Kuno×Kunoの手仕事良品

#004 [奥原硝子の再生硝子] 沖縄県那覇市

 沖縄那覇市の中心街に工房を移した奥原硝子が最近、注目を集めている。その理由のひとつは再生ガラスを素材とする、ガラス器をつくり続けていることが、リサイクルという観点で評価されているからであろう。
 奥原硝子のルーツは戦後の時代にまでさかのぼる。太平洋戦争が終戦してしばらく、沖縄に駐留する米軍の家族は日本人と違って、ガラスを器として多く生活に用いていた。それらのガラスの多くはメキシコでつくられたものを持ち込んできたもので、消耗品ゆえ壊れてしまう。そのかわりのものを彼らは欲しがり、奥原硝子に注文が入るようになったのだ。 といっても、沖縄は資源が乏しい土地柄。ガラスの原料が手に入らなかった。それに、どんなものをつくればよいのか、当時の日本には見本となるガラスの器が無かったのである。
 そこで、奥原硝子の創設者、奥原盛栄さんは沖縄で手に入るものを上手に利用してガラスの器をつくった。沖縄文化の特徴として、外から入ってきたものを巧みに取り入れて、自分たちの流れにつくりあげていくということが言えるのだが、奥原さんのガラスづくりは、まさに沖縄文化を象徴するものであった。
 彼がガラスの原料として利用したのは、米軍が捨てたコーラ瓶やビール瓶、あるいはワインの瓶で、それらを砕いて再生。器のかたちはメキシコのものを真似たのであった。再生ガラスでつくるために、器は厚く重いものになってしまうのだが、大きな体型の米国人は重さをいっこうに気にしなかったという。
 こうして奥原硝子が米軍相手に再生ガラスで商売をして、軌道に乗っていた頃、益子の陶芸家、濱田庄司先生がしばしば沖縄を訪れていた。窯のある那覇市壺屋で自身の仕事をすることもあれば、窯の人たちの要請で指導もおこなった。この来島の時、再生ガラスに目を留められたという。とても素朴で分厚い。物そのものが何かを求めてつくるのではなく、沖縄の地から生み出されたかのよう。厚手でたくましい、エネルギッシュな質感をガラスから感じて注目したのである。その後、濱田先生が本土の各民藝店に沖縄のガラスの良さを伝えてくれたこともあって、日本各地の店がこぞって沖縄のガラス類を仕入れた。ガラスは値段が安い上に、当時の民藝品にはガラスの物が皆無。そんな時に突如、ガラスの物が出現したものだから、沖縄のガラスは国内にひろがっていった。必然的に沖縄でのガラスの生産量は増え、いつの間にか壺屋の陶器、芭蕉布と並ぶほど、ガラスが沖縄の名産として全国に知れ渡ることになるのである。

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独特のかたちというのではなく、きわめてシンプルで、持ちやすいかたちをつくってもらった。
ガラスは透明が基本だが、クリアすぎると素っ気ないので、わずかな気泡を入れてやわらかさを出してもらうこともある。
左端はビール樽をヒントにしたかたちのビール用マグカップ。
ビールの泡があふれないよう上端をすぼめた形状にした。少しだけ気泡が入っているのが見えるだろうか。
右から2番目は乾杯用のひとくちビアグラス。これはあえて泡入りグラスとして注文したもの

 本土からの注文に追われるほどだった奥原硝子も奥原さんが体を壊し、倒れたりして危機を迎える。そのころは奥原硝子から独立した職人が工房をあちこちでおこしていたし、那覇市内の牧港という場所に腕の良いガラス職人が集まり、「牧港硝子」という工房が誕生した。この工房は生産量が多く、品質が均一な物をつくると、たちまち有名になった。実際、私が民藝の仕事に入る1972年(昭和47年)には、「沖縄ガラスといえば、牧港」という決まり文句があったほど。本土のどの民藝店にも牧港硝子の製品が置かれていたのだ。
 1972年は、太平洋戦争後、米国に占領された沖縄が日本領に復帰する「本土復帰」の年でもある。これを機に、本土からガラスの原料が沖縄に入ってくるようになった。そうすると、沖縄のほとんどのガラス工房は再生ガラスではなく、そのまま溶かすだけでよい原料へと切り替えていった。なぜなら、再生ガラスは砕いて再生する前に、入念に洗浄する必要があり、何倍も手間がかかったからだ。
 1975年(昭和50年)あたりには、民藝ブームが下火になった影響もあり、たくさんあった工房が統合されるか、廃業へ追い込まれた。栄華を誇った牧港硝子も同じ道をたどった。 私が奥原硝子を訪れたのは、沖縄のガラス工房が整理された後、たしか1980年(昭和55年)頃であった。危機的状況であった奥原硝子は、奥原さんの後を継いだ桃原正男さんによって復活への道を歩んでいた。創設以来、奥原硝子の工房は那覇市余儀という市街地にあった。街中に忽然と小さな野原があり、その土地にトタン葺きで簡素な工房が建っていた。私はまずこの佇まいに感激した。その内部では、桃原さんが暑い中、重油を焚いて黙々とガラスを吹いている。身にまとうのは職人然とした作業服ではなく、Yシャツときちんとしたズボン。まるでビジネスマンのようだ。そして坩堝の中の火が目に当たらないように、頭には麦ワラ帽子などツバの広い帽子をかぶっている。いでたちが実にスマートなのである。それに、弟子の職人が汗だくで動き回っているのに、彼はほとんど汗をかかず、悠然と座って、涼しげに仕事をこなしていた。「お前らみたいに頑張らなくても仕事はできるんだぞ」と言わんばかりの、淡々としたスタイルは実に格好良く、心底男惚れしてしまった。
 仕事への姿勢も一貫としていて、他の工房がいっせいに原料ガラスに移行する中、彼はひたすら再生ガラスによる器づくりを続けていた。はじめて会った時、「わざわざ原料を買う必要はないし、奥原硝子ははじめからガラスを再生して使ってきたたわけだから、自分はこれに一生身を置いてやっていきたい」と桃原さんが話していたのがとても印象に残っている。

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それぞれ左側がイランのコップ。
全体のフォルムが良いので、奥原硝子に持ち込み、嫌みのある装飾や、
過剰に細かいひねりを修正してつくってもらったのが右側のコップ

 そんな桃原さんにも惹かれ、沖縄を訪れるたびに、工房に顔を出し、その時々に在庫していた製品を見て注文し、仕入れるようになった。当時、奥原硝子は全国からの注文に対して定番製品を用意し、応える体制をとっていた。ガラス製品は一つ、二つという単位ではなく、数ものゆえに100もの単位で注文しないと定まったかたちが出来上がらない。そのため、特別なかたちを発注するのは、とても勇気が要ることだったのだ。もし販売に向かないものをつくってしまったらとか、つくったものが価格に合わないものになったら、などと躊躇してしまうのである。
 しかし、10年ほど前から私は日本の優れた手仕事の品を現代の暮らしに合うようにアレンジし、次世代へ継いでいく役目をになうことに使命感をもって関わっていくようになったため、桃原さんに自分たちの望むオリジナルのかたちをつくってくれませんかと申し出ることにした。

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イタリア製ピッチャーを復刻。
ペリカンのくちばしのごとく、
先端がすぼまっていくかたちゆえ、
注ぐ際にも中に入れた氷が落ちにくい。
再生ガラスの重厚なフォルムは
オリジナルよりも力強く、健やかな印象だ

 いまだに再生ガラスを続けている奥原硝子の姿勢とたくましさ。そして沖縄の健康さがにじみ出てくる製品。使うと美しいし、気持ちがいい。このことをもっと広く知らしめたいという想いもあった。
 桃原さんはすぐに快諾してくれた。そこで、私は良い見本としてイラン、イタリア、メキシコなどの国の器を持ち込んで、日本の暮らしに合うようかたちを修正してつくってもらった。
 また、古き良きかたちを現代の暮らしに合うよう甦らせるのも大事なこと。30年前には民藝店に並んでいたものの、その後、消失してしまった、斬新で良いかたちの器、たとえば「ドレッシング入れ」や陶器のマカイ(碗)をガラス器にしたものなどに少し修正を加えた上での復刻依頼もしたのだった。

 沖縄は戦後の混乱で、さまざまなものが衰退していく中、甦った再生ガラス。今は若い世代を中心に人気も出てきている。沖縄の再生ガラスについて、「再生」の意味合いを理解していない民藝の重鎮なる人たちもいるけれど、若い人は「厚い、重い」など表面的なことではなく、再生ガラスの器に内包する元気さや健康さに魅力を感じているようだ。今日、手仕事は廃れてきているが、この事実は手仕事の明るい未来を示唆するものではないだろうか。

 

(語り手/久野恵一、写真・聞き手/久野康宏)