隠岐國風土記

隠岐國風土記 巻15「シェフに感謝を」

去年の9月のこと。奥出雲での仕事を終えて、松江の宿に帰ると夜も7時を過ぎ。「信号機がある」本土での運転は少し緊張するので、ちょっと疲れていました。7時か・・・。松江の夜は早く、駅前の宿の近くで飲み屋以外の外食ができるところはそう多くはありません。

 

でも、飲み屋では勉強にならない。塩を見分け、美味しい塩を理解することは塩を作る作業より何倍も難しい。前者は知覚・感覚に属し、後者は運動に属する。ほとんど別物だ。「料理を作れなくてもいい。でも、料理がわかるようになったらいい」と、ある和食の料理人に言われたことがある。爾来、極力良いお店で食事をするようになったし、料理の腕も少しは上がったと思う。まぁ、少なくても自分で食べてまずいものは作らなくなる。

 

とくにあてもなくぶらぶら歩きながら、ふと足をとめた一軒のお店。それが以来、毎月海を渡って食事に出かけ、塩についてシェフと語り合うことになるAL SOLEというお店でした。外に出された黒板のメニューを見ると、どうやらイタリアンのお店のよう。棚からぼた餅というか、歩けばパスタに当たるというか。

イタリアン。信号機がある運転に疲れたところに、イタリアン。とっても夢中な、イタリアン。まさに福音。すぐさまま、入店してコースを頂きました。最初に来たのはジン・ライム。一口した瞬間、このお店のレベルが「普通」ではないことがわかりました。適度なジンの濃さ、そしてフレッシュライムの香り。

 

ところで、私は何を食べたか覚える方ではまったくありません。グルメ日記なんてつけない、メモも取らない。日々のことなのでどんどん忘れる。けれども、この夜のことは今でもはっきりと覚えています。キャンドルの灯火とは対照的な通りの暗さのことや、ジンに溶け込むような音楽のことも。

 

一品目はサーモンのカルパッチョ。これが太っ腹の厚切り!某有名イタリアンシェフのお店で、えらいサーモンのカルパッチョ、というか野菜のカルパッチョのおまけにサーモンがついたようなものを食べたほろ苦い記憶があるので、これはまず好感。

二品目はトマトソースのパスタ。トマトの適度な酸味が広がります。もう疲れは吹っ飛び、ドラマチックな料理の展開に夢中です。そして、パスタと前後して、運ばれてきたのが、「自家製バター」でした。これは思い出の一品です。「自家製バター?」一瞬耳を疑いました。でも、確かに「こちらは自家製バターです」と言われたし。半信半疑ながら、ホイップ状のバターであたたかいパンを頂くと、これが美味しいこと。最初はちょっとつけて食べましたが、たくさんつけても美味しい。「やっぱり、このお店は普通じゃない!」

三品目のスズキの香草焼きをマグロのからすみをアクセントに頂いたときには、

 

Please convey my gratitude to the chef.

 

というフレーズが頭の中をぐるぐる回っていました。「このシェフには感謝を言わなければならない」そう強く思わせるものが、ここにはあったのです。

 

そして、三顧の礼よろしく、三度本土に渡り、お料理を頂いてから、おそるおそるレシピ監修のお話を切り出したのでした。自分が作ったものが一笑に付されてしまうかもしれない、という作り手としての緊張とともに。

Written by 田中浩司 2009.07.21