日本民藝館展のために物を選ぶ
柳瀬朝夫さんが過去にどれだけ優れた物をつくっていたかを端的に知るには、最初の日本陶芸展に出品された物を見るのが良い。その後も2回ほど、柳瀬さんをはじめ、小鹿田の陶工は日本陶芸展に出品したが、彼らには個人名で公募展や展示会に出品し、自分の仕事を誇ってはいけないという組合の決まりがある。個人名を前面に出すと、小鹿田焼の共同体が崩れてしまう恐れがあるからだ。それで第5回の展示から引いたのだった。
では私が小鹿田焼の極めて優れた仕事をどこで見てきたかというと、まずは日本民藝館展。もうひとつは、日本民藝協会と対立する組織、大阪の日本民芸協団が運営する日本工芸館にて同じ頃に開かれた公募展である。この2つの展示くらいしか、小鹿田の優れた仕事を見る機会が無かったのである。
ただ、失礼な言い方かもしれないが、日本民芸協団の公募展は審査する対象はいかに売れる物か。明快な眼の視点が無かった。制作者たちも、その状況がわかっていたので、それほど力を入れていなかったのだ。一方、日本民藝館展は日本各地の陶工が自費出品もしくは他人に委ねて出品した物も含めて、仕事の内実を伝える唯一の展示会だったといえる。
私はこの日本民藝館展に関わり30年、小鹿田にある10軒の窯元を1年に一度回って、つくられた物の中から日本民藝館展の出品にふさわしい物を選ぶ仕事を当時の柳宗理館長からまかされて10余年おこなってきた。ところが、8年ほど前から私が中心に物選びをしていることに日本民藝館側の一部が危惧感を感じ、自主的に窯元の方で選んで出品するように促すようになった。それでも私を慕ってくれ、または私でないと駄目だと感じている窯元も存在するため、それらの人たちの物を今も私自身が選び、出品を続けている。
それは良い物を選び、小鹿田本来の力を持った物を出品させたいという気持ちがあったからだ。良い物を求めていった結果、過去にさかのぼって、小鹿田焼の優品を復活させてもらおうと私は取り組み始めたのだった。
過去の優品を復活
その期待に応えたのが柳瀬朝夫さんと坂本茂木さんだった。坂本茂木さんについては、思わぬような物をつくりだしてきて、私の予想を超すような力を備えた人だった。それは彼の個性であり、凄さなのだ。柳瀬朝夫さんは純粋に、素朴に私と関わりを持ちながら制作してくれた。
過去の優品を復活させるにあたっては、昭和30年代までの、日本民藝館に蔵品されている小鹿田焼の過去の古作を基準に制作を進めた。前編でも触れたように、柳宗悦や濱田庄司により選ばれた、それらの蔵品は撮影後アルバムにまとめられ、10軒の窯元に届いていた。その蔵品の写真を照合しつつ、かつての優れた仕事を復元しようと試みたのだ。
さらに私はアルバムに掲載された日本民藝館蔵品に限らず、過去につくられた小鹿田焼の優品が集まっている所に足を運んでは撮影したり、スケッチして、新たな小鹿田焼の仕事を提示したのである。
その当時、柳瀬朝夫さんは雑器をとにかく大量につくるので、それだけおもしろい物が出来上がってきた。彼は朝の5時から夜の11時まで「仕事の虫」と呼ばれるほど制作に打ちこんでいた。私は10軒の窯元に「朝夫さんみたいに頑張って仕事すれば良いのに」と投げかけると、ある窯元いわく「ワシは銭を好かんけんね」と答えた。これは、そんなに働いて金持ちになりたくないという、いわば朝夫さんに対する皮肉のようなもの。それほど朝夫さんはよく仕事をする方だったのだ。
彼が量をつくればつくるほど、その中からいくつか優れた物が出てくるのだ。たとえば100個つくれば、その中から完品は50個くらいしか取れないもの。その中からさらに焼き上がりが美しい物を私の眼(見方)で一つ一つ選び出していくのである。そういった物を日本民藝館展に出品したり、私自身で保存したり、私が企画する小鹿田焼の展覧会に出したりしたのだった。
これは白化粧打ち刷毛目の土瓶。
柳瀬朝夫さんはこのように全体がふっくらとしたかたちの物をつくる。 柳瀬朝夫さんの全盛期
私の友人で、仲間である横山正夫さんは手仕事フォーラムのホームページの中で「今の物、昔の物」を担当し、撮影、執筆してくれている。彼は古作品の物に造詣が深く、そういう物に美しさを感じる人である。彼は過去の物の良さをとてもよく見ることで、今の新作の物を見る眼を養っているのだ。 そんな横山さんが、私が以前集めた小鹿田焼の優品の中からさらに良い物を今回選んでくれた。その物の中には柳瀬朝夫さんもかなり見受けられる。私が柳瀬朝夫さんと仕事に取り組み始めたのが約30年前。それから朝夫さんが自分の仕事の流れをつくり始めたのが25年〜15年くらい前。すなわち、そのわずか10〜12年間が柳瀬朝夫の全盛期と言ってもよいと思う。
以前、大阪の日本民藝館は現在つくられている新作の優品を集めていた。また愛知県豊田市の民藝館も20年ほど前から新作の優品を収集。この2つの館に私が柳瀬朝夫さんと関わってつくられた物がかなりの数含まれているのだ。それらもまた、この12年間につくられた物ばかりだった。
つまり昭和50年(1975年)以降、平成7〜8年(1995〜1996年)くらいが柳瀬朝夫さんの全盛期ということになる。
それでは横山正夫さん所有の、柳瀬朝夫さんが全盛期に手がけた優品を解説していこう。
これらの口付き徳利もまた小鹿田らしい柔らかいかたちをしている。
本人は理詰めで工藝的な物をつくろうなどまったく意識していないのに、出来上がった物は工藝的に見える。
それが朝夫さんの焼き物のユニークな特徴だ。
焼成が還元がかったことにより、口付き徳利はより黒みを増した。それにより釉薬の色が際立っている。つくり手の意図を火が消しつつも、その人の良さを逆に引き出してもいる。
この焼き物の用途は口がポイント。袋から出てきて少し外に反らせた口のかたちとてらいの無い口の切り方がとても収まりが良い。このかたちを見ることで訓練されたつくり手であるかどうかがわかるのだ。
また、この徳利は片手で持ち注ぐため首の部分が滑らないよう、がっちりとしたかたちをしていないといけない。朝夫さんの徳利はきっちりとした首のかたちをしているため、持っても滑らないし、ぶつけても割れにくい。これは彼が体で当たり前のように、こういうつくり方を伝承して、技術を自分の中に会得していることを示しているのだ。 |