Kuno×Kunoの手仕事良品

#040[小鹿田焼 柳瀬朝夫さんの仕事・後編] 大分県日田市 2009.5.28

日本民藝館展のために物を選ぶ

 

 柳瀬朝夫さんが過去にどれだけ優れた物をつくっていたかを端的に知るには、最初の日本陶芸展に出品された物を見るのが良い。その後も2回ほど、柳瀬さんをはじめ、小鹿田の陶工は日本陶芸展に出品したが、彼らには個人名で公募展や展示会に出品し、自分の仕事を誇ってはいけないという組合の決まりがある。個人名を前面に出すと、小鹿田焼の共同体が崩れてしまう恐れがあるからだ。それで第5回の展示から引いたのだった。
 では私が小鹿田焼の極めて優れた仕事をどこで見てきたかというと、まずは日本民藝館展。もうひとつは、日本民藝協会と対立する組織、大阪の日本民芸協団が運営する日本工芸館にて同じ頃に開かれた公募展である。この2つの展示くらいしか、小鹿田の優れた仕事を見る機会が無かったのである。
 ただ、失礼な言い方かもしれないが、日本民芸協団の公募展は審査する対象はいかに売れる物か。明快な眼の視点が無かった。制作者たちも、その状況がわかっていたので、それほど力を入れていなかったのだ。一方、日本民藝館展は日本各地の陶工が自費出品もしくは他人に委ねて出品した物も含めて、仕事の内実を伝える唯一の展示会だったといえる。
 私はこの日本民藝館展に関わり30年、小鹿田にある10軒の窯元を1年に一度回って、つくられた物の中から日本民藝館展の出品にふさわしい物を選ぶ仕事を当時の柳宗理館長からまかされて10余年おこなってきた。ところが、8年ほど前から私が中心に物選びをしていることに日本民藝館側の一部が危惧感を感じ、自主的に窯元の方で選んで出品するように促すようになった。それでも私を慕ってくれ、または私でないと駄目だと感じている窯元も存在するため、それらの人たちの物を今も私自身が選び、出品を続けている。
 それは良い物を選び、小鹿田本来の力を持った物を出品させたいという気持ちがあったからだ。良い物を求めていった結果、過去にさかのぼって、小鹿田焼の優品を復活させてもらおうと私は取り組み始めたのだった。

 

過去の優品を復活

 

 その期待に応えたのが柳瀬朝夫さんと坂本茂木さんだった。坂本茂木さんについては、思わぬような物をつくりだしてきて、私の予想を超すような力を備えた人だった。それは彼の個性であり、凄さなのだ。柳瀬朝夫さんは純粋に、素朴に私と関わりを持ちながら制作してくれた。
 過去の優品を復活させるにあたっては、昭和30年代までの、日本民藝館に蔵品されている小鹿田焼の過去の古作を基準に制作を進めた。前編でも触れたように、柳宗悦や濱田庄司により選ばれた、それらの蔵品は撮影後アルバムにまとめられ、10軒の窯元に届いていた。その蔵品の写真を照合しつつ、かつての優れた仕事を復元しようと試みたのだ。
 さらに私はアルバムに掲載された日本民藝館蔵品に限らず、過去につくられた小鹿田焼の優品が集まっている所に足を運んでは撮影したり、スケッチして、新たな小鹿田焼の仕事を提示したのである。
 その当時、柳瀬朝夫さんは雑器をとにかく大量につくるので、それだけおもしろい物が出来上がってきた。彼は朝の5時から夜の11時まで「仕事の虫」と呼ばれるほど制作に打ちこんでいた。私は10軒の窯元に「朝夫さんみたいに頑張って仕事すれば良いのに」と投げかけると、ある窯元いわく「ワシは銭を好かんけんね」と答えた。これは、そんなに働いて金持ちになりたくないという、いわば朝夫さんに対する皮肉のようなもの。それほど朝夫さんはよく仕事をする方だったのだ。
 彼が量をつくればつくるほど、その中からいくつか優れた物が出てくるのだ。たとえば100個つくれば、その中から完品は50個くらいしか取れないもの。その中からさらに焼き上がりが美しい物を私の眼(見方)で一つ一つ選び出していくのである。そういった物を日本民藝館展に出品したり、私自身で保存したり、私が企画する小鹿田焼の展覧会に出したりしたのだった。

 

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これは白化粧打ち刷毛目の土瓶。
柳瀬朝夫さんはこのように全体がふっくらとしたかたちの物をつくる。

柳瀬朝夫さんの全盛期

 

 私の友人で、仲間である横山正夫さんは手仕事フォーラムのホームページの中で「今の物、昔の物」を担当し、撮影、執筆してくれている。彼は古作品の物に造詣が深く、そういう物に美しさを感じる人である。彼は過去の物の良さをとてもよく見ることで、今の新作の物を見る眼を養っているのだ。
 そんな横山さんが、私が以前集めた小鹿田焼の優品の中からさらに良い物を今回選んでくれた。その物の中には柳瀬朝夫さんもかなり見受けられる。私が柳瀬朝夫さんと仕事に取り組み始めたのが約30年前。それから朝夫さんが自分の仕事の流れをつくり始めたのが25年〜15年くらい前。すなわち、そのわずか10〜12年間が柳瀬朝夫の全盛期と言ってもよいと思う。
 以前、大阪の日本民藝館は現在つくられている新作の優品を集めていた。また愛知県豊田市の民藝館も20年ほど前から新作の優品を収集。この2つの館に私が柳瀬朝夫さんと関わってつくられた物がかなりの数含まれているのだ。それらもまた、この12年間につくられた物ばかりだった。
 つまり昭和50年(1975年)以降、平成7〜8年(1995〜1996年)くらいが柳瀬朝夫さんの全盛期ということになる。

 それでは横山正夫さん所有の、柳瀬朝夫さんが全盛期に手がけた優品を解説していこう。

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 これらの口付き徳利もまた小鹿田らしい柔らかいかたちをしている。
本人は理詰めで工藝的な物をつくろうなどまったく意識していないのに、出来上がった物は工藝的に見える。
それが朝夫さんの焼き物のユニークな特徴だ。
 焼成が還元がかったことにより、口付き徳利はより黒みを増した。それにより釉薬の色が際立っている。つくり手の意図を火が消しつつも、その人の良さを逆に引き出してもいる。
 この焼き物の用途は口がポイント。袋から出てきて少し外に反らせた口のかたちとてらいの無い口の切り方がとても収まりが良い。このかたちを見ることで訓練されたつくり手であるかどうかがわかるのだ。
 また、この徳利は片手で持ち注ぐため首の部分が滑らないよう、がっちりとしたかたちをしていないといけない。朝夫さんの徳利はきっちりとした首のかたちをしているため、持っても滑らないし、ぶつけても割れにくい。これは彼が体で当たり前のように、こういうつくり方を伝承して、技術を自分の中に会得していることを示しているのだ。

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 尺7寸の大皿。これくらいの大きな皿になると2〜3枚重ねて焼く。これは一番上に置かれた物のため、重ねの「目」が無い。刷毛を打ち、縁に指描きを施して、青地釉と飴釉を大胆に打ち掛けている。
 この打ち掛けを見てもわかるように、勢いがあって、無造作である。粗野でありながら、非常におもしろい模様になっている。最近、朝夫さんがつくっている物は何かそらぞらしさを感じるのだが、この刷毛と指描きはきちんと入り、工藝的なのだ。
 この技法は古唐津(18世紀初め頃)の物にあった技法から真似ているのだが、坂本茂木さんの場合は本当に古唐津的な物をつくってしまう。ところが朝夫さんが古唐津を参考にしてつくると小鹿田その物になってしまう点が興味深い。

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 これは尺4寸の引きっ放しの皿。刷毛を打ち、中央に櫛描きしている。これも非常に焼き上がりが美しく、またてらいの無い釉薬の掛け方が見られる。そして櫛描きの収まりの良さも魅力だ。

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 3斗5升の小鹿田では一番大きな壷で俗に言う「らっきょう壷」である。白化粧をずさんに掛けている。こういった大壺を成型する際には、まず腰を立てて、ある程度乾かしてから、その上に再度、陶土を載せていく。その継ぎ跡が明確に出てしまっている。ふつうはみっともないことなのだが、朝夫さんがつくると何かおもしろい。
 李朝白磁に「ちょうちん壷」と呼称される壷があるのだが、それもまた重ね合わせた部分が段状の線になって表出してしまっている。本来なら成型上は良くないのだが、むしろそれが逆に心をなごませるような雰囲気がある。
 そのような心をなごませる状況の上に飴と青い釉薬を大胆かつ粗野に掛けていることで、壷が活き活きとして眼に映るのだ。

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 5合入り切立(きったち)壷。柳瀬朝夫さんの祖父、熊蔵さんがつくったような、肩に段がある。朝夫さんはあえて段を付けているのだが、それも本来は嫌みな物になりがちだ。しかし、掛けた緑釉が段の部分にたっぷりと溜まった。
 さらに刷毛目を打ったのだが、そこが曲面のために下へ流れて行った。それでこのように嫌みの無い、おもしろい物が出来たのだ。そして、このすくっと立つかのようなプロポーションが小さいながらも存在感を持たせてくれている。

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 尺3寸皿。縁を付けるか付けないか程度に反らせたかたちをしている。そこに白化粧土をたっぷり掛けてから飴釉をスピーディにズブ掛けしている。さらにその上から青地釉を大胆に掛けているのだ。
 また、この櫛描きも乱暴なのだが、理詰めではなく、山の峰々が広がったり、狭まったりしている。その嫌な部分をきれいな飴釉を掛けて消されたことで逆に活き活きとして見えるのである。
 こういうような釉薬の調子と釉薬の強さ、下手な櫛描き文様が相まって、きわめて優れた物に仕上がっている。これは小鹿田としての名品のひとつとして推薦したい。

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 切立の6升甕(ガメ)。細長の壷の表面積が狭いのは、中に容れる物にカビを発生させたくないからである。つまり、味噌や塩気が強い物を容れる用途を持つのだ。本来ならば、伝統的な味噌ガメである。
 まずロクロを回しながら白い化粧土をスポイトでずさんに流し掛け、その上から飴釉をズバっと掛けてある。そのために白い化粧土の部分は黄色になる。さらにその黄色の上に青地釉の緑色を挿すように掛ける。ところが同じように掛けようとしても同じ位置に入らないため、これもずさんなように見える。
 これら3色の色それぞれが元気で、あたかも民窯の力、良さを醸し出しているかのようだ。
 切立った壷全体のフォルムとかぶせたフタのバランスも極めて良い。それはフタのつまみが程よい大きさになっていることも影響している。大きすぎず、小さすぎず。その大きさが全体のプロポーションを引き締めているのだ。

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 黒い釉薬を掛けて、大胆に指描きした模様を施し、肩の少し上の部分に指で溝を掘っている。
さらに「黄ナダレ」というワラ灰の釉薬に鉄分を混ぜたものを大胆に掛けてある。
 この壷は私が創案した物で、火鉢用として朝夫さんにつくってもらった。本来、火鉢は持ち手が内側に食い込むかたちをしている。
ところが、小鹿田の場合、陶土のきめが非常に細かくて厚手につくれない。薄づくりのために内側に持ち手を返すと下に落ちてしまう。
外に開くしかない。このかたちの原型は、壷、カメを半分に切った鉢型に、腰を立てて肩をすぼめて、縁をがっちりと付けたのだ。
 火鉢ゆえ、持った時に熱くてはいけないので、縁の部分だけがっちりつくってくれとお願いした。
 そして、水ガメと見間違われたくないため、あえて滑り止めとして指で土の表面をかき落としてもらった。
この指描きを施すことで収まりをつけようとしたのだが、機知に富んだ大鉢に出来上がった。
 黒い釉薬と黄ナダレの焼き上がりが極めて強い点も注目すべき点だ。
小鹿田では黒い釉薬を掛けた物は登り窯の中でも、火がもっとも強い一番目の袋(「あんこう窯」とも呼ぶ)の火前に置いて焼く。
それにより黒い釉薬がとてもよく溶けるのである。これも今まで朝夫さんがつくった物の中でも名品のひとつとして取り上げたい。

 

伝統の強さ

 

 柳瀬朝夫さんには、窯出しのたびに、このように細かくさまざまな注文をした。そのため、朝夫さんの製品には100種類を超すほど私のオリジナルの注文の物が含まれている。ところが、小鹿田のおもしろさというのは、そのようにオリジナルでつくった物でも1〜2年経つと、そこの窯の伝統的な品物になってしまうことだ。伝統の力として取りこんでしまう強さがあるのだ。
 刷毛目にしても、飛び鉋(かんな)にしても実は小鹿田に昔からあった文様ではない。しかし、まるで昔からあったように見えるのは、新たな技法や文様が入っても、わずか1〜2年後には、あたかも100〜200年も続いているかのようなものに組みこまれてしまうのだ。これが小鹿田の伝統の強さであり、おもしろさであり、凄さであるということ。その凄さをまさに体現しているのが柳瀬朝夫さんなのだ。
 一方で坂本茂木さんはきわめて稀な芸術的技量をもった人。この二人は対照的なつくり手である。二人の個性があって、私は小鹿田に取り憑かれたのだ。両人との長い付き合いの中で、私自身も小鹿田の物の見方も成長できたし、小鹿田焼があってこそ現代日本の民藝が確立されたこともよくわかったのである。

 

小鹿田と民藝運動

 

 私の先生である、鈴木繁男さんが「小鹿田が今まで継続してこなかったら、日本の民藝運動は無かった」と語ったことがある。当時の私はどうしてなのかと疑問を感じたが、今は確かに鈴木さんの言う通りだったと思っている。
 柳宗悦によって日本における民藝が明らかにされ、各地の優れた民藝品が収集された。しかし、それらはすべて骨董品だ。現在もつくられている物はほとんど無い。ところが、小鹿田から生まれる物の中には、骨董の美しさを備える、過去の優品と大差無い物が時々出てくるのである。昔も今も、その時代、時代でおいても極めてつくりの優れた人、卓越した芸術性を備えた人が小鹿田にはいて、突出した優品が存在した。そういった物を集めてきたのが、柳の眼を通して選ばれた、日本民藝館にある蔵品なのである。
 ということは、もし柳宗悦が今も生きていたとすれば、まだ小鹿田の中から蔵品として選べる物があるということなのだ。そのことを鈴木繁男さんは端的に言ったのである。小鹿田だけが今でも継続してこういう仕事を生み出している、つくり出している。だからこそ、日本に今でも民藝が健在しているのだと。

 

坂本茂木さん、柳瀬朝夫さんの功績

 

 そういった今も日本民藝館に蔵品されるような物を提供してきたのが坂本茂木さんだった。彼がいなければ、日本の民藝は無かったといっても過言ではないと鈴木繁男さんは言った。また、そのような物を日用品として広めてつくっていったのが柳瀬朝夫さんだった。彼ら両人が昭和後半の優れた民藝の代表であることは覚えておいてほしい。
 沖縄の金城次郎は1960年代に全盛期だったから、昭和35〜45年くらいのこと。それ以降はまさに小鹿田の坂本茂木、柳瀬朝夫という2人の仕事が日本の民藝をかたちづくったといっても過言ではないだろう。さらに、小鹿田には黒木力という優れたつくり手もいた。こうした人たちが協力し、刺激し合ったからこそ小鹿田の存在が広まり、その理由として、一貫した手仕事が国の重要無形文化財技術指定保持に指定されるまでになった。
 柳瀬さんの優れた良い物は私の手を経てお買い求めていただいた方の手元にもあるし、日本民藝館の中にもある。一番多いのが大阪の日本民藝館に蔵品されている。それから豊田市民藝館にも柳瀬さんの優品が収められている。さらにはよく小鹿田焼の展覧会を催した松本、富山近辺の本当に民藝が好きな方の家にもある。いずれ私は柳瀬朝夫さん、坂本茂木さんの物を中心にした昭和の優れた民藝陶器を集めた本を提案していきたいと考えている。
 そして、この両人や黒木力さんの良さを理解し、体現しようとしている坂本浩二君が現在、頑張っている。こういう前向きで、伝統を背負って生きていく人が一人か二人出てくるというのは、優れた人の仕事が見えるからだ。また、私がこういう物を提案できるためにこういう人たちが育っていくのである。
 残念ながら柳瀬朝夫さんは力が落ちてきて良い物がなかなか出来にくくはなってきているけれども、もともと力は持っている人なので、新たなつくりに対する挑戦をしようとしている。これぞ小鹿田の凄さなのだ。

 

(語り手/久野恵一、聞き手/久野康宏、写真/横山正夫)