあったが、まずは上手と褒めた。そして買い取るからと代金を支払ってから、その製品についての不満点を伝えたのだった。子ジゴ本来の用途として、竹がささくれだって怪我をしたら困るため、面を取ってほしいと伝えた。すると「面取りは時間がかかる」と。「それはわかる。しかし、私がつき合っている日本国中の竹細工職人で時間がかかるからと文句を言う人は誰もいない。経済的なことは配慮するから、面取りをしてつくってほしい」と再度依頼した。
それから竹の身の部分はもったいないから、内側を二重にする際に使ったらどうかとか、こういったカゴはそのまま置いておくと汚れたり、朽ちたりするから脚を付けてほしいなどと、仕様を細かく指示したら、それでは次の物をつくろうと、本人も乗ってきた。
ただ、同じ物をつくっても売れないから、さて何にしようかと思案。そこで久慈の苦竹の「横駄カゴ」を思い出した。「もう少し小さめの横駄カゴができないか?」と聞くと、この周辺の横駄カゴはこんな物だと見せられたのは、つくりが粗く、竹の身を多用し、縁だけ皮が巻かれていた物だった。コンテナ容器として使われるカゴのため、積み重ねられるようになっていた。では、この大きさとかたちはそのままに、すべて皮でつくり、縁は返し縁にして、手を付けてくれと要望した。なぜ手を付けるアイデアに至ったのかというと、上平家にたまたま手の付いた大きな容器のカゴがあったのだ。
「こんな手を付けたカゴをつくったことがある?」(私)
「しょっちゅうつくっている」(上平さん)
「じゃあ、手を巻き付けるのは簡単だね?」(私)
「1年ものの柔らかい若竹を使えば簡単だ」(上平さん)
「じゃあ、手を付けてつくろうじゃないか」(私)
横駄カゴは引きずって用いたりするので、底が滑った方が良いし、安定を良くなるようにするためには脚を付けるよりも、一本のヒゴを大きく幅広に取った3本を差しこんで、俗にいう力竹(ちからだけ)のようにした仕様にしたいと相談すると、了解したとつくってくれたのだ。 |