Kuno×Kunoの手仕事良品

#039 [小鹿田焼 柳瀬朝夫さんの仕事・前編] 大分県日田市

あーちゃんと出会う

 

 第2回日本陶芸展(1973年)の会場で、小鹿田焼の陶工、柳瀬朝夫(やなせあさお)の存在を初めて知った。同じく小鹿田の陶工である坂本茂木さんが出品した大きな壷で最高賞を受賞した時だった。会場には眼が惹き寄せられる打ち掛けの茶壺が展示され、思わずつくり手の名を確認。それが朝夫さんだった。 3年後、私は小鹿田へ仕入れに出かけるようになった。「皿山(さらやま)」と呼ばれる集落は、坂道沿いに窯元が点在し、いちばん上には坂本義孝(よしたか)さんの窯があった。彼は私とほとんど歳が変わらず、昭和24年生まれの人。先代が窯を辞めていたので、いったん窯元の権利を失ったが、自分の土地を皿山の組合に寄付して窯元の権利を復活させた人だった。そうして、以前、窯元は9軒だったが、彼の代でトータル10軒となったのだった。 彼の家の下には坂本晴蔵(はるぞう)という組合長の窯が位置(現・坂本正美窯)、隣が酒屋さん、その下に黒木才人(現・黒木史人窯)窯、その家の前に黒木力窯、その隣が柳瀬満三郎(現・柳瀬晴夫窯)、さらにその隣が柳瀬朝夫窯だった。黒木才人窯の隣が黒木利保(としやす)窯(現・黒木富雄窯)で、息子が富雄さん。孫が昌伸(まさのぶ)君。その敷地内に共同窯があり、川をはさんでその隣が坂本茂木窯で向かいが柳瀬朝夫さん。その斜め前が坂本一雄窯(浩二君の父)。それから「山乃そば茶屋」があって、2軒ほど別の家をはさんで小袋遊喜(ゆうき)窯(現・小袋定雄窯)。以上10軒の窯元があるのだ。 このように窯元の名前を列記してみると、坂本一雄さん以外は、なんとなく趣きを感じさせる名前だ。とくに柳瀬朝夫という名前には惹かれ、どんな人なのかなと会う前から気になっていた。 当時、柳瀬朝夫さんの仕事場は道をはさんで坂本茂木窯の向かいに位置していることもあり、茂木さんのもとを訪ねれば、仕事の様子が目に入ってくる。おのずと、とても気にかかり、朝夫さんの窯に入ると、黙々と仕事をしていた。体つきはいかにもの職人的タイプ。仕事ぶりと、エキゾチックな顔が印象深かった。


小鹿田の集落では、親しい人の名前を「●●ちゃん」と呼ぶ習わしがあり、柳瀬朝夫さんは「あーちゃん」と呼ばれる
(撮影/鈴木修司)


小鹿田にある10軒の窯元の位置関係。
図版は「小鹿田焼ーすこやかな民陶の美」(芸艸堂)より抜粋

朝夫さんの工房兼自宅。自身の焼き物を直売するショップも兼ねている(撮影/副島秀雄)


工房内でロクロを回すあーちゃん。
飛びカンナ模様を打っているところ(撮影/鈴木修司)

大らかで土着的なかたち

 

 坂本茂木さんのもとを訪ね、家に泊まらせてもらった時、茂木さんは「彼は俺の言うことをよく理解してくれるから」と朝夫さんを呼んでくれた。当時、私の物を見る眼はまだ定まっていなかったけれど、10軒の窯元の中でも茂木さんと朝夫さんのつくる物はとりわけ魅力的と目に映った。朝夫さんのつくる焼き物は明るくて大らかで、素朴なかたち。茂木さんは鋭敏なセンスを感じさせる、かたちをつくる。朝夫さんはセンスというより土着的な茫洋としたようなかたちの物をつくっているのだなと思った。 そうして茂木さんの窯出しに通うようになると、当然、朝夫さんの方にも顔を出すようになる。そんな時、自分も注文したいと朝夫さんに言うと「つくっちゃる。何(なん)が欲しいのかい?」と朝夫さん。私は日本陶芸展で目にした茶壺や代表的な飴釉薬に刷毛目を打った、2斗入りほどの大きな壷が欲しいと答えた。 そう調子良く注文しつつも、まさかつくってくれるとは夢にも思わなかった。秋頃の話なのだが、年が明け、朝夫さんからの年賀状が来て驚いた。「注文した壷が出来ているから取りに来てくれ」と書かれていたのだ。 早速、春に受け取りに行った。私は注文にきちんと応えてくれる誠実さに感激し、朝夫さんとのつき合いが始まった。 やがて彼との人間関係も深まり、会話を重ねていくうちに、注文の際、単に「ご飯茶碗を刷毛目(はけめ)模様でいくつ」というのではなく、かなり細かい注文をしても、応えようとする人であることがわかった。もともと小鹿田の窯元は地元の業者とのつき合いから始まった歴史があるため、受注生産方式をとっている。その流れを汲む朝夫さんは大雑把な注文ではなく、細かな模様やかたちの指定をしても、応えてくれるのである。 私が小鹿田を訪ねるようになる少し前まで日本民藝館の職員が現地に派遣され、日本民藝館に蔵品されている良い物を真似てつくるよう指導。小鹿田焼の蔵品すべて、寸法から見方まで撮影した写真集が10軒の窯元に渡されていた。つまり、その資料を見ながら注文する方法も選択できたのである。 当時の日本民藝館が良い仕事を守ってもらおうと小鹿田焼に力を注いでいる事実には驚いたが、坂本茂木さんの話によると、その資料を参考にしているのは数軒で、写真集すらどこにあるのかわからない窯元もいるとのことだった。茂木さんと朝夫さんは資料を克明に眺めつつ、かつての良き仕事の復興制作にも取り組んでいた。私も良い物とは何なのか、よく見極めて注文していけばいいのかなと考えた。


ロクロを回す朝夫さん(撮影/副島秀雄)



柳瀬さんが仕事をしている共同窯を訪ねた私
(撮影/鈴木修司)

窯詰め作業中の朝夫さん。中に3合壷が並ぶ。
(撮影/副島秀雄)
 昭和53(1978)年のこと、倉敷で「芹沢?介の蒐集〜もうひとつの創造」展が大原美術館で催された。芹沢?介自身の作品展示会ではなく、彼の収集した古今東西のさまざまな美しい物が展示された、素晴らしい内容だった。それらの優れた蔵品の中にどこかで見たような擦り鉢があった。それはまさしく柳瀬朝夫さんの擦り鉢。私はショックを受けた。芹沢?介が集めた物はすべて素晴らしいが、その中に今も作られている物が含まれていたからだ。昔の物ばかりが良いわけではなくて、実用だろうが何だろうが関係なしに、今も美しい物が存在することを知り、実用品かどうかという眼でなく、美の視点をもって、きちんと物を見分けていくことが大事と学んだのだった。
 私は芹沢のような眼が利く人が小鹿田で当たり前のようにつくっている擦り鉢を選んだという事実に感嘆し、芹沢?介はこの擦り鉢の何に眼が感応したのかと考察してみた。おそらく彼は鉢全体の造形というよりも、模様に眼がいっていたのだろう。この眼の向け方は大いに刺激を受け、以降、私が物を見ていく観点が変わっていく。また、朝夫さんがつくる物についての注目度が違ってきた。それまで茂木さんの造形感覚にとても惹かれていた私にとって、朝夫さんは昔ながらの小鹿田の物をつくっているくらいにしか思っていなかったのだ。
 この一件があってからは、私の中で小鹿田との関わり合いが変わっていく。

見よう見まねで暮らしの器をつくる

 

 私が柳瀬朝夫さんを注目する、もうひとつの理由を語ろう。それは1973年にまでさかのぼる。盛岡の「光原社」を初めて訪ねた時のことだ。当時、光原社内にできたばかりの可否館(喫茶店)に入ると、少し惹かれるモダンなコーヒー碗に眼が留まった。この世界に入りたての頃は誰でも同じなのだが、知ったかぶりをしたがるもの。私はその碗を見て、舩木研児(島根の陶芸家)の作だと思い、店の人にそう尋ねた。すると、現在は友人である、店の経営者、及川隆二さんがにやっと笑い「いや、これは小鹿田焼です。柳瀬朝夫さんのコーヒー碗ですよ」と答えた。私は自分の至らなさを思い知り、同時に、こんなモダンな物が小鹿田でつくられているのかと驚いた。
 いまだに朝夫さんはこのコーヒー碗を制作しているのだが、そのかたちは島根県・出西窯(しゅっさいがま)のコーヒー碗のかたちを真似て、櫛描きの模様を入れただけの物で、熊本県人吉の民藝店「魚座」店主、故・上村正美氏が注文してつくらせた物と後に聞いた。 そこで、私も負けじと、良い物をつくってもらおうと考えた。それからは、さまざまな物を朝夫さんに制作依頼し、現在に至っているのだが、過去にどれだけの数を注文したかわからない。
 たとえば、小鹿田のポピュラーな8寸の深皿があるが、日本民藝館の蔵品には高台の無い、ベタ底になっている皿が見受けられる。当時の職員に質問すると「昔の小鹿田の皿はこういうかたちだった」と答えた。小鹿田は「皿山」と呼ばれるが、皿だけをつくる窯ではない。昔、北部九州地方では焼き物の産地のことをそう呼称したのだ。昔の小鹿田には皿はあまりつくっておらず、大きな鉢を中心に、大壺、大ガメをつくっていた。現在は定番商品のようになっている皿類は、もともと伊万里の皿のかたちを真似た物が多い。
 職員の話を聞き、あえて高台をつくらない方がかえって使いやすいと考え、朝夫さんにその深皿をつくってもらった。これが今、私が経営する「もやい工藝」の定番商品になっている。 他にもご飯茶碗を朝夫さんはつくっているのだが、それも磁器の茶碗を見せられ、これと同じかたちでつくってくれと頼まれたものなのだとか。
 小鹿田焼は昔から暮らしの器類をつくっていたわけではなくて、注文された物を何かしら見本を模倣してつくってきたのである。


飴釉を施した、尺2寸の大きな擦り鉢

体型から生まれたかたち

 

 もうひとつおもしろいエピソードがある。坂本茂木さんの窯を訪ねた時のことだ。彼の窯に切立(きったち)4合壷、あるいはウルカ壷と呼ばれる鮎の塩辛入れがあった。私はこの壷の肩の所になぜ窪みがあるのかがわからなかった。それで坂本茂木さんに聞くと、日本民藝館から渡された写真資料の中に、これと同じかたちの壷があり、それを真似てつくっているのだと答えた。
 当時の民藝館の職員に確認すると、実は柳瀬朝夫さんの祖父、熊蔵(くまぞう)さんが右手が不自由で、陶土をかたちづくり、引き伸ばす際に手が内側に入ってしまう。そのために背の高い壷を上に伸ばしていく時に、指で一度押さえてしまうから、このくびれができたのだという。つまり、意図的ではなく、つくり手の体型から偶然出来たかたちであることがわかったのだ。このくびれがアクセントになり、逆にとても眼に心地よいのだ。茂木さんはこうした物の背景を知らずに、良い物だと直観して制作していたのである。


坂本茂木さん制作の、切立4合壷
 朝夫さんに、焼き物づくりを誰から学んだのかと聞いたら、熊蔵さんに教わったと言う。熊蔵さんは手が変形していたため、ロクロ作業の時に直線的に挽くのではなく、手が内側にこもった体勢になるのだとか。そのつくりかたを教わったために、朝夫さんも同じようなつくりかたとなる。それゆえ、朝夫さんが陶土をこねて、紐状に巻き上げする際には必ず手が内側にこもることになる。
 朝夫さんは大きな壷をつくる時に、陶土を硬く締めると一気に引き伸ばせないため、どうしても柔らかめにして、大きく伸ばしてから削ってかたちを整えていく。それで、土を継いだ所が目立つようになるのだ。
 朝夫さんはいつも仕事着に土がベタベタに付いているが、他の窯元はあまり土が付いていない。それはロクロ作業の際、成型過程の物に水を当てて、土を柔らかくして、ぺたぺたと伸ばしていくものだからロクロの回転で水が飛び散り、体中に土が付着するのだ。これは上手な人から見れば下手な証拠で、現地では「あーちゃんの仕事はへこへこ。へこ野郎だ」と嘲笑されてしまう。
 ただし、逆に朝夫さんのつくる物は素朴で、大らかとなり、土着的な小鹿田本来の力を感じる。茂木さんとはまったく違うタイプなのだ。茂木さんは小鹿田的な素朴さより、芸術的なセンスと類い稀な資質をもっている。朝夫さんはそういう感覚は皆無なのだが、見よう見まねで大らかな物、小鹿田そのものの物をつくるのだ。両者は対照的で、二人の窯出しに立ち会うのが毎度、楽しみだった。


以前、現在、朝夫さんがつくっていた
飛びカンナ模様の3合壷

現在、朝夫さんがつくっている3合壷。
新旧のかたちの違いは明らか

落ちてきた力

 

 柳瀬朝夫さんは共同窯といって、10軒のうち5軒の窯元が一緒になって焚く窯を使用している。共同窯では2人組と3人組に分かれ、8つの室(ふくろ)でローテーションを組んで焼いていくのだ。約10年前まで3人組の時は年7回、2人組の時は年6回、窯出しがあった。そのため多い時には年6回、朝夫さんの属する共同窯の窯出しに私は立ち会った。一方、茂木さんは個人窯で、年6回の窯出しをおこなっていた。時には年に何回か、ラッキーなことに茂木さんと朝夫さんの窯出しが重なる時があった。
 小鹿田を訪ねれば必ず茂木さんの家に泊まり、朝夫さんが来て3人で飲む。彼らから昔話を聞くことで、小鹿田の状況を理解することができた。そうやって小鹿田での壷のつくり方、かたちの背景がわかった。
 朝夫さんは元気で力強い若い時にはたくましく優れた物をつくれた。ていねいでない素朴な仕事がかえって好ましく眼に映った。ところが、50〜55歳を過ぎてくると、力が急激に落ちてきて、仕事の雑さばかりが目立ち、ここ10数年間はつくる物もみるみると魅力を欠いてくるようになった。それで私は危惧感を抱いていたのだ。
 朝夫さんに昨年11月、転機が訪れた。九州の小石原にて手仕事フォーラムを開催した時、陶工である森山雅夫さん(島根・森山窯)、木村三郎さん(益子・木村三郎窯)、宮内謙一さん(島根・石州宮内窯)さんらが、優れた技術を披露する場を設けた。彼らの仕事を朝夫さんはへばりつくように見ていたのだ。 すると、その年の12月、朝夫さんの窯出しに行ったら、久しぶりに活き活きとした物が出来ているのだ。たとえば急須や土瓶の注ぎ口の部分にシャープさが出て、かたちも少し締まってきた。その時はフォーラムの影響だとは夢にも思わなかった。なぜ急に変わったのか首をかしげたのだ。
 ふと、フォーラムの会場で他の窯元の仕事を朝夫さんがいちばん熱心に凝視していたことを思い出したのだ。そういう意味では、彼はただ者ではない。また、これをきっかけに、さらに再び勢いのある仕事ぶりが少しでも戻ればと私は願っているのである。



白土をポン描きして飴釉を掛けた大皿。
これは私が注文して制作した物ではない。
てらいがなくモダンな皿だ

青地釉を掛けた大皿。
乱暴に指描きすると、普通は嫌みのある物になるのだが、
小鹿田の青地釉を無造作に掛けたことで、
落ち着いた雰囲気を醸し出している。
しかもつくりが良く、超一級の物となった

※次回に乞うご期待を。朝夫さんが手がけた良い物をたくさん見せます。

 

(語り手/久野恵一、聞き手・写真/副島秀雄、鈴木修司、久野康宏、)