手仕事調査Kuno×Kunoの手仕事良品

Kuno×Kunoの手仕事良品

#009[龍門司焼の飯碗]鹿児島県姶良郡加治木町
龍門司窯の工房
 私がこの民藝の仕事に入ったのは昭和47年。その頃、全国の民窯(みんよう)地図の、鹿児島県には苗代川と龍門司という2つの窯が載っていて、独特の名称に惹かれたものだった。当時はそれらの窯でどのようなものをつくっているのかはわからなかったが、翌年たまたま手に取った雑誌「太陽・日本やきもの旅行」のグラビアに龍門司焼の工房の写真が載っていた。その南国的な情緒が漂う工房を見て、無性に訪ねたくなったのである。
 昭和49年に車の免許を取ると、早速、車で龍門司窯を訪ねた。窯への道中、宮崎の友人に教えてもらった、都城(みやこのじょう)市の某民藝店に立ち寄ったのだが、店内には龍門司焼の品物が並んでいた。初めて見る三彩流しなど独特の明るい感じのものは、心に訴えるものがあった。
 当時は焼き物ブーム、民藝ブームの真っ盛りだった時期のため、窯出しすると、その日のうちに物が無くなってしまう。注文するには、つくり手の人に焼酎を1本持って行かないと受けてくれない。いきなり訪ねても駄目だと店主は言う。ところが私は楽観的な人間だから、行けばなんとかなる、くらいのつもりで訪ねたのだった。
 龍門司窯の工房では、10人ほどの人たちが学校の教室のように並列して仕事をしていた。誰もが黙々と仕事をしていて会話が無い。まるで学校で陶芸教室を開いているような、かといって古い趣きの工房だし、なんとも不思議な雰囲気だった。
 ふと、一番年輩の方が「どこから来たのか? 何をやっているのか?」と声を掛けてくれた。「実は今度店を出すので、少し欲しいんです」と言うと、「あなたみたいに若い人が扱ってくれるのは良いことだ」とお世辞を言われつつも「ここは注文でつくっているから、窯出しすると、すぐに品物をさばいてしまい無くなる。委託販売はしないし、全部買い取りだ。その上、個人客もいっぱいいて、とても間に合わない」と言う。この窯を初訪問して抱いた第一印象は、「話しづらいし、鹿児島弁も聞き取りにくい。ただ立派な方がいるな」というものだった。その人が後に友人となる川原史郎の父、光(みつ)さんであることが後でわかった。

ロクロを回している川原史郎

 三重県伊勢に神楽(かぐら)焼という窯があり、そこの当主が奥田康博という方で、彼は民藝のつくり手の中では名を馳せた人だった。私はこの人がつくるものにとても魅力を感じていた。ある日、奥田さんのもとを訪ねると、鹿児島ナンバーの車が停まっていた。「なぜ、鹿児島ナンバーの車がここにあるのですか?」と奥田さんに尋ねると、「龍門司窯の息子がこの窯に修行に来ている」と言う。それが川原史郎という私よりすこし若い男だった。私はその日、奥田さんの家に泊まり川原とすっかり意気投合した。翌年、彼は自分の窯に帰るのだが、そのおかげで私も龍門司窯に行ける関わりができたのだ。 龍門司窯は窯元というより、企業組合である。集団で仕事をして、株式会社的にお互いが株を持ち、全員が役員になって役員報酬をもらう。独立した個々人が集団でひとつの窯を経営しているが、つくるものは、それぞれが注文を取り、そのつくり手が一貫して個人個人でつくっている。そして売り上げた金額は大小に関わらず全て企業組合に納めて、企業組合から給与としてもらう、独特のシステムとなっている。この企業組合の形式でやっているところは、島根の出西(しゅっさい)窯と龍門司窯だけだそうである。 川原史郎は共同経営者のひとり、川原 光さんの息子で、まだ株を持たずに、従業員として仕事をすることに。将来、窯を運営していく一人になるのだが、当時は彼と焼酎を飲むと、仕事に対してのジレンマをよく話してくれた。「注文でつくるものは、蓋付き湯飲みや、夫婦(めおと)湯飲みなど、つまらないものばかりだ」と、くだを巻いていた。良い仕事をする余地がないとは、どういうことなのかと感じた。

 そんなことを思いつつ、当時、親しくおつきあいさせてもらい始めた民藝の先達の一人、松本民藝家具を創設された池田三四郎さんを訪ねた時のことだ。「最近はどこに行っているんだ?」と聞かれ、「九州のあちこちを訪ねています」と答えると、「そのあたりの焼き物は売れているから、最近はいい物がないのではないか? 自分は鹿児島が好きなのだが、今、苗代川や龍門司はどうなっている?」と言われた。
 「実は龍門司に川原史郎という若い友達ができて、彼の仕事の手助けをしたいと思っています」と話した。すると「今、俺が使っている飯碗は龍門司のものだぞ」と池田さん。頼むと、その飯碗を見せてくれた。とても使い心地が良さそうで「きれいな飯碗ですねえ」と感心すると、「今はこんな飯碗はできていないだろう」と自慢する。「そんなことないですよ。この程度ならばつくれるのでは?」と言うと。「そうか、じゃあつくらせてみろよ」と、その飯碗を見本に貸してくれた。そっくりのものがつくれたら俺にくれと言いながら。
 これが池田さんとの初めての物についてのやりとりだったのだが、自分としては尊敬する先輩から物を託されたので、とにかく嬉しかった。預かった飯碗を早速手にして龍門司窯へ向かったのだが、その前に川原史郎宛てに手紙も書いておいた。 「池田三四郎さんという立派な方に会って、お前の話をしたら、飯碗をひとつ託されたので、それを手本にして同じ物をつくってみてくれないか」と。そうして飯碗を持参し、彼の家に泊まるのだが、興奮して二人でこの飯碗について論議をした。それまで龍門司焼の飯碗というと、一般的な民芸品的であまり魅力が無いものが多かったので、彼が本格的に取り組むことで、良い飯碗ができるかもしれないという希望が持てた。実はかといって龍門司には、飯碗の伝統があるかというと、江戸時代や明治期はあまり庶民が飯碗で飯を食わない時代、だいたい米など口にできない時代だから、飯碗の伝統など無かったのである(その後、焼き物の日用品が普及していくと、磁器製の茶碗のかたちを見本としてつくられてきたものがせいぜいだと思う)。そんな状況の中、新たな飯碗づくりに取り組むことが川原にとっては、その後の大きな力になったはずだ。今まで何の目的も無かった仕事から、自分の向かって行く仕事の方針というものができあがった、最初のことだと思う。
 川原の修行先の師匠、神楽焼きの奥田さんという人が急須や飯碗などの雑器類をつくるのが大変上手な人だったことも幸いした。川原はそこでつくりかたを学んだ飯碗のかたちは、池田さんの持っていた飯碗とそうかけ離れたものではなかったので、両者がうまく融合したんだろう。川原はこの飯碗をきっかけに非常に前向きに仕事に取り組むようになったのである。

ツヅラカガイ
台まで釉薬を掛けてある龍門司焼きの飯碗。
化粧掛けする時に指の跡が付くのを汚いとみんなが嫌がるが、
私はそれで良いと言った

 川原がつくった飯碗を池田さんに届けた際、「おおう、良い物ができたじゃねえか」と言ってくれた。池田さんは6年前に亡くなられたのだが、葬式に行った時、仏壇の前に置かれた愛用の物の中に、私が持って行った飯碗に箸が立ってそなえられていた。そうか、愛用してくれていたんだなあと私は感激した。力のある人、見識のある人が当時の僕らみたいな、若くて情熱のある人間に意気を感じ、愛用しているものを貸し出してくれ、ワラにもすがる思いで川原は誠実に応えたのだろうが、取り組んでみて結果が出た。それを優れた方が愛用してくれて終生使ってくれたということがとても嬉しかったのだ。そして思った。流れというのはこういうものなのか、流れは大事にしていかないといけないなと。

(語り手/久野恵一、聞き手/久野康宏)

 

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