コップとの出合い
私が小谷真三さんの名を初めて知ったのはいつだったのかは記憶が無い。35年前、民藝店を自分で始めようとしていた時には、何となく「倉敷に小谷真三さんあり」と知っていた。民藝に携わる人ならば誰でも同じと思うが、いつの間にか「倉敷ガラス、小谷真三」が頭の中に入ってくるという感じなのだ。
たとえば「小鹿田焼の陶工、坂本茂木は良い」「沖縄の金城次郎は凄い」というのは誰から聞いたわけでもなく、何となくわかるもの。今なら、「あけび蔓細工の中川原信一は、なかなかいい仕事をしている人だ」というのも、この世界の人は何となく知っている。
もやい工藝を設立した当時、私は渋谷の宮益坂にあった「べにや民藝店」の経営者、奥村正さんと親しかった。もやい工藝も杉並区永福町でスタートし、奥村さんの自邸も西永福町だった縁もあったのかもしれない。まだ私は工藝店を構えておらず、民藝品を卸す仕事についたばかりの頃、べにや民藝店を使わせてもらい、小石原焼の太田熊雄さんの展覧会を開くことになった。そのため奥村さんと一緒に九州まで旅した。その時、倉敷に寄りたいと言う奥村さんに誘われるまま、途中下車した。奥村さんは難波産業という大きな繊維問屋に向かった。この会社の社長が民藝に強い関心があり、また正さんの父である画家、奥村土牛の大ファンで、絵も購入していたこともあり、正さんと懇意にしていた。そんな難波さんを通して、べにや民藝店で小谷真三さんのガラスを販売したいと奥村さんは考え、お願いに行ったのだった。
同席していた私は「小谷さんはそんなに素晴らしい人なのかな?」と感じた。わざわざそこまでして頼まなければ入手できないのかと。
難波さんは小谷さんがガラスの仕事に入った頃から、製品を買い上げてコレクションしたり、他の人に差し上げたりして、小谷さんをバックアップされている方だというのも、その時に知った。こういう立派な方が地方にはおられるのだなあと。経済人だけど、大旦那的な雰囲気があり、こういう人たちが地方の制作者を育てていくのかなとしみじみと感じた。
岡山のデパート「天満屋」には民藝振興株式会社が民藝コーナーの売り場を持っていた。岡山の民藝協会がつくった民藝店で、外村吉之介さんらが日本各地の民藝品を広めていく運動と同時に、それらをデパートで販売をおこなう普及活動の先駆けであった。民藝ブームのさなかの時期だったこともあり、売られている物は大変素晴らしい仕事による物が見受けられた。そのことを今でもよく覚えている。
その中に品数は少ないものの、ガラスのコーナーがあった。そこには小谷真三コーナーが設けられ、私は初めて小谷さんが具体的にどのような物を制作しているのか目にすることになった。
まず目に入ったのはコップだった。私はまだ若輩者だったため、造形的な物への眼がまだ備わっていなかったのだ。民藝というのは、日常の暮らしの道具で、花瓶や作品は民藝品ではないと思いこんでいた。そのためコップに非常に興味を覚えたのである。しかし、自分の家でどのようなコップを使っていたかというと、どこかのビール会社の景品だったと思う。小谷さんのコップはずいぶん大ぶりで分厚く、強い魅力を秘めていた。
小谷さんが試行錯誤して制作した物。製品としては世に出なかった
薄グリーンに惹かれる
泡が入ったブルーの小鉢や小皿など好感度抜群の雑器類を見て、自分も欲しくなったが、当時の私には買いたくてもお金が無かった。すると、奥村さんが「しばらくしたら、うちの店で取り扱うから、その時に買いなさいと。安く出してあげますよ、久野さんがそんなに好きならば」と言ってくれた言葉が印象に残っている。これは6月くらいの話だったと思う。
それからしばらくして、たしか9月か10月の秋だったが、奥村さんから電話があり、興奮した口調で「久野さん、小谷さんの作品がたくさん入ったから見に来ない?」と。もう、私は喜び、飛んで行った。お店に着くと、ちょうど荷を開けているところで、お店の人も嬉しそう。そんなに欲しかった物なのだなと私も一緒になって喜んだ。
「久野さん、好きな物を買いなさいよ」と言われて、まっ先に手に取ったのはコップだった。これをお店の人は「タンブラー」と呼んでいた。淡い色合いがいかにも手仕事の良さを感じさせた。
分厚くて重い薄いグリーンのコップ。
斜めに「モール」が入り、雰囲気がとても良く、
がっちりして、ぶつけても割れない。
今、見ると沖縄のガラスに似ている。
非常にどっしりとしていて、たくましい。
それでいて柔らかな温かみがある。
さらに薄いグリーンの色がしっくりとしていて、
私は小躍りして、この色のコップばかりを抱えた
小谷さんは段ボールの中にコップを6個入れて発送。いわゆる半ダースの箱が積み重なっていた。その割れにくい送り方が上手だなあと感心した。それらの多くは透明な美しいコップだったが、中には薄いグリーンのコップも少し混じっていた。同じ箱の中に透明と薄いグリーンの物が混在している理由は何なのか、私は不思議に思った。私は薄いグリーンの方に惹かれて、そればかり20個ほど手元に集め、これが欲しいと言うと、奥村さんと店員さんたちは顔を見合わせた。「久野さん、コップという物は本来、透き通っていないといけない。そっちの方が主流なんですよ」と言う。私はそんなことはおかまいないなしに、これが欲しいと答えると、「お金はいいですから、持って行きなさい」と奥村さん。結局、3ダース、18個の薄緑のコップと、透き通ったコップも2個ほどいただき、とても感激した。
その後、小谷さんは雑誌でずいぶんと紹介されるようになった。新宿「備後屋」では年に一度展覧会をおこなった。その初日には朝6時からお客さんが10人、20人と並び、開店と同時に奪い合っているという記事も載っていた。奥村さんの「べにや」も「うちでもいずれは展覧会をやりたいけれど、まだそれほどの実力は無いけれど、頼んではいます」とのことだった。
また、奥村さんや地方のさまざまな人を通じて、小谷さんが一人でガラスの仕事を始めて苦労してようやく製品になったというストーリーを耳にした。当時の民藝店ではガラスの製品は沖縄とメキシコの物以外はほとんど無かった。それでも沖縄のどっしりとしたガラス、たとえば牧港のガラスはとても良いと思える物だった。小谷さんはつくる量も限られ、民藝店が欲しくても手に入らない。東京では「備後屋」と小さなギャラリーのみが小谷さんの展覧会を開催できる程度だったが、やがて「べにや」でも扱えるようになり、そのことが私と小谷さんをつなげるきっかけになったと言えよう。その他には倉敷に行けば見かける程度で、他は昔から小谷さんとつき合いがある店のみにだけ製品が置いてあった。
避暑地の工房にて
それからしばらくして、1977〜1978年頃、盛岡「光原社」オーナーであり,友人の及川隆二さんから、小谷さんが今度、盛岡に工房をつくることを聞く。及川さんの祖父、及川四郎さん(光原社を創設し、宮沢賢治の先輩である、彼が「注文の多い料理店」を出版した時にバックアップした人物)は、小谷さんがこの仕事に取り組み始めた頃、援助するにあたり、約束したことがあった。いずれ小谷さんの仕事が順調になったら、盛岡に工房を設けて制作しないか?と。小谷さんは義理堅い人なので、その約束を果たさねばと、盛岡で仕事をしてもいいということになったのだという。もちろん光原社としては仕事場を提供したいと、小谷さんのまかないまでする約束をした。
だが及川さんは、工房をどういうふうにしたら良いのか見当がつかないので、一緒に小谷さんの工房のひとつを見に行かないかと誘われた。そこは岐阜の飛騨古川という高原だった。この地では小谷さんの戦時中の上官だった安土(あづち)さんが農業や林業の仕事をされ、広大な農場と牧場を持っていた。夏の暑い時期に涼しい所だから、牧場でガラスを吹かないかと小谷さんは安土さんに声を掛けられた。小谷さんは喜んで応じ、牧場に工房を建ててもらったのだ。
牧場を訪ねると、牛を引っ張って歩いている青年を見かけた。安土さんの息子だった。小谷さんも安土さんもいなかったので、工房の場所を尋ねると「あの小屋です」と指差す。それは牛小屋のような、簡素な小屋だった。及川さんは工房の図面を描き、建て始めていたが、「こんな程度の小屋で仕事ができるのか?」と驚き、あんなに大げさな工房にしなくても良かったのになあと冗談を言っていた。安土さんの息子によると、小谷さんは来られても1〜2週間くらいしか滞在しないが、脇で仕事の様子を眺めていておもしろいので、見よう見まねで自分も毎日のようにガラスを吹いていると話した。彼がそうして制作したガラスを白州正子さんが眼に留め、「とてもいい仕事」と思ったようだ。私たちの眼から見れば素人的な仕事なのだが、他の見方からすると素晴らしいと眼に映ったのだろう。それで白州さんが安土さんの息子のガラスをひいきにして、彼は後に大作家となっていくのである。
紫色をぼかしたコップ。
心を和ませてくれる雰囲気がある
小谷さんは自分の居ない間に自分の仕事を真似たガラスがつくられ、売られているということもあり、この牧場の工房からはなんとなく身を引いていった。そして、やはり高山の私の知人でコーヒー店「藍花(らんか)」を営む黒坂和夫さんと親しくなる。黒坂さんは自分の知り合いに、飛騨温泉郷のひとつ「中尾平ホテル」のご主人が世話人でガラス好きだから、そこでも仕事をしましょうかと工房を建ててくれた。小谷さんはそこへ年に一度、夏の間はガラスを吹きに行くようになった。吹かれた物の半分は中尾平で販売し、残りの半分は「藍花」が買い取って売っていた。
盛岡の光原社で小谷さんの工房を設けていた時期に重なるように、及川隆二さんはアーリーアメリカン・スタイルの自宅を新築された。彼はシェイカー教徒の家に惹かれていて、とてもシンプルないい家だった。及川さん一族が暮らす敷地は500坪ほどの森の中にあり、岩手山がきれいに見えるロケーション。中央の芝生を取り囲むようにして一族の家、漆職人の家、そして小谷さんの工房があった。私はこの工房で小谷さんと初めて顔を合わせることになった。私にはひとつの先入観があった。当時、私が見た小谷さんの写真は黒い仮面をかぶって制作している風景だった。つまり顔はあまり見ていなかったのだ。実際の人物は気さくな、普通のおじさんという雰囲気だったのが驚きだった。
それで、すぐに打ち解けることができた。その時の私は開店して間もない「もやい工藝」で小谷さんのガラスを扱うなど夢にも思わなかった。せいぜい光原社から分けてもらえればいいかなと考えていた。自分は沖縄のガラスなど実用的な製品を扱えばいいのだろうと。小谷さんはその頃はかなり著名になり、展覧会を開けば、どうしても作品的要素が強い物を吹くため、それを扱うのは自分の店ではまだ無理かなと。その後、小谷さんと盛岡で会い、一緒にお酒を飲みに行ったりして、友人のように仲良くなっていく。
初めての注文
23年前「もやい工藝」が鎌倉佐助に移店した際にお世話になった方をご招待した。小鹿田焼の坂本茂木、柳瀬朝夫さんなど日本各地のつくり手の方を呼んだのだ。松本民藝家具の池田三四郎さんや、その頃に親しかった「古道具坂田」の坂田さんも来ていただいた。その宴会の場でみなさんに提供したいと、小谷さんにぐい呑みをつくってもらおうと私は思いつき、初めて倉敷の小谷さんの工房を訪ねた。先にも述べたように、淡い薄グリーンのコップが好きなので、この色が若干入って、小ぶりで日本酒がおいしく呑める物をつくってほしいと依頼した。
宴会用に制作してもらったぐい呑み
頼んだぐい呑みは、10月初旬、宴会の2日前に小谷さんから送られてきた。ぐい呑みが入る箱には真っ赤な色紙が貼られ、黒い字で「お祝い」と書いてあった。中には納品書が入っておらず、小谷さんに電話すると、「お祝いであげる」と、全部で60個ほどいただいた。私は驚き、そんなことがありえるのかと恐縮すると、「いや、あなたとは長い付き合いになるだろうから、これは門出のお祝いだ。お互いによろしくなあ」と言ってくれた。
この一件以来、小谷さんに頼めば、当たり前のようにつくってもらえるようになった。それで「もやい工藝」でも小谷さんのガラスを置きたいと、盛岡で小谷さんと会った時、あなたのガラスは魔力がある、私はそれほど魅了されていると伝え、ぜひ扱わせてくださいとお願いした、すると「ええよ」と小谷さん。「あなたとは一生のつき合いになると思うから、よう売ってくれよ」と言ってくれた。そういうふうに私のことを見てくれているのだと感激した。
関係が深まったことで、いきなり「もやい工藝」で販売会を開こうということになった。つまり、関東近辺で小谷さんのガラスを常に置き、展覧会もおこなえる店は東京の「備後屋」「べにや」そして「もやい工藝」の3軒になったのである。
小谷さんと親しくなると、倉敷に行っては彼のもとへ顔を出すようになった。「自分の長い歴史ではずいぶんいろいろな方にお世話になって、ここまで来れたのだから、あんたみたいに頑張っている人を見るとなあ」と面倒をみてくださった。こうして現在に続く長い交流が始まり、3年に一度は必ず展覧会を催し、頼めば分けてもらえるという深い関係を築けたのである。
型吹きと宙吹き
小谷さんのつくる物の中でもとくに人気が高いのは雑器類だ。これほどの人が吹いたのに、こんな値段でいいのというくらい安い。おのずと大変な量をつくらないといけないため、仕方なく内弟子にコップと小鉢、小皿、中皿を吹かせて量産化を試みたこともあった。しかし、内弟子が制作できなくなった一時期にはガラスはできなくなったことも。そのため小谷さん自身が吹きだしたのだが、ほんのわずかな数しか吹けなかった。
そんなある時、小谷さんは車のドアに手をはさんで指を怪我して、何ヶ月間か休んだことがあった。そして休養後、最初に吹きだした時に、原点であるコップからまず手がけた。よく見ると少し曲がっている。その後、微妙にコップのかたちが変わっていったのには理由がある。それは「型吹きコップ」といって、型にガラスの吹き種を入れて吹くためだ。どうしても型(缶詰みかんの缶)がしばらくすると錆びたり歪んだり、熱で溶けたりするので、替えなくてはいけない。そのたびにコップのかたちが変わるのである。
また、小谷さんのガラスの特徴である、斜めのライン「モール」は割り箸を内側に挟み込んで当てて生み出していく。当然、割り箸は熱で燃えるので、吹いている途中でモールの大きさも変わってくる。そういったことで通常のレギュラーサイズのコップも微妙にかたちが変わってくるのである。
そのためコップをよく観察すると、小谷さんがどんな状態で吹いていたのか見えてくることがある。私もガラスのことが少しずつわかってきたので、定番製品のコップなどを制作する際に用いる「型吹き」だけでなく、作品をつくる時の技法「宙吹き」(吹きながらかたちをつくる)でコップをつくらないのかと尋ねた。「久野ちゃん、それは勘弁してよ」と小谷さん。ガラスは2分間で冷却し、壊れてしまうため、その間にかたちをつくらないといけない。コップのような単純なかたちの物をつくろうとすると、かえって難しいのだ。ところが私はあえて宙吹きコップを頼んだ。これは「ひとつコップ」という名のオリジナル商品となった。 |