Kuno×Kunoの手仕事良品

#041 [小谷真三さんのコップ] 岡山県倉敷市 2009.6.30

 倉敷ガラスの小谷真三(しんぞう)さんを取り上げる本は数多い。濱田庄司、河井寛次郎、芹沢?介、棟方志功など民藝の巨匠も私的に小谷さんのガラスを喜んで所有していたし、全国の工藝店やギャラリーからも引く手あまたの需要がある。しかし、彼の仕事のどこか優れているのか、何が美しくて、何がいいのか端的に指摘されていない。ただ小谷さんが吹くガラスはいい物として一般に広まっている。
78歳の現在も精力的に制作に励まれている小谷さんの生き方を見つめつつ、私なりに小谷ガラスの良さを伝えたいと思う。

小谷真三さん(撮影/田中良子)

 

倉敷にある、小谷真三さんの仕事場。通常は共同でおこなう吹きガラスの作業を一人でこなすために独創的な工夫がなされている

(撮影/田中良子)

壁に「水」の文字が映る(撮影/田中良子)

 

.

逆光で透かして見ると、ガラスの美しさが際立つ(撮影/田中良子)

コップとの出合い

 

 私が小谷真三さんの名を初めて知ったのはいつだったのかは記憶が無い。35年前、民藝店を自分で始めようとしていた時には、何となく「倉敷に小谷真三さんあり」と知っていた。民藝に携わる人ならば誰でも同じと思うが、いつの間にか「倉敷ガラス、小谷真三」が頭の中に入ってくるという感じなのだ。

 たとえば「小鹿田焼の陶工、坂本茂木は良い」「沖縄の金城次郎は凄い」というのは誰から聞いたわけでもなく、何となくわかるもの。今なら、「あけび蔓細工の中川原信一は、なかなかいい仕事をしている人だ」というのも、この世界の人は何となく知っている。

 もやい工藝を設立した当時、私は渋谷の宮益坂にあった「べにや民藝店」の経営者、奥村正さんと親しかった。もやい工藝も杉並区永福町でスタートし、奥村さんの自邸も西永福町だった縁もあったのかもしれない。まだ私は工藝店を構えておらず、民藝品を卸す仕事についたばかりの頃、べにや民藝店を使わせてもらい、小石原焼の太田熊雄さんの展覧会を開くことになった。そのため奥村さんと一緒に九州まで旅した。その時、倉敷に寄りたいと言う奥村さんに誘われるまま、途中下車した。奥村さんは難波産業という大きな繊維問屋に向かった。この会社の社長が民藝に強い関心があり、また正さんの父である画家、奥村土牛の大ファンで、絵も購入していたこともあり、正さんと懇意にしていた。そんな難波さんを通して、べにや民藝店で小谷真三さんのガラスを販売したいと奥村さんは考え、お願いに行ったのだった。

 同席していた私は「小谷さんはそんなに素晴らしい人なのかな?」と感じた。わざわざそこまでして頼まなければ入手できないのかと。

 難波さんは小谷さんがガラスの仕事に入った頃から、製品を買い上げてコレクションしたり、他の人に差し上げたりして、小谷さんをバックアップされている方だというのも、その時に知った。こういう立派な方が地方にはおられるのだなあと。経済人だけど、大旦那的な雰囲気があり、こういう人たちが地方の制作者を育てていくのかなとしみじみと感じた。

 岡山のデパート「天満屋」には民藝振興株式会社が民藝コーナーの売り場を持っていた。岡山の民藝協会がつくった民藝店で、外村吉之介さんらが日本各地の民藝品を広めていく運動と同時に、それらをデパートで販売をおこなう普及活動の先駆けであった。民藝ブームのさなかの時期だったこともあり、売られている物は大変素晴らしい仕事による物が見受けられた。そのことを今でもよく覚えている。

 その中に品数は少ないものの、ガラスのコーナーがあった。そこには小谷真三コーナーが設けられ、私は初めて小谷さんが具体的にどのような物を制作しているのか目にすることになった。

 まず目に入ったのはコップだった。私はまだ若輩者だったため、造形的な物への眼がまだ備わっていなかったのだ。民藝というのは、日常の暮らしの道具で、花瓶や作品は民藝品ではないと思いこんでいた。そのためコップに非常に興味を覚えたのである。しかし、自分の家でどのようなコップを使っていたかというと、どこかのビール会社の景品だったと思う。小谷さんのコップはずいぶん大ぶりで分厚く、強い魅力を秘めていた。

 

小谷さんが試行錯誤して制作した物。製品としては世に出なかった

 

薄グリーンに惹かれる

 

 泡が入ったブルーの小鉢や小皿など好感度抜群の雑器類を見て、自分も欲しくなったが、当時の私には買いたくてもお金が無かった。すると、奥村さんが「しばらくしたら、うちの店で取り扱うから、その時に買いなさいと。安く出してあげますよ、久野さんがそんなに好きならば」と言ってくれた言葉が印象に残っている。これは6月くらいの話だったと思う。

 それからしばらくして、たしか9月か10月の秋だったが、奥村さんから電話があり、興奮した口調で「久野さん、小谷さんの作品がたくさん入ったから見に来ない?」と。もう、私は喜び、飛んで行った。お店に着くと、ちょうど荷を開けているところで、お店の人も嬉しそう。そんなに欲しかった物なのだなと私も一緒になって喜んだ。  「久野さん、好きな物を買いなさいよ」と言われて、まっ先に手に取ったのはコップだった。これをお店の人は「タンブラー」と呼んでいた。淡い色合いがいかにも手仕事の良さを感じさせた。

分厚くて重い薄いグリーンのコップ。
斜めに「モール」が入り、雰囲気がとても良く、
がっちりして、ぶつけても割れない。
今、見ると沖縄のガラスに似ている。
非常にどっしりとしていて、たくましい。
それでいて柔らかな温かみがある。
さらに薄いグリーンの色がしっくりとしていて、
私は小躍りして、この色のコップばかりを抱えた

 小谷さんは段ボールの中にコップを6個入れて発送。いわゆる半ダースの箱が積み重なっていた。その割れにくい送り方が上手だなあと感心した。それらの多くは透明な美しいコップだったが、中には薄いグリーンのコップも少し混じっていた。同じ箱の中に透明と薄いグリーンの物が混在している理由は何なのか、私は不思議に思った。私は薄いグリーンの方に惹かれて、そればかり20個ほど手元に集め、これが欲しいと言うと、奥村さんと店員さんたちは顔を見合わせた。「久野さん、コップという物は本来、透き通っていないといけない。そっちの方が主流なんですよ」と言う。私はそんなことはおかまいないなしに、これが欲しいと答えると、「お金はいいですから、持って行きなさい」と奥村さん。結局、3ダース、18個の薄緑のコップと、透き通ったコップも2個ほどいただき、とても感激した。

 その後、小谷さんは雑誌でずいぶんと紹介されるようになった。新宿「備後屋」では年に一度展覧会をおこなった。その初日には朝6時からお客さんが10人、20人と並び、開店と同時に奪い合っているという記事も載っていた。奥村さんの「べにや」も「うちでもいずれは展覧会をやりたいけれど、まだそれほどの実力は無いけれど、頼んではいます」とのことだった。

 また、奥村さんや地方のさまざまな人を通じて、小谷さんが一人でガラスの仕事を始めて苦労してようやく製品になったというストーリーを耳にした。当時の民藝店ではガラスの製品は沖縄とメキシコの物以外はほとんど無かった。それでも沖縄のどっしりとしたガラス、たとえば牧港のガラスはとても良いと思える物だった。小谷さんはつくる量も限られ、民藝店が欲しくても手に入らない。東京では「備後屋」と小さなギャラリーのみが小谷さんの展覧会を開催できる程度だったが、やがて「べにや」でも扱えるようになり、そのことが私と小谷さんをつなげるきっかけになったと言えよう。その他には倉敷に行けば見かける程度で、他は昔から小谷さんとつき合いがある店のみにだけ製品が置いてあった。

 

避暑地の工房にて

 

 それからしばらくして、1977〜1978年頃、盛岡「光原社」オーナーであり,友人の及川隆二さんから、小谷さんが今度、盛岡に工房をつくることを聞く。及川さんの祖父、及川四郎さん(光原社を創設し、宮沢賢治の先輩である、彼が「注文の多い料理店」を出版した時にバックアップした人物)は、小谷さんがこの仕事に取り組み始めた頃、援助するにあたり、約束したことがあった。いずれ小谷さんの仕事が順調になったら、盛岡に工房を設けて制作しないか?と。小谷さんは義理堅い人なので、その約束を果たさねばと、盛岡で仕事をしてもいいということになったのだという。もちろん光原社としては仕事場を提供したいと、小谷さんのまかないまでする約束をした。

 だが及川さんは、工房をどういうふうにしたら良いのか見当がつかないので、一緒に小谷さんの工房のひとつを見に行かないかと誘われた。そこは岐阜の飛騨古川という高原だった。この地では小谷さんの戦時中の上官だった安土(あづち)さんが農業や林業の仕事をされ、広大な農場と牧場を持っていた。夏の暑い時期に涼しい所だから、牧場でガラスを吹かないかと小谷さんは安土さんに声を掛けられた。小谷さんは喜んで応じ、牧場に工房を建ててもらったのだ。

 牧場を訪ねると、牛を引っ張って歩いている青年を見かけた。安土さんの息子だった。小谷さんも安土さんもいなかったので、工房の場所を尋ねると「あの小屋です」と指差す。それは牛小屋のような、簡素な小屋だった。及川さんは工房の図面を描き、建て始めていたが、「こんな程度の小屋で仕事ができるのか?」と驚き、あんなに大げさな工房にしなくても良かったのになあと冗談を言っていた。安土さんの息子によると、小谷さんは来られても1〜2週間くらいしか滞在しないが、脇で仕事の様子を眺めていておもしろいので、見よう見まねで自分も毎日のようにガラスを吹いていると話した。彼がそうして制作したガラスを白州正子さんが眼に留め、「とてもいい仕事」と思ったようだ。私たちの眼から見れば素人的な仕事なのだが、他の見方からすると素晴らしいと眼に映ったのだろう。それで白州さんが安土さんの息子のガラスをひいきにして、彼は後に大作家となっていくのである。

紫色をぼかしたコップ。
心を和ませてくれる雰囲気がある

 小谷さんは自分の居ない間に自分の仕事を真似たガラスがつくられ、売られているということもあり、この牧場の工房からはなんとなく身を引いていった。そして、やはり高山の私の知人でコーヒー店「藍花(らんか)」を営む黒坂和夫さんと親しくなる。黒坂さんは自分の知り合いに、飛騨温泉郷のひとつ「中尾平ホテル」のご主人が世話人でガラス好きだから、そこでも仕事をしましょうかと工房を建ててくれた。小谷さんはそこへ年に一度、夏の間はガラスを吹きに行くようになった。吹かれた物の半分は中尾平で販売し、残りの半分は「藍花」が買い取って売っていた。

 盛岡の光原社で小谷さんの工房を設けていた時期に重なるように、及川隆二さんはアーリーアメリカン・スタイルの自宅を新築された。彼はシェイカー教徒の家に惹かれていて、とてもシンプルないい家だった。及川さん一族が暮らす敷地は500坪ほどの森の中にあり、岩手山がきれいに見えるロケーション。中央の芝生を取り囲むようにして一族の家、漆職人の家、そして小谷さんの工房があった。私はこの工房で小谷さんと初めて顔を合わせることになった。私にはひとつの先入観があった。当時、私が見た小谷さんの写真は黒い仮面をかぶって制作している風景だった。つまり顔はあまり見ていなかったのだ。実際の人物は気さくな、普通のおじさんという雰囲気だったのが驚きだった。  それで、すぐに打ち解けることができた。その時の私は開店して間もない「もやい工藝」で小谷さんのガラスを扱うなど夢にも思わなかった。せいぜい光原社から分けてもらえればいいかなと考えていた。自分は沖縄のガラスなど実用的な製品を扱えばいいのだろうと。小谷さんはその頃はかなり著名になり、展覧会を開けば、どうしても作品的要素が強い物を吹くため、それを扱うのは自分の店ではまだ無理かなと。その後、小谷さんと盛岡で会い、一緒にお酒を飲みに行ったりして、友人のように仲良くなっていく。

 

初めての注文

 

 23年前「もやい工藝」が鎌倉佐助に移店した際にお世話になった方をご招待した。小鹿田焼の坂本茂木、柳瀬朝夫さんなど日本各地のつくり手の方を呼んだのだ。松本民藝家具の池田三四郎さんや、その頃に親しかった「古道具坂田」の坂田さんも来ていただいた。その宴会の場でみなさんに提供したいと、小谷さんにぐい呑みをつくってもらおうと私は思いつき、初めて倉敷の小谷さんの工房を訪ねた。先にも述べたように、淡い薄グリーンのコップが好きなので、この色が若干入って、小ぶりで日本酒がおいしく呑める物をつくってほしいと依頼した。

宴会用に制作してもらったぐい呑み

 頼んだぐい呑みは、10月初旬、宴会の2日前に小谷さんから送られてきた。ぐい呑みが入る箱には真っ赤な色紙が貼られ、黒い字で「お祝い」と書いてあった。中には納品書が入っておらず、小谷さんに電話すると、「お祝いであげる」と、全部で60個ほどいただいた。私は驚き、そんなことがありえるのかと恐縮すると、「いや、あなたとは長い付き合いになるだろうから、これは門出のお祝いだ。お互いによろしくなあ」と言ってくれた。  

 この一件以来、小谷さんに頼めば、当たり前のようにつくってもらえるようになった。それで「もやい工藝」でも小谷さんのガラスを置きたいと、盛岡で小谷さんと会った時、あなたのガラスは魔力がある、私はそれほど魅了されていると伝え、ぜひ扱わせてくださいとお願いした、すると「ええよ」と小谷さん。「あなたとは一生のつき合いになると思うから、よう売ってくれよ」と言ってくれた。そういうふうに私のことを見てくれているのだと感激した。

 関係が深まったことで、いきなり「もやい工藝」で販売会を開こうということになった。つまり、関東近辺で小谷さんのガラスを常に置き、展覧会もおこなえる店は東京の「備後屋」「べにや」そして「もやい工藝」の3軒になったのである。

 小谷さんと親しくなると、倉敷に行っては彼のもとへ顔を出すようになった。「自分の長い歴史ではずいぶんいろいろな方にお世話になって、ここまで来れたのだから、あんたみたいに頑張っている人を見るとなあ」と面倒をみてくださった。こうして現在に続く長い交流が始まり、3年に一度は必ず展覧会を催し、頼めば分けてもらえるという深い関係を築けたのである。

 

型吹きと宙吹き

 

小谷さんのつくる物の中でもとくに人気が高いのは雑器類だ。これほどの人が吹いたのに、こんな値段でいいのというくらい安い。おのずと大変な量をつくらないといけないため、仕方なく内弟子にコップと小鉢、小皿、中皿を吹かせて量産化を試みたこともあった。しかし、内弟子が制作できなくなった一時期にはガラスはできなくなったことも。そのため小谷さん自身が吹きだしたのだが、ほんのわずかな数しか吹けなかった。

 そんなある時、小谷さんは車のドアに手をはさんで指を怪我して、何ヶ月間か休んだことがあった。そして休養後、最初に吹きだした時に、原点であるコップからまず手がけた。よく見ると少し曲がっている。その後、微妙にコップのかたちが変わっていったのには理由がある。それは「型吹きコップ」といって、型にガラスの吹き種を入れて吹くためだ。どうしても型(缶詰みかんの缶)がしばらくすると錆びたり歪んだり、熱で溶けたりするので、替えなくてはいけない。そのたびにコップのかたちが変わるのである。

 また、小谷さんのガラスの特徴である、斜めのライン「モール」は割り箸を内側に挟み込んで当てて生み出していく。当然、割り箸は熱で燃えるので、吹いている途中でモールの大きさも変わってくる。そういったことで通常のレギュラーサイズのコップも微妙にかたちが変わってくるのである。  そのためコップをよく観察すると、小谷さんがどんな状態で吹いていたのか見えてくることがある。私もガラスのことが少しずつわかってきたので、定番製品のコップなどを制作する際に用いる「型吹き」だけでなく、作品をつくる時の技法「宙吹き」(吹きながらかたちをつくる)でコップをつくらないのかと尋ねた。「久野ちゃん、それは勘弁してよ」と小谷さん。ガラスは2分間で冷却し、壊れてしまうため、その間にかたちをつくらないといけない。コップのような単純なかたちの物をつくろうとすると、かえって難しいのだ。ところが私はあえて宙吹きコップを頼んだ。これは「ひとつコップ」という名のオリジナル商品となった。

怪我で休んだ後、最初に吹いたコップ

少しずつ、かたちが変わっていったコップ

モールの入ったコップ

宙吹きで制作してもらった「ひとつコップ」。
小谷さんのコップのことを小谷さんが多大な影響を受けた
外村吉之介さんは「タンブラー」とも呼んだが、
それはイギリスの田舎言葉で「転がる」という意味。
コップを小谷さんがつくり始めた頃、まだ製法が完成していなくて、
置くと転がりかけることがあった。
それでも素朴で、一生懸命さがあって、
小谷さんの雰囲気を醸し出していることから
外村さんはタンブラーと呼んだのだろう

日本の陶磁器をヒントに

 

 私は日本酒が好きなため、小谷さんにぐい呑みをつくってくれと盛んに頼んだこともあった。しかし、当時の小谷さんは「自分はあまり酒が呑めないからなあ」と乗り気ではなかった。ところが盛岡で仕事をしているうちに、小谷さんは酒が呑めるようになった。私は、小谷さんが盛岡を訪れるタイミングを計って、「九州民窯展」という小鹿田焼を紹介する展示を光原社で催した。小谷さんは展示を見に来て、坂本茂木さんのぐい呑みを買ったそうだ(私にはそのことを言わなかった)。

 そして、そのぐい呑みを真似して小谷さんはガラスのぐい呑みをつくり「久野ちゃん、どうや? これあげるわ」とそのぐい呑みを持って来てくれた。  これは焼物のかたちだなと私は思ったので、瞬時にこう考えた。小谷さんがつくるさまざまな物は何か違和感の無いかたちをしているなと。ガラス作家はたくさん存在するが、違和感を感じる物がずいぶんあるものだ。  たとえばイラン、メキシコ、イタリア、東欧、ドイツのガラスなど各国にガラス工芸がある。そういう古い物を見ながら作家たちは制作の参考にしているが、そういう物の選び方が小谷さんの場合は少し違うのだろう。日本人の眼を和ませる雰囲気の物が出来てくるのだ。それは吹いた本体その物ではなくて、造形的な部分にも感じる。

 「このぐい呑みは坂本茂木さんの焼き物を参考にしたのでは?」と聞くと「そうだ。あなたの展覧会の時に買ってこれをつくってみたんじゃ。ガラスでつくってみたらおもしろいじゃろ。なかなかいいやろ?」と小谷さん。私は「これはいい! これからこれをつくっていこうよ」と興奮した。

 その時、この人は日本の陶磁器のかたちからヒントを得ているなと思った。倉敷の民藝館でも小谷さんはじっくりと物を見ている。ガラスではなくて焼き物を見ているのだ。そうして改めて小谷さんのガラスを見ていくと、これはあの焼き物のフタのかたちを参考にしたのではと想像できた。小谷さんがつくるピッチャーなど手(ハンドル)の付いた物も洋風ではなくて、日本の焼き物的な趣きがある。つまり、小谷さんは日本の陶磁器の優れた物を倉敷の民藝館の中で見て、それをガラスに置き換えてつくり直しているのだ。そこが彼の凄いところだと思う。こういうつくり手は他にいない。

坂本茂木さんのぐい呑みのかたちを参考に、
小谷さんが制作したガラスの杯型ぐい呑み

左は坂本茂木さんがつくった刷毛引きの茶漬け茶碗「5寸どんぶり」。
その原型は日本民藝館にある、李朝の刷毛引き茶碗を
茂木さんは自分でアレンジしたのだ。
刷毛は目がきれいなので、こんなに深く引かれることはない。
茂木さんはしっかりしたキビ殻を束ねて、
このように明快に白化粧土を落とすことができた。
そのかたちがいいから、制作を頼んだのが中央のぐい呑み

吹いた後に道ができる

 

 民藝派の陶工には濱田庄司の焼き物のかたちを真似する者がけっこういる。濱田は自分のかたちを追いかけるのはコソ泥だ、大きな泥棒になれと言っていた。では濱田庄司は何を真似たかというと、日本各地の古い民窯の焼き物の造形の美しさ、模様や技法、色調を会得して自分の物としてつくり上げたのだ。ところが今のつくり手は濱田に憧れ、濱田のかたちをなぞってばかり。沖縄ではほとんどの陶工が金城次郎を真似している。だから濱田庄司や金城次郎を超える者が出てこないのは当たり前なのだ。  小谷さんは日本の焼き物を原点にして、それをガラスに置き換えて自分の雰囲気をつくりながら吹く。2分間の中でかたちをつくらなければ瞬時にして割れてしまうガラスで独創的な造形の物をつくるのは、焼き物よりも難しい。並大抵のレベルでは不可能だ。小谷さんはただ者ではない。  小谷さんがスケッチで絵を描いているのを眼にしたことがあった。その絵には巧い下手ではなく、心に訴える魅力を感じた。それで、小谷さんは絵心というか詩心を持った人なのだと思った。そういうところも他の人とは違うと。

 よく私が話題に出す小鹿田焼の坂本茂木さんは破天荒なつくり手ではあるけれど、文章は上手だし、独得のかたちの物をつくりだす類いまれな天性の才覚の持ち主。小谷さんもおそらくそういう人なのであろう。

 小谷さんは一人で吹きガラスをおこなう「スタジオガラス」のパイオニアとして広く認められている。雑器類をどんどんつくりだしたのも小谷さんが初めてだ。値段も民藝品的なリーズナブルなもので、美しくて、いい物。3拍子揃っているから、みんな欲しくなる。だが、それができる人間の凄さ、どれだけの才覚の持ち主であるかをみんなは知らなのではないかと思う。  今や倉敷はガラスの町と言われる。岡山県を代表する産業にもっていった、小谷さんの業績ははかりしれないものがある。  たぐい稀なるスーパーマンのつくり手が偶然、ガラスの仕事に携わった。彼が歩けばその後に道ができてくる。これは柳宗悦が民藝の道を開いたのと、分野が違うだけで変わりないことだ。小谷さんがガラスを吹く。すると、その後に道ができる。その後をたどっていけば、生業として成り立つ。小谷さんはそういう存在だと思う。

 彼に納品書を書いてもらった時に驚いたことがあった。普通は単に「フタ付き壷」だとか「飴釉」などと製品の特徴を品名の欄に書くが、小谷さんは100種類以上の製品それぞれに違う名前を考え、書きこんでくるのだ。

 たとえば花紋様のある花瓶は「花花瓶」という名称にしたり、「紐付き胴挿し瓶」「細長首長瓶」などいろいろな名前をつけてくる。自分のつくった物に名称をつけるのは大変難しいことなのだ。100種類以上の製品全部に異なる名前をつけられるのは、仕事の内容を熟知しているだけでなく、それ以上に文学的な才能があるのだと思う。

 だからこそ、たかがクリスマスツリー用の小さなガラス玉を一日3000個と吹く仕事をしていながら、このガラスのコップを吹いたらどうかという投げかけにすぐに応じられた。飯が食えなければ、普通ならば辞めてしまう仕事を続けたのは、彼自身は「生きていくために必死だったから」と言うが、私はそうではないと思う。彼の才覚が成せることなのだと。

左は宙吹きのコップ。右はイランのガラスによくあるかたち。
持って指が当たる所に突起が付いている。そのかたちを取り入れたのだろう

 小谷さんが知り合ったばかりの私に対して「君とは一生のつき合いになるかなら」とパッと言ったのは、彼が私のことをきちんと見てくれていたから。そういう判断力も希有なのである。小谷さんは貧困の中から、貧しさを押しのけて、この仕事に打ちこんできたことで、人間の悲しみも喜びも知っている。そのため、彼を嫌う人はほとんどいない。本当に幸せな人だと思う。みんなから喜ばれ、好かれ、つくった物はみんなから持ち上げられるのだから。

 優れているといわれるガラスの作家の仕事もこのところ見ているが、小谷さんとの違いは、どうやって自分の仕事を見せようかとか、どういう物をつくろうかとあくせくする点。ところが小谷さんはごく当たり前に自然にそういった物が出来上がって来るのだ。絶えず自分とつくっている物との距離もきちんと持っている。一日につくる量と、自分がどの程度仕事をしたらどこまでいけるかということをきちんとわかり、実感しているのだ。それは同時に直感でもある。感性的に非常に優れたものを持っている人ゆえに成せることなのだ。

 作家というのは、何か作家らしい風貌があるが、小谷さんはそういうものが皆無。一見、その辺にいるおじさんが大変な才能と力を持っているのが凄い。日本人の中でも滅多にいるものではない。

 小鹿田焼の坂本茂木と小谷真三の二人は日本の手仕事文化の中で大変な功績を残してきたと私は思う。日本の普通の社会、普通の生業の中から飛び抜けて出てきた、優れたつくり手だった。時代と分野が違えば、また大変なことを成し遂げた人だろう。たまたま一人は焼き物であり、一人はガラスであった。

極めつきの個性

 

 ガラスは沖縄の物を見てもわかるように、チームで一つの物をつくる。そうでないと出来ないのだ。ところが、小谷さんはたった一人でつくる「スタジオガラス」を日本で初めて確立した。なぜ彼が一人で制作したのか。それは彼自身の個性ゆえ。集団では制作ができないのである。

 彼は昭和40年代の若い時、沖縄の奥原ガラスへ10日間ほど勉強に行っている。その際、彼はあまり仕事をしなかったと奥原ガラス代表の桃原さんは言っていた。「仕事をしないで、つくった物を盗んだようなものだ」と。

 小谷さんはつくっている物よりも製法をどうしたらいいのかというのを会得したんだと思う。奥原ガラスでは桃原さんを核にして、4〜5人がチームワークで集中した美しい流れの作業工程を見せる。小谷さんは職人として、つくり手として、この美しい流れをどうやったら自分一人でできるのか、じっと見て研究し、今の仕事にもっていったのだと思う。

ガラスのコップをいただいて、冷たい日本酒を呑んでいた時、
やはり日本酒は徳利で呑むよりも冷酒はガラスの方が匂いは付かないと気づいた。
それで小谷さんにガラスで何とか片口をつくってとお願いした。
製品が出来た時、いい片口が出来たなと思ったが、
小谷さんのつくる物はきちんと高台がある。
このかたちは焼き物からヒントを得たかたちなのだろう。
注ぎ口も上手に出来ているし、色をぼかしたような感じにとお願いしたら、
飴色を淡くしてくれた。酒の色を殺さない色合いだ

 小谷さんはそれから誰もがつくったことのなかった、手吹きによるコップを完成させた。その後に小鉢をつくり、ミルク注やピッチャーなどさまざまな物をつくり出していく。それは独自の世界。誰かが教えたのではない。倉敷の民藝館にある物とその背景にあるもの、柳宗悦が展開した民藝の根本的な美しさ、良さは何であるかを小谷さんは体で会得したのだ。実践活動と心理的な面の両方を彼は自分のものにしたのである。

 小谷さんは不世出の人だと思うし、小谷さんの仕事そのものを再現できる人は絶対に出てこないと思う。彼には極めつけの個性があるからだ。

手仕事とか手吹きと言うが、小谷さんの仕事は「息吹き」だと思う。小谷さんの内面から生まれる息の吹き方が造形をつくり出し、民藝の良さを知った人の心をなごませ、欲しいと思わせるのだ。  78歳の現在も精力的にガラスを吹いている小谷真三さん。この年齢で吹きガラスの仕事をしている人は他にいないだろう。息子の栄次さんをはじめ、彼の良さをくみとって仕事を受け継ぐ人はいるが、何より小谷真三さんには長生きしていつまでも仕事を続けて欲しいと願うばかりだ。

 折しも8月9日までは鳥取民藝館で小谷さんが自身でとっておいた物を200点あまり選んで自選展として展示している。小谷さんらしさが伝わる、とてもいい内容だと思うので、ぜひ見ていただければと思う。

 

(語り手/久野恵一、聞き手/久野康宏、写真/田中良子、久野康宏)

7月6日まで鎌倉「もやい工藝」にて
小谷真三さんのガラスの近作展を催している。
展示総点数は小物類を除いて220点くらい。
今回は同じ大きさのコップをわざわざ
宙吹きで制作してもらった。
わずか5個だけしかできなかった。
簡単には販売しないつもりだ

右は「ワイングラス小」。
俗にリキュールグラスと呼ぶ小谷さんの定番製品だ。
左のワイングラスを店に置いていたら玉の所から
貫入や温度差で折れてしまうことがまれにある。
その折れ方がぴたりと平面になったためなんとなくいい感じに座る。
思いのほか使いやすくて、
砥石できれいに平行にして自分のぐい呑みにしていた。
マイぐい呑みにしてどこかに行く時に持ち歩いているうちに、
どこかに忘れてきてしまったので、
小谷さんにわざわざつくってもらうことになった